3月20日(アメリカのイラク攻撃、宗教人は何を為すべきか)

アメリカのイラク攻撃に想う。宗教人は何を為すべきか。
JOHN 9(ヨハネ伝第9章)
(日本ギデオン国際協会・NEW TESTAMENT)

39 And Jesus said、“For judgment I have come into this world, that those  who do not see may see、and that those who see may be made blind.”

そこでイエスは言われた。「わたしが此の世に来たのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。」

40 Then some of the Pharisees who were with Him heard these words、and said to Him、“Are we blind also?”

そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った。「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか。」

41 Jesus said to them、“If you were blind, you would have no sin;but now you say、‘We see、’Therefore your sin remains.

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

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 聖書のここのところを読んで私の想いはニュ−ヨ−クのテロと、今のイラクの状勢の上に飛んで行きました。民族対民族、国家対国家、憎しみの心底に宗教の原理主義が潜在しているのではあるまいか等と、心は騒ぎます。

 考えてみますと、イスラムの教えもキリスト教も、同じユダヤ教の旧約聖書から生まれ出た兄弟のような宗教であるように思われてなりません。“兄弟仲良く”というのが神様の教えの一番大事な然も分かり易い、当たり前の生き方であると思います。

 アメリカ軍のイラク攻撃が始まるのはもう時間の問題であるようです。攻撃が始まれば恐らく多くの犠牲者が出ることでしょう。フセイン政権が倒れて新たな政権が出来ることになるのでしょうか。

 攻撃によって占領下の平和が一時的に出来るでしょうが、それから後イラクの民衆は過去を忘れて平安一筋の道を歩くことになるでしょうか。心底に、攻撃による被害に対する怨念が残らないでしょうか。或いはまたイスラム原理主義による報復の心情が燃え上がって来ないでしょうか。

 大衆の心の中に潜在する“怨念”とか“報復”の心情というものは、なかなか消え去ることは難しいでしょう。歴史の経過という時間の中でその恨み心はいつの日にか燃え上がって来て、そこにテロ事件が起こる危険性を感ぜずにはいられません。

 テロに対する報復攻撃、報復攻撃に対するテロ、この繰り返しが21世紀の地球世界を彩ることになりはしないでしょうか。

 私はこの原稿をワ−プロで打ちながら、NHKラジオ放送をかけっぱなしで聞いています。

 アメリカのブッシュ大統領が最後通告として、イラクのフセイン大統領一家に48時間以内に亡命するように求めたのに対して、フセイン大統領はこの通告を拒否して攻撃を受けて立つ決意を示したようです。

 私は青年時代に大東亜戦争の末期に航空兵・特攻隊員として戦争に参加しました。軍人にとっては戦争というものは青春の「理想の華」でありました。我が生命を捧げて祖国に殉じるということは何という崇高な生き方であろうかと自分自身を賛嘆致しました。戦争というものは兵士にとってはまことに美しいものでありました。

 いつの時代でも、どこの国でも、戦陣にて戦う兵士達は皆、誇りをもって戦うのであり、彼ら兵士の心情はまことに崇高なものであります。アメリカの兵士もイスラム圏の兵士も心情は同じであることでしょう。

 しかし現実の戦いのその奥にある目に見えない存在、平易な言葉で表現すれば、人間誰でも肯定する言葉「人類は皆兄弟」「人間は皆平等」「肌の色を超えて人類は皆尊い存在」「富める国の国民も途上国の国民も皆人権平等」等々。そのようなことを考える時、現実の不完全な世界を超越した存在があることを、「神の国」とか「仏土・浄土」を人間は誰でも心の底深く感じ取っているに相違ないのであります。

 其処に何れの国民も兵士も、崇高な使命感に燃える如き“戦い”のその奥に、戦いのない世界があるのではないか。それは「人間と人間との争い」「国と国との争い」「宗教の違いによる争い」等々の不完全な現象を超えて、其処には争いの無い、大調和の世界が在るのではないかと誰でも思うに違いありません。

 現象を超越した完全円満、大調和の神の国が今此処に在る。イエス・キリストはまたヨハネ伝第3章に於いて、ユダヤ人の司ニコデモに対して教えて言われました。

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3. Jesus answered and said to him、 “Most assuredly, I say to you、unless one is born again、he cannot see the Kingdom of God.”

