へ 日本人の考え方9選
・資本主義と人本主義
・利益主義と信用主義
・個人主義と集団的個人主義
・合理的組織論と臨床的組織論
・防衛個人主義と防衛地域主義
・自然管理支配と自然との共生崇拝
・人間中心主義と宇宙中心主義
・一神教と多神教
・生者の論理と生者と死者の共生の論理
日本人の考え方が西欧的な思考あるいは中国や朝鮮的な考え方とは一致しない点が多々あるように私は感じています。現在の日本は第二次世界大戦後の欧米的な科学の知が万能と考えられたり、社会主義的理想論などに振り回されているように私は感じています。そこで欧米的あるいは社会主義的(マルクスだから欧米的の一種だろうが)な考え方は違った日本人の考え方をまとめてみたいと思いました。
・資本主義と人本主義
資本主義は蒸気機関の発明による機械化を通じて、封建時代の古い束縛を脱却しようとした。アダムスミスの見えざる手とキリスト教精神で各個人が自由に動産不動産等の資本を活用して富を生産すれば、世界は豊かになると考えた。産業革命によってヨーロッパは多大な商品と富を生産することになった。しかしながら利潤追求のために人権を無視した長時間労働・環境破壊・商品の輸出先確保の為の植民地政策へとなった。結果的に自然は汚染され、人々の格差は拡大した。
マルクスは労働者階級が国家権力を奪取して、生産手段を国有化し、社会主義的計画経済を実施すれば、富をみんなに分配できる社会が実現できると考えた。しかし、共産党幹部による権力と富の独占と秘密警察と軍隊による支配となり、格差と差別は大きくなっていった。
日本においては江戸中期に労働力の集中投下による勤勉革命が行われた。勤勉革命の基本的な内容は農民による農業のやり方の研究と地域の風土にあった殖産を実施したことにある。また商人資本が開発につぎ込まれた。武士階級は足高制度によって、身分の低い武士も一代限り石高があがり、有能な地位につける制度となった。職人も優れた技能の向上につとめ、日本各地に名産品を作ることとなった。また北前船等のサプライチェーンを作っていった。このことで江戸初期に1100万人の人口が江戸後期には3000万人を超える人口となった。これが勤勉革命です。この勤勉革命の核となったのが高い教育力と識字率であり、藩校や寺子屋などが教育力の基礎となっていた。
江戸期の勤勉革命によって日本は欧米の植民地になることはなかった。また明治維新後も教育力を維持発展させていった。
日本における経済のあり方を一橋大学名誉教授伊丹敬之氏は人本主義と言っています。以下は伊丹氏の考え方です。
人本主義には3つの柱があります。1つ目は、会社は従業員のものであるということ。会社法では株式会社は株主のものですが、「実感として誰のものか」という点において、従業員のものと明確に規定しています。2つ目は、組織の中で働いている人達に対して、金と権力と情報を平等に分配すること。社長と一般従業員の給与格差は、あっても10から15倍程度と考えます。3つ目は、市場には売り手と買い手がいますが、いずれも運命共同体であると考えて、皆で長期的かつ継続的な市場を目指そうというものです。
これを私風に解釈してみたい。まずは動産不動産金融といった資本以上に人間の教育力を中心として人材こそが経済の基礎にあるべきだとの考え方です。その為には高い教育力が必要です。常にイノベーションし続ける教育制度を維持改革していくことが大切となります。日本はその可能性が充分にあるし、あるように働きかけていくことが大切と思います。
また高い教育力と実践力や研究力で、トップダウン的な会社運営から創発的な会社運営がなされることが必要と思います。その為には企業の情報と権力と資金が能力のある人たちに委譲されていくことが必要です。欧米や中国・韓国に比較すると日本は資金・権力・情報の移譲が為されているかと思います。また新NISAなどを通して株式を従業員等が取得し、企業経営に意見を言えるようにする体制を作ると共に、外国資本の日本の会社乗っ取りを防いでいくことも必要であると思います。利益至上主義的なサプライチェーン等は危険です。輸出入を一国に限定するとそれを武器にされてしまうからです。一時的な利益だけでなくて、長期に信頼できる信用取引と複数の原材料調達場所や商品販売地域を確保することが必要です。小さな企業にとっても大企業の下請けだけに依存するのではなくて、高品質高機能で少量多品種の自社ブラインドを確立し、消費者との直接取引をするなどで、サプライチェーンを複線化していくことが必要と思います。
西欧的な資本の利益至上を目的とした資本主義から人々と自然と他の国々との共存共栄が出来る人本主義の考え方を普及させたいと私は思います。
