無事に目指す相手方と会えた喜び![]() メキシコの空港に夕方7時前に着いて、荷物引取り通関すませて外に出たが、肝心の相手方が一体誰なのか、こっちも分からなければ相手方もこっちを知らない、知らない者同志が果たしてうまく探せるかと案じていたが、不思議な事に大勢の現地の出迎えの中で、私を見ている視線を感じて私も彼の顔見た、その瞬間直感的に彼が目的の相手であると確信して大勢の人を掻き分けて彼の方に向かったら彼も確信した顔で近ずいてきて、「日本からのHさん?」 「貴方がD社長さん?」双方にっこり、握手してそれからは彼の車で一目散にメキシコ市の中心部にある彼のホテルに直行、バーのカウンターで軽く乾杯してその晩は早々に就寝した。 商談開始 時差ぼけで5時半には目が覚めてしまった。9時からD社長の事務所で打合せ開始。ここで少しだけメキシコの現状(昭和50年代)を書くと1910年にメキシコ革命で独立したものの貧富の差は信じられないほど大きく特に農村部の疲弊が大きかった。面積は日本の5倍もあるが人口は9800万人程。 メキシコ市は海抜2485米と言われ 盆地の為スモッグが溜まって空気の汚れはひどかった。D社長は日本で得た情報ではメキシコ市でも有数の富豪であり企業家であるとの事であったが、実際に会って見るとその通りで、彼ならば今後の共同経営者として共にやっていけると確信(直感)した。既に目的は伝えてあるので前置きは無しですぐ具体的な商談開始。 役に立った在庫管理の経験 ![]() まずは彼の経営している工場を見せてもらったが営業部だけにいたら工場のレベルなんて全く理解できなかっただろうが、有難い事に資材部にいた時に方々の工場を見せてもらってある程度はそのレベルが理解できる知識を持っていた。 偶然だったがその時に工場の資材置き場に入った時に、その管理状態のあまりのひどさに、昔勉強した在庫管理の手法の一つを説明して改善提案をしたら、すぐ工場責任者を呼んで社長自ら私の下手な英語をスペイン語に通訳、工場長の質問を英語に直して私に聞くと言ったやり取りがあった。その後工場長からお世辞半分で私の提案に感謝しているとの発言があり、それ以降滞在中、工場長が自ら現地の工員の質、技術レベルの説明を通訳を通してしてくれて、その情報が帰国後の日本側技術指導員派遣の上に非常に役にたった。 会社の中で違う部門に異動転籍するのはその時は辛い思いをしたが、その時の知識経験が何年かのち全く違う場面で役に立つ、「人皆是我師」で色々先輩に教えて貰って本当に有難かった。人間万事塞翁が馬の諺通りであります。 工場予定地の視察 メキシコ市から西方50キロくらいの所にある広大な玉蜀黍畑が予定地として在るとの事で社長と一緒に出かけた。 黒煙もうもうの整備不良のポンコツ車が列をなす所を走行、その場所に行くのに4000米の峠を越えなければならないが酸素不足でポンコツ車はエンストかあえぎあえぎの走行風景にはたまげた!僅か50キロの距離だが二時間ちかくかかってうんざりした覚えがある。さて現地到着して、予定地の玉蜀黍畑を見た。(どんな場所だったか画像を見てください)
その時に社長の娘さんと子供も一緒に視察に同行した。理由は不明だが日本人が珍しかったのかな? その時の息子さん、まだ3−4歳だったかえらく気があって、日本語とスペイン語で結構意思が通じて私の膝にも来てくれるし社長宅訪問した時にも私のそばにべったりで、社長夫妻が呆れる位の仲良しだった。どんな様子だったか、画像を見てください。
テキーラ初体験! さてくたくたで夜ホテルに戻って社長や工場長と夕食の時に名物の「テキーラ」が出た。 話には聞いていたがどんなものかと興味津々で、一口飲んだら食道から胃の腑までガソリンに火がついたらこんな風になるだとうと思われる強烈な刺激! もうそこからは何も食べられず、なんとか我慢して部屋に戻ったら背広も脱がずそのままパタンキュー! あれは本当に強い酒だった。 数年後ロシアで「ウオッカ」を頂いたが、これも強烈! この二つが東西両横綱でしょう。 社長宅訪問 工場建設の目鼻がついたある日、社長の自宅に招待された。豪邸という言葉にふさわしい自宅であった。玄関の前に番犬?とおぼしき「ワンコ」がいた。 犬好きは犬がわかるし、犬もこの人間は敵か味方かすぐわかるようだ。 そばにいって日本語で声をかけたらなんと尻尾ふってそばに来て私の顔をぺろぺろと親睦の挨拶をしてくれた。お返しに耳の後ろを掻いてやったら、もうたまらんってな顔して体をすりよせてきて、暫くそのワンコと遊んでいたら、坊やが出てきた。ワンコはすぐ坊やのそばに行って同じようにぺろぺろ!