イエスは答えて言われた。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。  

6. “That which is born of the flesh is flesh、and that which is born of the Spirit is spirit、”

肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である・
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 このイエス・キリストの教えの中には、人間が不完全な肉体的存在や現象世界に現れている色々な不都合な有様を肉の目で見ることなく、霊の目をもって即ち神のつくり給えるそのままの完全な実相の相を観る者は、神の国に生まれることが出来るのであると教えていられるのであります。そしてその神の国は「いまここにあり」とも教えていられるのであります。

 (※)ラジオ放送は日本時間3月20日12時15分、アメリカのブッシュ大統領がイラク攻撃を開始した旨を報じました。遂に戦争は始まったようです。

 多くの日本国民や、またアメリカともイラクとも直接関係のない世界中の多くの国の人達は今回のこの戦争をどのような思いで見ているのでしょうか。戦争が起これば必ず多くの軍人や一般国民が犠牲になるということは誰でも解っているのに、何故戦争は起こるのだろうか。人間社会で争いや戦争を起こらなくする道はないものだろうかと、考えない人はいないでしょう。

 今はもう21世紀、この辺で地球上から戦争を無くするという人類の智慧が芽生えてもよいと思われます。
 
 私は上記「ヨハネ伝福音書」のコトバを再び思い出します。
 「わたしが此の世に来たのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。」
 「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
 
イエス・キリストのこのコトバは一体何を意味するのでしょうか。即ち「見える」「見えない」というコトバの意味は?

 旧約聖書の「創世記・第1章」において、神は天地創造(勿論人間誕生も含めて)の御業を為し終えて後、次の如く記されてあります。
 
 「神その像の如くに人を創造りたまへり、即ち神の像の如くに之を創造り之を男と女に創造たまへり。(中略)神其の造りたるすべての物を視たまひけるに甚だ善かりき」

 即ち人間は神の像の如くに造られたのであり、神の像の如くとは“神の自己実現”が人間であると解釈されるのであります。そしてその人間は“甚だ善かりき”であり、神と一体なる完全円満なる存在が人間自身である。即ち人間の実相(本当のすがた)は神様と同じ完全円満であり、「神の子」であるのがその実相であります。イエス・キリストはヨハネ伝に於いてそのことを言われたのであると解釈出来るのであります。

 ヨハネ伝の中の「見える」とは、人間の肉体についている肉の目をもって人の現象面を見るならば、人は“悪党”に見えたり“病人”に見えたり“独裁者”に見えたりするということを説明しているのであります。このコトバの中に、人間の実相を観るには肉眼の目を閉じて心の眼をもって神と一体なる人間の実相を観よ、そうすれば今まで見えていた不完全の姿は「見えない」で消え失せて、本来の実相が其処にあるということを見出すことが出来るということをイエス・キリストは教えていられるということがわかるのであります。

「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(前記ヨハネ伝)

 このコトバは肉眼をもって人の姿を見ると、神の子の実相は包み(罪)かくされたようになって、本物の実相があることがわからなくなるということを教えていられるのであります。このコトバは単なる抽象的なコトバではありません。
 
 肉眼をもって人を見ると、フセインは「悪党の独裁者」に見え、またフセインの方から見るとアメリカのブッシュは「侵略者」にも見えるということになるのであります。

 今回のアメリカ軍によるイラク攻撃が一体どれほどの期間続くのか、そしてイラク国はどのような形で存続するのか、全く予想も出来ませんが、何とか一日も早く平和と安全が確保されることを願わずにはいられません。

 何よりも今後の世界中の人類の平和のことですが、宗教者として何を為すべきかということを真剣に考える時、為すべき最重要なことが一つあります。それは決して単なる理想論ではありません。私達は「創世記・第1章」にあるが如く、全ての人は皆神の子で完全であるということ、そして神によって造られたものは皆、甚だ良し、であること。この実相をしっかりと信じ、把握し、悟り、世界の人類は皆同じ神の子であり、その実相を拝み合うという生き方を、今こそ全人類に広め伸べることであると信ずるのであります。全人類と言ってみても60億の人間ですよ、と言って笑う人があるかも知れませんが、神より出でた真理のコトバは決して空しく消え去るものではありません。必ず実を結ぶのです。

ヨハネ伝第1章にはこう書いてあります。
1.In the beginning was the Word、and the Word was with God、and the  Word was God.

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 
2.He was in the beginning with God.

この言は初めに神と共にあった。

3.All things were made through Him、 and without Him nothing was made that was made.

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらない ものはなかった。
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 私達は、「人間は皆神の子であって悪い人は一人もいない、何処にもいない。皆善人ばかりであるから争い等は決して起こることはない。善い人ばかりである。」という実相直視の心を全ての地球上の人々に広め伸べて行くことこそ大切であると信じるのであります。そしてそのコトバは必ず成功するのであります。それでこそ真に世界に大調和が顕現するのであります。
世界平和の祈りを致しましょう。
「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。」
−−−平成15年(2003年)3月20日記す。−−−