資本主義経済は英語でcapitalist economyになります。これに対して自由主義経済はliberal economyとなります。利潤だけを目的とするのではなくて、誰にでも公平で自由な活動ができ、自然とも共生共存できるliberal economyであることは人本主義の考え方と一致すると思います。
・利益主義と信用主義
人はそれぞれ自分の利益を求めて生きています。利己主義的であることは大切なことであり否定することは出来きません。しかし同時に自分の利益が他人の不利益にならないようにすることが大切です。また自分の利益と他人の利益が一致する利己他主義的活動をたくさんしていくことが大切だと私は実践しています。自宅前の平島公園を奇麗にすることは、地域の子ども達が安全安心で遊べる利他的活動であるけれど、緑がいっぱいになって我が家にきれいな空気がたくさん運ばれる自分の為にもなる活動でもあります。
利益を求めての活動は人間の活動の中で必要なことです。しかし人間は利益の為だけで活動しているわけではありません。子育てを考えてみましょう。子育てに対する親の投資は親の利益の為とは言い切れません。遺伝子的に刻み込まれた本能的な要素もとても大きい。親子の信頼関係に基づく愛情がその根本にあると考えられます。
人間は鷹のように孤高に生活できることは出来ません。仲間同士の信用関係に基づく助け合いによって生命を繋いできました。単純な利益主義ではなくて互いの相互信用によって活動していくことが必要です。
意図的に信用主義的な活動を普及させていくことが私は大切かと思います。信用しての活動では何回かは裏切られるかもしれません。しかし繰り返していけば利益主義的な活動よりも信用主義的な活動の方が大きな価値を産むと考えるのが日本人的な考え方ではないでしょうか。きちんと監視されていなくても、見えない所でも仕事の手抜きをしないとのやり方が大切かと思います。
・個人主義と集団的個人主義
奴隷制社会・封建制社会・軍部独裁社会・社会主義的独裁社会において、個人の自由が尊重されることは大切です。もちろん自由主義社会においても個人の自由と個人主義は尊重されるべきです。しかし同時に人間は社会的存在であることも事実です。
荒れる子ども達との活動をしていて感じることがあります。子ども達の荒れるエネルギー(emotion=情念)をその子どもの為になる方向性に傾斜(=Engagement)するように働きかけていく。すると情念が創発的(emergence)なものになっていきます。創発的なものになった場合に、それを他の人の為にもなる活動にしていきます。すると他の人から感謝されます。この感謝によって、荒れていた子ども達は自信を持つこととなり、自然と落ち着いて有意義な活動をするようになります。そもそもエネルギーはたくさんあったのだから、良い方向性に傾斜していけば素晴らしいものとなり評価が高くなるのです。
人間が個人として自信を持って活動するということは集団の中でも認められていることでもあります。ですから個人主義だけを謳歌するのではなくて、人間の場合は集団的個人主義なのではないかと私は思っています。
・合理的組織論と臨床的組織論
合理的組織論は産業革命以来の科学の知に裏付けられています。科学の知とは普遍性・論理性・客観性です。科学の知的に正しければ間違いのないかのような信奉的なものがある。しかしながら現実世界は科学の知だけでは理解できません。現実世界は小宇宙と大宇宙が混然として存在しています。また事物事象には多数の要素が混ざり合って存在していて、一つの論理では解決できないものの方が多い。そして何よりも人間関係は主観と主観とのぶつかり合いや切磋琢磨であり、どのように変容するかは主観と主観との関係性の中で大きく変容します。
科学の知に対して臨床の知との考え方があります。科学の知の普遍性に対して宇宙性、論理性に対して多義性、客観性に対して主観同士の相互交流性であす。科学の知を前提とした合理的組織論では解決できないこともあります。臨床の知を応用した臨床的組織論の考え方も大切です。
令和6年7月の胃カメラ検査で私は胃ガンが見つかりました。9月5日に胃の3分の2を摘出し、胃の上部と十二指腸をつなぎました。確率的に2週間くらいの入院の人が多いのだそうですが、1000人に一人くらい胃閉塞状況になり、胃から小腸に食べ物がいかなくなることがあるとのことだそうです。私は1000人の内の一人になりました。確率が0.1%でも私自身にとっては100%になります。一週間の絶食をし、胃にチューブを入れて食べたものを出し、胃と十二指腸の繋いだ部分を胃カメラで再度飲んで膨らますことになりました。このプロセスは私にとってはとても学びになりました。他の胃ガン手術の人の3倍の43日間入院をし、特別胃カメラ室、特別レントゲン室などに入って処置してもらいました。とくに胃カメラ室では胃カメラの医師2人・看護師3人・胃ガン手術をした医師3人の8人で対応してくださいました。