「画像を見てくださいね、ワンコには言葉の壁は無いようですよ。 ![]() 日本語でよしよし、いい子だねと言ったらちゃんと尻尾振っていましたもの。 華麗なる晩餐会(嗚呼、神よ、ワレに胃袋を二つ与え給え〜) ワンコと坊やの挨拶の後社長夫妻とその家族と一緒に夕食会が始まった。映画に出てくる通りテーブルの上には飾りローソクが燃えシャンデリアの輝き、そして真っ白な制服を着た召使が執事の指揮の元に次々と料理を運んで来る。メキシコの食習慣なんて全く知らなかったが、テーブルには次々とオードブルからスープ、サラダと運ばれて、ご機嫌でその味を楽しんでいたら、ハムソーセージの盛り合わせがどっさと出てきた。は〜〜これがメインのお料理なんだと合点して無理して殆ど頂いた。勿論社長夫妻も家族坊やまで、皆な旺盛な食欲だった。さてこれで後はコーヒー位かと思ったら、召使がうやうやしく、H様 ステーキの焼き具合は如何なさいます?と聞くではないか。 え、ステーキ? は〜〜あ、あれがメインのお料理ではなかったのか! もう腹一杯なんだがよく分からぬままに反射的にミディアムと答えたら暫くしてどう見ても眺めても250か300グラム以上ありそうなステーキが出てきたではないか! ぎょ!! 厚みは親指以上でお皿一杯のステーキ、ミディアムと言った筈だが表は黒々と焦げている、ナイフを入れてみると真中はレアそのもの。 日本だったら美味しいデミグラソースでもあるでしょうが、調味料は塩と胡椒だけ。 こんなでっかいステーキ、どうしようと周りを見たら夫妻も娘さんも当然と言った顔でぱくついている。 仕方なく廻りのこげた所は分厚くナイフで切り取って真中の所だけ塩と胡椒をぶっかけて、ワインで流し込んだ。ふ〜〜、こんなに出てくるのなら加減すりゃ よかったと思ったがもう後の祭り。 ここで予定されたお料理もお仕舞となり、夫妻や家族と共に庭でデザートを楽しむ事になった。本当の地獄はこれから始まるんですが、何も知らぬ私は庭の眺めを楽しんでもうホテルで寝たい気分。所が社長から「妻の作ったケーキは如何ですか」と聞かれた。 もう勘弁してとノドまで出ていたが、ここで断ったら夫人ががっかりするし、亭主もそうだろうと思って「喜んでいただきます」と返事したら、夫人の嬉しそうな顔、召使が 捧げ持ってきた大皿にはデコレーションケーキがドッカと乗っていた。夫人はHさんには特別よと大きく切ったケーキを私に下さった。 もともと甘党の私はケーキは別腹と思っていたが、このケーキの甘い事甘い事、砂糖屋の大安売りさすがの私もコーヒーの苦味で何とかその一切れを我慢して頂いた。ふ〜〜っ。「Hさん お味は如何でした?」 期待をこめた夫人の黒い瞳が目の前に・・・「は〜〜あ、とても美味しいです」 「それではお代わりをどうぞ」と嬉しそうな顔でまたまた特大のケーキが目の目に来た、もう卒倒しそうな位。 腹の中じゃ胃袋がもう食うな食ったらヘド吐いてやるぞと脅かしてくるのをなだめすかして、一口一口地獄の修行も かくあらんの感じで、頑張って二切れめも全部食べたが、あんな辛い経験は後にも先にも二度と無かった。 オペラ見物 仕事も終わって明日帰国する、夜は早めに夕食をしてのんびりと過ごしたいと思っていたら社長夫妻から滞在中何のお構いもしなかったから、今夜は我々とオペラ見物をしましょう 、特等席が予約してありますから夕食を一緒にしてまいりましょうとのお誘いがあった。 なるようになれと全て夫妻の計画通りにしたが、驚いたのは夕食がレストランで8時過ぎからだった。ホテルへ夫妻が運転手つきのリムジンで迎えに来てくれたが社長はフォーマルでバッリと決めてるし夫人はイブニングドレスの豪華版で魂消た。 こっちは少々くたびれた背広姿で差が在りすぎたがどうにもならない。ええわ!と10時ごろオペラハウスに行ったら、これが別世界!礼装の紳士淑女ばかり、若い女性方は後ろは背中がすっぱと割れてぎりぎりの所まで、前の方はもう胸元が丸見え、目のやり場に困ったが、後々方々の国を訪れた時、ちょっとしたパーティでもご婦人方は皆なこのスタイルで私もすっかり慣れて、見ない事にしてこっそりと鑑賞するだけの 悪知恵もついてきましたが、初めての経験ではもうドキドキするだけで鑑賞する余裕は全くなし。どんな出し物であったか忘れました、聞いてもスペイン語で終始したんですから眠たいのを堪えるだけで精一杯。終わったのが午前一時、彼らの習慣では決して遅いとは思わない様でホテルまで送ってくれてホテルのバーで軽く一杯やってここでやっとお別れ。 ベッドに入ったのは多分二時ごろだったでしょう。 習慣の違いとは恐ろしいものです。 