2月20日(クロッカスの花に見とれて)
これはお正月にいただいたガラスカップに入った花の実というべきか、苗というべきか、これを陽の当たるところに置けば、そのうち花開きますよ、と言われて、家内が大事に見守っていましたら、近頃になって、ものの見事に美しい花を咲かせました。
最近の私は花を見ると絵に描きたくなります。絵の具は、たくさん揃った色鉛筆か、または顔彩か、この2種類です。今日は木曜休日です。机の上にこの花を置き、眺めていましたら急に描きたくなって顔彩絵具で、つい描いてしまいました。
この花は「クロッカスの花」というのだそうです。何国語かしらと思って『カタカナ語の辞典』小学館刊、を引いてみましたら次のように出ていました。
(英crocus 、アヤメ科の多年草、春、長さ約4センチメ−トルの漏斗状の6弁花を単生する。花の色は紫、白、白地に青絞りなどがある。)
私はこの字引の解説を読みながら、自分で思いました。“漏斗状の6弁花”と字引に書いてあるが、私の目はそれを見ていないようだ、何となく描いているだけである。“6弁花”なんて全く見ていない、これではこの花に対して失礼ではないかと。
「見る」「観る」ということは大切なことですね。心が無いと、否、見る目がないと、見れども見えず、ということになりますね。また、その所謂「見る目」ですね。この目は一体私の何処についているのか、この鼻の上・眉毛の下にある目か、中は黒っぽく丸く、周りは白で、起きている間は開いているが、居眠りや睡眠中は閉じているところの此の目か。
こんなことを考えていましたら、家内が、「今日20日は近くの“西友”で5%引きの売り出し日ですが、何か欲しいものはないですか、これから“西友”に買い物に行ってきますよ」と言うのでした。私は別に買って来て欲しいものはないので「欲しいものはないよ」と返事したのでした。
私の心は唯クロッカスの花の上にありました。“6弁花”は今となっては描き足しようもない、しかし見逃していたものがあることに気づきました。それは朱色の“花心”です。紫の色に見とれていた私は朱色の“花心”を見逃していたのでした。そこで慌てて書道の朱を取り出してきて、それを絵筆に浸して、ちょっちょっ、と上書きしてみました。何だか付け足しのような感じです。
真実の心が其処にないと有るものでも見ることが出来ないのですね。ここで私は生長の家の教義の中心である「実相と現象」のことを思い出しました。肉眼を閉じて、いのちの眼をもって実相を観よ。其処にこそ真実があるのだ。其処に在るものこそ実在するものだ。
現象は無い。実相が在る!!