臨床医学の現場では予定通りでないことがたくさん発生します。医師・レントゲン技師・胃カメラ医師技師・栄養指導士・リハビリ指導士・看護師・病室の清掃担当者・食事を作ってくれる人たちなどたくさんの職種の方々がそれぞれ自分の能力を上手く発揮してくれました。また高額医療費の適用なので多額の支払いの必要はありませんでした。
科学の知的な合理的組織論から言えば、その時の一番普遍的で論理的で客観的に正しい事をトップダウンでやれば上手くいくことになります。またそこで従事する人たちはその能力を100%発揮して、合理的な組織運営がなされることになります。しかし現実はいつも変容していて突然に何かが起きてしまうものです。
臨床的な組織論で考えてみればそれぞれの従事者は100%ではなくて50%程度の能力発揮が、結果的に効率的になると私は思います。50%ですから余裕があります。他の職種の人たちのパフォーマンスを学ぶことが出来ます。違った職種の人たちが一緒に仕事をすることで創発性(emergence)が出てきます。互いの創発性が触発されることで新しい価値が生じることになります。合理的組織で3人の人たちが100の能力を発揮して、300の物を作るより、臨床的組織で3人の人がそれぞれ50%の能力を発揮すると、600とか1000の物を創ることが可能となるように思います。また世の中は普遍的ではなくて、常でない状態が多いものです。状況の変容に対して、いつも変容できる柔軟な組織であることが必要であると思います。
再度、自分の胃ガンについて考えてみます。科学的に考えれば、日ごろの不摂生や飲みすぎ、仕事のストレスが原因だと思って、客観的な反省が必要となります。しかしここら辺で一休みして、自分を見つめなおす時間が来たとか、病院との日常とは違った生活から学ぶ機会が与えられたとも考えられます。これは主観的な捉え方であると思います。胃閉塞になったのも鼻からチューブを入れて胃の中の物を出すなどとの経験はあまり多くの人はしないだろうから、けっこう辛かったけれど良い思い出ともなります。
普遍性・論理性・客観性の科学の知から宇宙性・多義性(象徴性)・主観性(相互作用性)の臨床の知的な考え方は教育の世界においてもとても必要なことであると思います。
・防衛個人主義と防衛地域主義
胃ガンの手術で一つ学んだことは死ぬことはそんなに怖くないことです。全身麻酔をされてそのまま起きて来なければそれまでのことです。全身麻酔による死亡例は100万人に1人くらいだそうです(高血圧があると100万人に6人・交通事故死亡率10万人に2.79人・1000万円の宝くじは10万人に1人)それにしても当たってしまえばその人には100%です。全身麻酔の前にそんな説明を受けたのですが、全身麻酔で寝てしまってそのまま起きて来ないと考えれば、そんなに怖いものでもないと思うことも出来ると私は思います。
それにしても人間は寝ないわけにはいきません。寝るということは意識が無くなるのですから、完全に無防備です。ほぼ一日一回私たちはこの無防備状態にあると思われます。
寝る時は戸締りをきちんとして、自己防衛をすることが大切でしょう。同時に警察・消防・自衛隊などの公的機関に守ってもらう必要性があります。また資産のたくさんある人は警備会社に守ってもらうことも必要となります。
しかし野ア幸助さんのように警備体制をしっかりとしていても、周囲の人たちが信頼できなければ、その安全を保障することは不可能です。また事実不可能でした。私たちは自分で自分を守るだけではなくて、家族・隣近所・地域の仲間と共に安全で安心な居場所作りをすることが大切と思います。その為に向う三軒両隣の5人の内、最低1軒とは仲良くなっておきましょう。出来たら2軒と仲良くなりたいものです。2軒と仲良く成れば6軒中の3軒ですから半数になります。3軒と仲良くなれば6軒中4軒ですから完全過半数です。その為に、会釈をしたり、家の前に花を植えてお互いに花を愛でたり、落ち葉集めをする時にお隣さんの落ち葉も集めたり、たくさんのもらい物があったらおすそ分けをしたり、自治会活動や公園愛護活動をしたりして、近助力を高めていくことが必要であると思います。孤独なプライバシーよりもちょっとした仲間作りが大切と思います。