スペイン語の勉強 とにかくスペイン語なんて全く一語も知らなかったが、ホテルに入って翌日の朝食からもう閉口したウエイターはすべてスペイン語で聞いてくるが、こっちはチンプンカンプン、彼らには英語は殆ど通じなかった。ただ有難い事にメニューは英語と併記してあったので、それを指差してこちらの希望の食事が出来たが、これじゃ駄目だと、機会がある度にノートとペンを持ってホテルのウエイター達にこれはスペイン語でなんと言うのかと即席勉強会をおっぱじめたら、閑な連中が集まってきてあっという間に先生100人生徒私一人の状態、簡単な日常会話、朝夕の挨拶や料理の名前 注文方法等ノートに一杯書き止めたら、先生?連中が「発音してみろ」と催促私の発音やアクセントが違うと色々直してくれて、私がホテルに帰ると、スペイン語で話しかけてくれて、復習を兼ねた実戦勉強をしてくれるようになった。 少しずつだが下手なスペイン語を使ってこちらから話しかけると、本当に親身になって教えてくれた。 このお蔭で彼らから 今日はこの料理が美味しいから食べよと教えてくれたり、ワインはじめ飲み物は随分と サービスして貰った。 言葉は違ってもこうやって相手の懐に飛び込むと人種国籍の 違いは吹っ飛んで、お互い人間同士の暖かい付き合いが出来て本当によかったと思っているただ残念な事は、折角うろ覚えで習ったスペイン語は帰国しても使う機会無く頭の中から消え去っていた事だった。 商工会議所の思い出 今回のメキシコ行きの課題の一つに相手方の信用状況の調査があった。日本国内なら色々の調査機関があって、かなりのレベルまでその裏付けを取る事が出来るが海外では 一体どうすれば良いか、全く知識がなかったが、日本側の社長から現地の商工会議所を 尋ねてみたらどうかのアドバイスを頂いた。 この日本側の社長は不思議な方で海外経験は一度も無いのに、各国の実情をまるで自分が滞在してきた様に詳しく教えてくれた。メキシコの実情もしかり、今回のような信用調査についても、調査ポイントを丁寧に教えて貰った。 普通なら見知らぬ土地では大使館領事館等日本政府の出先機関で聞くのが一番と考えられるが海外での一般評価はこれらの出先機関の評価は最低であった。 見知らぬ日本人が行って 色々聞いても「多忙に付き後日再検討する」で態よくお断り、彼らが真剣に働くのは日本から来た 上司か代議士連だけとの話は良く聞いていたので、今回も商工会議所に行くのが一番との意味がよく分かった。某日会議所の責任者のK氏と面談したが、私の様な若僧の質問に丁寧に調べて返事してくれた。お蔭で日本をたつ時の予備知識の裏付けが取れた、予想通り現地の社長は資産家でありかつ実業家としても成功して、現地経済界での評価も高い事がわかって安心。貴重な情報のお礼に市内で日本人が経営している大黒屋という焼肉屋で昼食を共にしましたが毎日の現地料理にもそろそろ飽きが来ていた時だけに久し振りの焼肉がこんなに美味しいものかと感激した・・・と当時の日記に記してありました。 この大使館や領事館のお役人の横柄な態度は後々欧米各国だけでなく、中近東東南アジアでも全く同じでした。 コロラド河 いよいよ帰国の日が来ました。約10日間の滞在でしたが初めてであった事と課題の重要性で芯から疲れました。前日のオペラ見物で午前二時、朝の起床が辛い所ですが、今日帰国するとなると全く身勝手なもので、すっと起床、9時事務所に行って社長や工場長にお別れの挨拶をして空港に行き帰りも日本航空#011便のメキシコ発11時に搭乗。 行きと同じコースを飛んだのですが今度は窓からゆっくりと下界の景色を見て楽しむ余裕がありました。メキシコから北部のエルパソの上空を飛び米国南部のアリゾナに入りますと眼下に雄大なグランドキャニオン生みの親たるコロラド河が蛇行している姿が見えました。 どんな姿であったか画像を見てください 。 ![]() バンクーバーに90分給油と整備の為いて、夕方5時に離陸、此処からはもう夜で太平洋は居眠りしているうちに羽田に翌日の日本時間19時着陸。驚いた事に空港まで日本側の社長が直々に出迎えしてくださってそのままパレスホテルに行き部屋で社長と報告を兼ねて色々話をしていたらもう午前様、社長はタクシーで帰宅、私もやっとネクタイはずして寝る事が出来ました。そんな事で名古屋にいる家族に電話出来ず翌朝電話、すぐ新幹線で帰宅、午後二時久し振りに家族と対面、初めての海外旅行がこれで無事済んだと思ったら気が緩んで缶ビール一缶で6時にはもう爆睡であったとどら息子から聞きました。当時、息子は4歳、わが母は「癌」でもう大分悪くなりつつあった時です。母は翌年の4月に他界。私のいない間妻はは幼い息子の面倒と癌の病の母の看病で本当に大変でした。 |