8月15日(玉音放送を拝聴す)−@

嗚呼8月15日ーー@
 昭和20年8月15日、この日はよく晴れた日でした。私は大日本帝国海軍の霞ヶ浦海軍航空隊にいました。年齢は18歳、二等飛行兵曹でした。連日のように飛行機を操縦して特攻訓練をしていました。さわやかな毎日でした。

 お国のために戦死するということは何と光栄なことであろうと真から思っていました。自分が特攻出撃で戦死したら、どんなにか父母が喜んでくれるだろうと本気で思っていました。光栄この上なしの心境でした。

 しかし霞ヶ浦航空隊の上空にも、アメリカ軍の戦闘機や爆撃機が飛来して、爆弾を投下したり機銃掃射を繰り返していました。その当時の私の考えは「敵機飛来せば、自分は必ず防空壕に隠れて身を守るのである。それは卑怯に逃げるのではない。時至れば自分が一機で、敵一艦を撃沈するのである、その時のために自分は今は身を守るのである」と。

 戦争は日に日に急迫していることは知っていました。私はその頃、父に手紙を書きました。軍の機密で詳しいことを書くことは出来ませんでしたが、その内容の一部を覚えています。「父上様、戦争は急迫して来ました。私は元気です。私は必ず使命を果たします。ーーーー」この手紙が父のもとに届いたかどうかはわかりません。

 8月15日、玉音放送があるから“総員整列”の命令が下りました。私たちは緊張して天皇陛下の御放送を拝聴いたしました。何事かと思いながら拝聴致しました。ラジオは雑音がひどく殆ど聞き取れませんでしたが、唯「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」というお言葉だけを聞き取ることが出来ました。

 この御放送を拝聴して私は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、この聖なる戦争を遂行せよ」との尊い激励のお言葉であると思いました。しかし後に次第にわかってきたことは、この御放送は、戦争をやめるとの御言葉であるということでした。

 拝聴を終わって部屋に帰って虚ろな気持ちでいましたところ、隣の士官室の部屋から若い元気な士官の声が聞こえて来ました。彼はこう叫んでいました。「我々は勝つために戦争を始めたのではない。正義のために戦争を始めたのである。それを降伏とはなにごとだ。我々は断じて降伏しない。側近の重臣どもがけしからん。」というものでした。

 私が所属していた分隊約30名は全員が搭乗員(飛行機操縦)でした。後で考えてみると30名の搭乗員は、その当時の帝国海軍では貴重な存在であったと思います。それは殆どの搭乗員は皆特攻出撃で戦死していましたから、操縦技術未熟とはいえ、最後の決戦には使えるという存在であったと思います。

 私が所属していた分隊は、既に8月15日以前に、北海道千歳の航空基地に移動することが決まっていました。千歳には新鋭のジェット機が置いてあって、燃料は片道分で最後のアメリカ本土爆撃を敢行し自爆するのであるとの計画であるということでした。

 多分、8月20日頃であったと思いますが、私の分隊は霞ヶ浦航空隊を後にして、汽車で千歳に向かって出発しました。途中、驚いたことに、多くの陸軍の兵隊さん達が大きな荷物を背負って、自分たちの郷里に帰って行く姿を見ました。もう戦争は終わったから故郷に帰るのだということでした。私達はこれから最後の決戦に向かうのだという意気込みであったのです。妙な気持ちでした。