1月22日(牛は此處にいるぞ。狂牛病の牛ばかりが牛ではない。『正法眼蔵』である。)

                  『正法眼蔵』「家常の巻」
                 牛は狂牛病の牛ばかりではない。
 福州長慶院の圓智禅師大安和尚、上堂の衆に示して曰く。大安為山に在ること三十年来、為山の飯を喫し、為山の糞を阿す。為山の禅を學せず。只一頭の水牛を看る。若し落路入草すればすなわち索出す。若し人の苗稼を犯せば即ち鞭撻す。調伏すること既に久し。可憐生、人の言語を受く。如今変じて個露地の白牛となる。常に面前に在りて終日露回回地なり。追えども亦去らず也。
 
 牛は牧場や屠殺場にばかり居るのではない。今此處に居るのだ。わが内なる牛を飼い慣らすのだ。このこと解ったか。必死の禅の公案だぞ。この悟りが即ち「家常」である。