防衛個人主義ではなくて防衛地域主義です。
・自然管理支配と自然との共生崇拝
人間は自然と戦い、自然を管理支配してこようとしてきたように思います。とくに欧米にはその傾向が強く感じられます。建造物などでも自然と調和というよりも、幾何学的な物が多いように私は感じます。日本では建造物などは自然と共生共存したものが多いものです。
日本人は山や大自然が神々であり、大自然の恵みに感謝して、山のふもとには神社が建てられています。縄文時代は炭素同位法の測定によって、16500年前からだということだそうです。氷河期を生き延び、その後の温暖な気候にも対応し、稲作の民や帰化人も交えて遺伝子的に日本人は続いています。この長い期間を上手く対応出来たことは自然と共存共生して、自然を崇拝してきたことにもあると私には思われます。
また農業においてもプランテーションのように一つの品種を大きな土地で栽培し、農薬や化学肥料を大量に投入する方法だけが正しいとは限らないように思います。それぞれの土地の特徴とそれぞれの植物の特性を活かし、昆虫や鳥たちの力の助けをかりて、多品種・高品質・少量生産との手法も考えることが大切でもあると私には思われます。
都会での生活においても人工的に便利であることを追い求めるだけではなくて、屋上の緑化活動等々を含めて緑と花と潤いのある生活も大切だと思います。都会でミツバチの養蜂業が営まれることも良いことかと思います。
人は大自然の一部であり、大自然に感謝し、共生していくことが大切と思います。
・人間中心主義と宇宙中心主義
西欧の絵画を見ていると人間中心に描かれていることが多いと私は感じます。日本の絵画では人間はどちらかと言えば脇役であることも多いものです。鳥獣戯画のように動物が主人公になっていることもあります。また西欧思想的な基盤は人間中心的なものが多い。もちろん人間が考えていることだから、人間中心になるでしょう。しかし地球の数十億年の歴史の中で人間の歴史などはほんの一瞬です。地球の営みの中で活かされていることを考えれば人間中心主義よりも宇宙中心主義とか大自然中心主義であるべきかと私は思います。
また地球にやさしいではなくて、人間に優しい地球であってもらう為にどうするかが問題なのではないでしょうか。ゴッホやモネもジャポニズムの影響を強く受けたといえます。
人間中心主義的な発想から大自然や宇宙を大切にする考え方が良いと私は思います。また大きく考えれば人間自体も一つの小宇宙であり、他の生物や無生物も小宇宙の営みでしょう。
・一神教と多神教
いろいろな宗教があることはそれぞれに尊重されるべきであると思います。宗教の自由は大切です。同時に人を神とみる一神教的な考え方とは別に、大自然を神々とみる多神教の考え方も尊重されることが必要でしょう。日本人の多くは無信教なのではなくて、大自然の中に多くの神々がいると考える多神教の仲間であると私は思います。
山も岩も川も海も神々がいます。またキツネもヘビも樹木も神々です。
一神教は一つなのでどうしても対立してしまいます。またその解釈を巡って、同じ宗教内でも分裂して抗争を起こしてしまいます。日本のように多神教で、産まれたら神社にお参りをして、チャペルで結婚し、クリスマスを祝い、お坊様に葬式をしてもらう文化は多様性があって良いのではないかと私は思います。
・生者の論理と生者と死者の共生の論理
キリスト教のお葬式に出たことがあります。私には少し違和感がありました。キリストの像を背にして神父様がいます。その前にご遺体があり、参列者が並ぶとのパターンです。参列者が神父様にキリストの元にご遺体の精神を届けて下さるのをお願いするといった感じでした。ご遺体より神父様が上位です。
日本の場合はご逝去されたらご遺体は仏様となります。ご本尊が飾られ、仏様が置かれ、お坊様は参列者の先頭でご遺体と御本尊にお祈りするとのやり方です。仏様がお坊様より上位です。
私にはこの方が合います。
日本ではご逝去された死者は仏様や神様になるので心だけでなくてご遺体も大切に扱われることになります。生者と死者は分離された存在ではなくてつながっていて共に生きる存在のようです。事実、私の父と母は亡くなりましたが、父や母の遺伝子を私は受け継いでいます。また父や母の思い出や生き方は現在の私の生き方の原点でもあります。今もつながっていることは確かです。
生者の論理だけではなくて、生者と死者の共生の論理が大切ではないかと私は思います。
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