8月15日(玉音放送を拝聴す)−A

嗚呼8月15日−−A
 霞ヶ浦から汽車で青森へ行き、汽船で函館に上がった筈ですが、この間のことは今は全く記憶にありません。函館から汽車に乗って千歳に向かう途中のことは鮮明に覚えています。車中で私の同僚と乗客の間に激論が起こりました。

 同僚は激しい声で主張します。「我々は正義のために戦争を続けるのである。降伏とは何事だ。必ず勝つ。我々はそのために命を捨てるのである。皇国日本は永遠である。これから我々は特攻基地へ向かうのである。」と。

 これに対してその乗客は静かに言い返します。「あなた達のお気持ちはよくわかります。でも天皇陛下のお言葉が天降ったのではありませんか。私たち日本国民は天皇陛下の仰せられることに素直に従うのが正しい道ではありませんか。」

 同僚は言い返します。「あれは意気地のない弱腰の重臣共が仕掛けた降伏だ。我々は断じて戦う。降伏しない。これから特攻出撃するのだ。」

 乗客の紳士は言い返します。「あのラジオ御放送はたしかに天皇陛下の玉音です。私たち日本国民は自分のはからいを捨てて、天皇陛下の仰せを神様の御声として従い奉ることが国民としての本道ではありませんか。」

 私はこの50歳代の紳士の姿を見、またその主張する言葉を聞いて、郷里(九州宮崎)の父のことを思いました。父はどう思うであろうかと。私は即座に思いました。父もこの紳士と同じことを言うにちがいないと。私の父は師範学校を卒業し、小学校の校長先生でしたが、限りなく天皇陛下のことを尊崇している人でした。

 その時の両者の激論を直ぐ近くで聞いていながら、自分は議論に加わらなかったが、一体私はその時どう考えていたのだろうかと、57年後の今この文章を書きながら考えています。同僚の意見に賛成か、それとも紳士の意見に賛成であったのかと。

 その時の私の潜在意識は、どちらかというと紳士の意見に賛成であったような気がするのです。しかし同僚の意見の内「特攻出撃する」というところは素直にこれを肯定し同意見であったようです。

 さて千歳航空隊に着きました。しかしそこにはジェット機の姿はありませんでした。我々は何しに千歳に来たんだろうかと思いましたが、命ぜられるままに防空壕と思しき地下壕に寝泊まりすることになりました。時々飛行場に出ては練習機に乗って操縦の訓練をしていました。操縦の訓練をする時は、これ以上の晴れ晴れとした気分を味わうことはなかったように思います。

 千歳に来て何日か経ってのことですが、今度は美幌の航空隊に移動の命令が来ました。今思えばこれらの命令はどこから出たのか不思議でなりませんが、軍隊というところは命令によって動くところです。私の所属分隊は美幌航空隊に移動しました。しかしここには飛行機は1機もありませんでした。私たちはここで空しく数日を過ごしました。

 その内、これもどこからの命令か、「もう戦争は終わった。総員郷里に復員せよ。但し世の中は“搭乗員狩り”が行われているから搭乗員の服装をせずに注意して帰れ。」というものでした。しかし実際には搭乗員狩りなど行われてはいませんでした。こうして私は命を得て、美幌から汽車を乗り継いで郷里の宮崎に還りついたのでした。帰宅したのは確か9月20日であったと思います。