嗚呼8月15日−−B

嗚呼8月15日(玉音放送を拝聴す)−B
 青森から日本海廻りの国鉄の貨車に乗って大阪へ、大阪から山陽線に乗り換えて、広島駅付近で列車は止まってしまいました。列車を降りて広島市街を見渡しました。ああこれが米軍が落とした原爆の跡か、見るも無惨な光景でした。名状しがたい悲惨な有様。自分だけが生きていて申し訳ないという感じでした。

 しかし、その時、私自身の腹の底から響いてきた思いを忘れることは出来ません。「二千六百年もの長い間続いてきた日本の国、万世一系の天皇のしろしめし給う国日本、その国が只の一回ぐらいの敗戦でつぶれる筈はない」との率直な思いでした。

 九州へ入って鹿児島本線に乗り、久留米駅のホ−ムで数人の同僚と“胴上げ”をして別れ、九大線に乗り、日田駅でまた数人の同僚と別れ、あとは一人で大分駅から日豊線・志布志線にて郷里の油津駅へようやく帰り着きました。ああ命があって帰って来た、との思いでした。

 古里の油津の町は米軍機の空襲もあり、荒れ果てていました。私は駅から歩いて10分ほどの、空襲で機関銃の弾を受けて、あちこちに銃弾の穴のある我が家の玄関の前に立ちました。ガラス戸が割れて奥座敷が見える家の中には、父と母が割れた火鉢を囲んで寂しげに座っているのが見えました。

 私は大きな声で「ただいま−−」と言いました。その声を聞いて母がびっくりしたような顔をして飛んで来ました。そして私の前に立ちました。その時の母の仕草を私は今も思い出します。母は私の前に立ち、私の頭から足の先まで何回も、見上げたり見下ろしたりしていました。今思えば、父も母も、息子は飛行機乗りであるから、きっと特攻隊で出撃して戦死しているに違いないと思っていたことでしょう。それが「ただいま−−」と帰って来たのでびっくりしたに違いありません。もしや幽霊ではないかと、足がついているのかと見つめたそうです。後日、そう話していました。

 愛国者で天皇陛下を限りなく尊崇してやまない父は、我が家の床の間に掲げてある天皇陛下の御真影を拝しては涙をはらはら流しては申していおりました。「日本国家の開闢以来、初めての、御在位中の敗戦、さぞお苦しい大御心でいらっしゃることであろう、国民として申し訳ない−−」と。

 終戦後、世の中の落ち着きと共に、慈愛深くも尊い昭和天皇様の御聖徳が国民の間に広く深く理解されるようになりました。私はここで−−日本教文社刊・(財)昭和聖徳祈念財団監修・出雲井晶編著の『昭和天皇』−−に書かれてある昭和20年9月27日のマッカ−サ−元帥との御会見の折りのお言葉を引用させていただきたいと思います。
 
 「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。次に戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食料援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合わせである。」(同書P191−192)
 
 また終戦を御決意あそばされた折りの御製を拝誦する毎に、私は聖恩の有り難さに感極まるのを覚えるのであります。その大御心で、あの日、昭和20年8月15日の玉音御放送をなされたのであるかと、あの日、霞ヶ浦海軍航空隊の兵舎で拝聴したあの御言葉が、私の魂の底の底から、津波が太平洋の彼方から押し寄せて来るように蘇ってくるのであります。嗚呼、有り難き哉御聖恩。

爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ  いくさとめけり 身はいかならむとも

 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

 国がらを ただ守らんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり

 外国(とつくに)と 離れ小島(をじま)に のこる民の
                    うへやすかれと ただいのるなり
         (日本教文社刊・夜久正雄著・『歌人・今上天皇』より)

嗚呼 昭和天皇陛下さま ありがとうございます。 ありがとうございます。
ありがとうございます。 ありがとうございます。 ありがとうございます。
頓首感謝合掌礼拝 ありがとうございます。
                 (平成14年8月15日感謝して記す)