8月15日ー1(59年前の終戦の時を また思い起こして H16−8−15記 

59年前 昭和20年8月15日 私は海軍航空隊の特攻要員として 同期30名と倶に茨城県の霞ヶ浦の海軍航空隊にいました。

この日 天皇陛下の玉音御放送があるとて 整列して拝聴しました ラジオは雑音ばかりで 殆ど聞き取れませんでしたが 唯 お一言「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」とのお言葉だけが 聞き取れました このお言葉は あれから59年経った今も尚 私の脳裏に 魂に はっきり刻みこまれています。

この玉音放送を拝聴して 私は 更に力を尽くして 耐え難きを耐え 忍び難きを忍んで軍務に邁進せよとの 御激励の御言葉と 拝察致しましたが 時が経つとともに 解ってきましたことは 天皇陛下のお言葉は 戦争をやめる とのお言葉であったということでした。

兵舎に帰って 思いを巡らしていましたら 隣の部屋から 海軍士官達の次のような激烈な声が聞こえてきました。 

「我々は勝つために戦っているのではない 正義のために戦っているのである それを何ということか 戦争をやめるとは 取り巻きの重臣共はけしからん」。

正直言って 私はこの海軍士官達の言葉を 耳に聞いただけで 特別の感懐はありませんでした ああ あのようなことを士官達は言っているなあと 思っただけでした。

私が所属していた分隊は 8月15日より以前に 上からの命令で 北海道の千歳海軍航空隊に移動することが決まっていました それは座学(講堂に於ける軍学の講義)で ジェット機で 敵国本土を爆撃するというものでした 千歳にそれが置いてあるというものでした。

8月15日の終戦になって 日本の軍隊は 矛をおさめ 外地に居る部隊は 船で帰国し 内地の部隊は それぞれ解散して 郷里に復員するというものでした その方針に従って 日本の軍隊は 解散帰郷を始めていました。

そのような時 私の所属の特攻要員の分隊は 解散することもなく 終戦以前の移動命令通り (はっきりと覚えていませんが) 多分8月20日頃に 霞ヶ浦航空隊を後にして 汽車に乗って 北海道の千歳空港に向かって 移動しました 移動の途中に 私達が目にしたのは 戦争が終わったというので 続々と 荷物を担いで郷里に帰り行く 陸軍の兵隊さん達の群れでした。

それは変な感じでした 我々は これから 最後の決戦をすべく 移動しているのに この兵隊さん達は 戦争をやめて郷里に帰るのかと この違いはまあ 我々志願兵と 徴兵された兵隊さんとの違いであろうくらいに思って見ていました。
青森から連絡船に乗って 函館に上陸し そこから汽車で千歳空港まで行きましたが その汽車の中で とても感動的な場面に遭遇しました それは 私の同期生の熱血漢と 乗客との間の激論でした 同期生は これから我々は 最後の決戦のために いのちをかけて 千歳航空隊に行くのだと 大きな声で話しましたら 同席していた 50才代の紳士が 同期生に語りました 紳士はこう言いました。

「私達 日本人は 天皇陛下の仰せられることを 素直に 有り難く聞き 仰せの通りを実行することが 日本人としての 本当の生き方であります 天皇陛下が 戦争をやめると仰せられたのでありますあら 私達は戦争をやめるのです それが日本人の生き方です」。

それに対して 同期生は主張します。
「あの終戦の御詔勅は あれは天皇陛下の大御心ではないのだ あれは 軟弱な 弱腰な 取り巻きの重臣どもが 画策したものであって 本当に 天皇陛下の大御心ではないのだ そのような まやかしに引っかかってはならない 我々は これから 最後の決戦に向かうのだ」。

私は少し離れた座席で この議論を聞いていて思いました その紳士の年格好・顔つきを見ていると それは私の郷里の父そっくりのような感じです。そこで私は思ってみました 私の父は この終戦ということを どう考えているだろうかと 私の結論は直ぐ出ました 父の考えは この紳士の考えと全く同じであろうと。