飯田高校の先生達 その2    2017.03追記



その1に続き、私の人生に影響を与えた恩師二人について書いてみたいと思う。

1.澤柳 博先生

あだなは、「オロシ」--博がなまったものと思う。地理の先生で、平成15年現在も天竜峡のそばのご自宅で悠悠自適でお過ごしとお聞きしている。 何故かオロシとは馬があって、地理の研究室には自由に入らせてもらってそこにある『世界地理」全集を勝手に持ち出して、自宅まで無断借用、2−3日お借りして返却 又次の本を無断借り出し?何ヶ月か忘れたが、とうとう全集全部読みきった。その間オロシは、怒りもせず「やい、面白かったか?」と聞く程度。 

そのお陰で、世界地理に興味を持つ事が出来自然と世界史にも、関心が向くようになり、社会人になって輸出営業を担当して、世界各国を飛び回る様になった時この時の事が基礎となって、本当に助かった。オロシが、杓子定規に、貸し出し規則を持ち出していたらどうなっていただろうと思うと、50年経って、改めてオロシに感謝する次第。


2.市瀬岩夫先生

あだ名は「ウラサ」 先輩の話では、昭和18年に東京から旧飯田中学に赴任された時、東大出の秀才にありがちの色白で 夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる「うらなりかぼちゃ」にイメージがそっくりで、ついたあだ名が「ウラナリ」 伊那弁ではある程度尊敬の意をこめた呼び名が「さ」をつけるので、そこで「ウラサ」となった・・・と聞いている。  神戸の三中 そして旧飯田中学、飯田高校、名古屋大学と色々な先生方に教えて頂いたが、後にも先にも こんな型破りの先生らしからぬ先生はウラサがトップだ。


2-1.物理の先生が英語を教える?


普通の先生なら、担当教科は 1種類と決まってるが、ウラサはまず「物理」 試験で「0点」を取ったので この時のウラサに対しては物理大嫌い、 ウラサも嫌いだった。所が なにがどうなったのか、今度は「英語」の担当になられた。もう記憶が定かではないが、 旧飯田中学の英語は 神戸の三中とは根本的に違って、英語はとにかく「文法」第一主義で、英文は すぐに主語 動詞 目的語 補語とかなんとか、まるで「解剖学」的授業でうんざりしていたが、ウラサになったら、がらりと変わって、音読中心の耳で聞いて理解する英語になり、俄然興味が湧いてきて、急速に
ウラサと接近するようになった。


2-2.自動車の運転を習う

当時何故か飯田中学には、ダットサンみたいな小型の自動車が一台あった。何に使われていたかは知らないが、戦時中はガソリンも無く、校舎のどっかの物置小屋に放置されていたと思うがウラサがある日それを引っ張り出してきた。 何処で都合してこられたかとにかくガソリンを入れて、校庭で皆なの見ている前で 生徒にクランクを廻させてエンジン始動、こんな始動方法、今の人には到底お分かりにならんと思う  が エンジンが唸り車体全体がガタガタと振動していたら、ウラサの運転で オンボロ車が校庭を走り出した!みんな あっけにとられて、ただ見守るだけ。 自家用車なんてものはあるわけがない。 木炭バスが ポコポコ煙をはいて走るか 闇物資を積んだトラックがガタガタと田舎道をよったって行くだけで、車の運転なんて想像もしていなかったのが、ウラサが 平然とやったので、それこそびっくり仰天、たまげた!それ以来ウラサの評判がぐっと上がったのは言うまでも無い。

もっとたまげたのは、当時英語の好きな連中が集まって「語学班」を作りその面倒をウラサが見ていたが、ある日 「野郎ども、 自動車の運転やらんか?」さっそく 語学班の部屋で 前進4段後進1段のギヤ変更の練習開始!クラッチ、アクセル ブレーキの踏み方も ウラサが文字通り手取り足取りで教えてくれた。勿論その間は 英語なんてほったらかし!
そして、、校庭にオンボロ車を引っ張り出して ウラサの指導で交代でギヤ操作の実習をやり、 前進1段の「ローギヤ」でノロノロと校庭を走った! 勿論ウラサが横に同乗していたが、これが1回だけでなく何度も繰り返して、とうとうトップギアで走行する所まで実習を繰り返した。その間、校長からも誰からも文句一つ聞いた事が無かった。
いまの時代だったら ウラサは 「懲戒免職」 実習に参加した生徒は停学処分くらいやられていたかも知れない。 
そのオンボロ車も まもなく廃車となってしまったが、このとき覚えた運転技術が自動車学校で大いに役立った。指導員から「おみゃあ、無免許で車運転していただろう?あーん?」と嫌味を言われたのを覚えている。

 2017.03.21追記

記事の中で車の運転を習った事を書いたがなんと69年ぶりに当時の写真が出てきた。入手の経緯は省略するが、使用した車が戦時中の配属将校が使用していたと記録されていた。田舎の中学に配属されたんだから、野球でいえば二軍落ちのヘボ万年少尉?くらいだろうと思っていたが 昭和19年とか20年に車を運転出来る軍人なんて想像も出来なかったがこうしてポンコツでも配属将校さんが自分で運転する車があったなんて、どうも失礼しました。 敬礼!


