池田小学校時代の思い出


和13年(1938年)、前年に勃発した「支那事変」が益々拡大の一途をたどり、13年には「戦争の不拡大」の方針が密かに「積極的展開」に変更され、「戦争」が徐々に国民の間に浸透してきた。

この年の四月、当時私は母と共に長田神社のそばの宮川町の借家 に住んでいたので、入学は長田小学校であった。狭い校舎で全生徒が授業を受けられず、朝組と昼組に分かれての二部授業が続いた。池田小学校 ができたのは翌年の昭和14年で、当時としてはモダンなコンクリートの建物で、モデル校だったと記憶している。

1.西脇先生の話
長田小学校1年生の時の担任は西脇貞子先生であった。池田小学校への転校時に先生も池田小学校に転任された。当時の図画、習字 簡単なテストの数々を母が大事に整理保管してくれて、64年の月日が経った今でも西脇先生の評価の言葉と共に私の手元に残されている。
本当に不思議なご縁で、池田校卒業後信州に疎開、大学卒業、社会人になっても、一貫して文通が続き昭和63年の10月にお亡くなりになるまで、50年のお付き合いを頂いた。本人は微かな記憶しかないが、西脇先生の話では一年生の時の私は手のつけれないほど、暴れん坊だったそうで、一年黄組のガキ大将で、ある時、隣の教室に、椅子を持って殴り込みをかけて、先生につかまって、職員室に引っ張られてきたのを、西脇先生が謝って身柄引き受け?をしてきたらしい・・・。

この話は母も聞いたそうで、池田小学校転校後もどうも暴れん坊だったらしいが、西脇先生の前では大人しくしていた記憶がある。池田小学校には昭和14年の9月長田と蓮池の両校から生徒が転校してきたが、入学のその日に長田組と蓮池組と大喧嘩やったのを覚えている。二年生、三年生の記憶はあまりない、成績は多分クラスでも下のほうだったとおもうが、有難い事に教師であった母からは勉強せよと叱られた記憶は全くない。

2.盲腸炎と「ヒコ」の事

昭和16年(1941)撮影

四年生の時(昭和16年)、九月初めだったか、運動会のリレーの練習の後、脇腹に痛みを覚えて少し離れた尾崎医院で診察を受けたら「盲腸炎」の初期で冷やせば治るとの診断、翌日から学校を休んで患部に真っ黒な塗り薬をつけ、その上に氷嚢を乗せて冷やす治療開始。 毎日毎日根気良くその繰り返し・・結局11月までかかって、やっと盲腸炎なるものは治ったが、長い間寝ていた為足の筋力が全く無くなって、立って歩く事が出来なかった。 9月から12月まで学校には全然登校せず、一人で家にいる生活で、尾崎先生が気分転換に子猫を一匹下さった。マサヒコ(私の名前です)の子分だから子猫の名前は「ヒコ」とつけた。

とてもよく懐いてくれて、病気が治って学校から帰ってくると、不思議なくらい、その時間に家の塀の上で私を待っていてくれた。残念な事に、昭和20年6月の神戸大空襲で家を失い仕方なく飯田への疎開を決めて荷作りを始めた頃に行方不明になって、家に帰ってこなかった。近所を一生懸命探したが遂に見つからず、多分我々がこの家を出て行く事を察して自分から身を隠したのだろう。ヒコの孫か曾孫たちがいまも長田のどこかに居ると信じて・・・。

3.同級生の事

昭和19年卒業の時の同級生の消息は、全く分からない。いま手元あるのはこの写真だけだ。当時の卒業生名簿とか住所録があったかどうかの記憶はないし又殆どが爆撃で焼かれて、転居や転校して、全くバラバラになったまま今日まで来てしまった。池田小学校の同窓会会長の山田様に問い合わせても、昭和19年卒業生消息は皆無との事。近い内に池田小学校のホームペイジが出来るそうだから、それを利用させて頂いて、同級生の消息を知りたいと思っている。些細なことでも分かればと思う次第である。

昭和19年 池田国民学校の先生達 前列中央が初代校長
昭和19年 国民学校正面での記念写真 後列左から二人目が私



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