もっと珍しいのはウラサを囲んだ当時の「無免許運転予備軍」の一団の写真。撮影は昭和23年との事で皆な16歳の高校2年生(昔の中学5年生)の同期ばかりで 69年も前では写真見ても本人以外誰だったか全く見当がつかぬ(笑)黒矢印が私です。



撮影者は前列左のT君となっているが、これもまたびっくりの種、 当時写真なんて特別な時に写真館に行って撮るものと相場は決まっていた。 ましてカメラなんて戦時中持っていたら「貴様スパイか」と憲兵が飛んで来る時代だったから、終戦直後の昭和23年の撮影とあって、信じられなかった。 だが現実にこうして写真がありその中に御本人様もちゃんといるんだから益々びっくり仰天。 今では、もうみんな立派な末期高齢者、こうして69年も昔の姿見てると感無量です。


2-3.ドイツ語を勉強する(させられる)

ウラサの授業は物理から英語となり さらに「ドイツ語」まで発展した。
旧制中学五年生から新制高校(飯田東高校)の二年生に変更になった
ある日 ウラサが おめえ達は 英語は入学からもう四年間やった、もう充分やったから、今度は「ドイツ語」をやる  との宣言。 今思うと不思議なのは誰も反対しなかった事だった。教科書は 関口存男先生著の
「Elemente der Deutschen Grammatik]を購入、
余談だがこのテキストは50年の歳月を経ても今私の手元に大事に保管してある、既に紙の色は茶色に変色しているが、全頁 最後まで色々書き込みがしてある所を見るとちゃんと授業が行われた事がわかる。
ただ問題は「ドイツ語」の辞書であった。1949年と言ってもまだまだ戦争の
後遺症がしっかりと残っていて、英語の辞書がやっと手に入る時代で、ドイツ語なんて全く無かったが、当時の医者は皆なドイツ語を勉強した筈、だから喬木村の医者の誰かドイツ語の辞書を持っているだろうと、祖父に相談したら有難い事に遠い親類に当たる医者がいて、彼の書斎から辞書を借りる事に成功した。 ただその後、私が将来は「医者」になる為に いまからドイツ語を勉強しているとの噂が喬木村に広がって、往生したのを覚えている。

現在なら 受験に役立たない「ドイツ語」をやるとはけしからん!と 生徒だけではなく親の方からも苦情がでて、即停止になっただろうと思う。
我々もドイツ語を勉強しながら、一方では大学受験の為の英語も 勉強していたが別にそれで 文句や苦情を言った事はさらさら無かったし、それで大学の合格率が悪くなる所か、我々の学年は、最高の大学合格率を出して、先生方を喜ばした位であった。

裏話だが、名古屋大学一年生の外国語は英語とドイツ語が必修で、その他にもう一ヶ国語を選択しなければならなかった。そのドイツ語だが、大学でのドイツ語は既に高校二年生の時にやったレベルであったので、何も勉強する必要無し、そのドイツ語の先生が、必ず宿題をどっさと出すので、同級生は悪戦苦闘していた。そこで その宿題の解答を私が全部引き受ける代わりに、一問につきタバコ一本の契約を結んだのである。当時はタバコは配給制で、貴重品であったので、宿題引受人として 寮にいる同級生の殆どから まきあげたが、晩飯が済むとみんな私の部屋に来て、ためこんだタバコを勝手にプカプカやって あとの吸殻掃除で閉口したの覚えている。ウラサも教えたドイツ語でタバコ稼ぎをやる奴がいると
苦笑していたかも知れない。

このウラサは、世渡り術が誠にヘタクソで、お世辞、おべんちゃら、お追従のたぐいは一切やらなかった。逆に「バッキヤロ〜〜め」と怒鳴るのが名物となって、教育委員会からにらまれて、後輩が次々と校長に出世して行くのに、ウラサは最後まで一匹狼で過ごされた。
飯田高校には 実に二十六年の長きにわたって教鞭をとられ昭和44年に退職されたが同窓会の度に卒業生からウラサにどやされた楽しい思い出の話が出る名物先生であった。

ウラサとは 卒業後も社会人になってからも ずっと文通が続き、昭和62年か63年に女房と一緒に飯田のウラサ夫妻の家をお尋ねした事があった。すごい愛妻家で、頂く手紙には必ずと言って良いほど「女房殿」のことが書いてあり、かみさんと二人で読んでは感心したものだった。 
そんな名物ウラサも 平成11年(1999年)の7月5日に 94歳でお亡くなりになった。合掌


母校というものは、卒業生にとっては、死んでも忘れる事の出来ないものである。母校とは先生そして同級生達と共に過ごした懐かしい場所であるが、神戸の三中も、全く新しく改築されて、昔の姿は何処にも残っていなかったし、飯田高校も、順次旧校舎を取り壊して新築して今は昔日の面影無し! それでも三中の名前を聞いたり、飯田高校の名前を読んだりすると無性に懐かしくなるのは教えていただいた多くの先生達、一緒に悪さをやらかした同級生達の思い出が沸々と湧き上がってくるからだと思う。 昭和19年から20年の6月迄の短い神戸三中生活と戦後の混乱期に、多感な青春の一時期を 伊那谷の 飯田高校で素晴らしい先生達と
同級生と過ごせた事は 本当に有難い事であったと、今でも深く感謝している。


◆2008.10.5追記
なんとウラサのお孫さんから嬉しいメールを頂戴いたしました。

何年か前に子供がパソコンが欲しいという事で購入し、初めて自宅でインターネットを してみんなで楽しんでいた時、自分の名前や子供の名前で検索して遊んでいたのですが何もヒットせず・・・。じゃあひいおじいちゃんの名前で調べてみようということで調べたら「飯田高校の先生達」という記事がありその記事を見たらどう考えてもこれはおじいちゃんの事だということで父に見せたら間違いないよと言う事で親戚とか父の兄弟たちにも知らせたらみんな喜んでいました。おじいちゃんに接する機会が孫の中で一番少ない自分にとっては大変貴重記事で今でもたまに見させて頂いています。
これからも体に気をつけて頑張ってください。





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