8月15日ー3(59年前 大東亜戦争 敗戦して 父母の待つ 故郷に帰る)
美幌空港に滞在したのは数日の間であったと思いますが また 何処からか 命令が来て 「もう戦争は終わったから 郷里に帰れ」というものでした 只ここのところ “搭乗員狩りが頻発しているから 帰途は充分注意せよ”
という触れ込みでした それで服装は飛行機搭乗員らしい服装では 危ないということでした 私は 美幌の駅で服などをチッキにして 宮崎県油津町の郷里に送りました 荷物は約40日ほどで到着しました。
美幌から 各駅停車の汽車に乗って 函館へ そして連絡船で 青森へ 青森からは どうしたわけか 客車がなく 全車両貨車に乗って 日本海の方を廻って 大阪へ出て 大阪で山陽線に乗り換えました そして 広島に到着し ここで原爆投下の悲惨な状況を見ました 目を覆いたくなりました ああこれでは 戦争に負けるのは当たり前だと 思いました。
広島でまた 汽車に乗り換えて 九州に来て 門司から鹿児島本線に乗りました そして久留米まで来ましたが 此処まで 一緒に来た同期生と 別れることになりました 一行10名 私は久大線に乗り 他の者は 鹿児島本線でそのまま行く 駅のホームで“胴上げ”をして 若者一同 再会を誓い 日本国の再建を誓って 別れました。
私は 大分で 日豊線に乗り換え 都城で 志布志線に乗り換えました そして一路 古里へ 油津へ。
郷里の油津駅に到着してみましたら 町は 空襲のため 焼け野が原に近い状態でした それでも 私は 知った道 遊んだ道 育った道を まっすぐに 健在なら 父と母の待つ 我が家へ向かって 歩きました 私は 身に 小さい鞄と 大きな日本刀を 携えていました この日本刀は 若し自分が操縦する愛機が 敵地に不時着した場合に 備えたものでした
我が家の門前に 私は到着しました 我が家は 敵機の空襲銃撃のため 所々に銃弾の穴があいていました 私は 我が家の玄関の 門前に立ちました 窓越しに見えたのは 大きな火鉢食卓を囲んで 父と母が 黙りこくって じっと向かい合って 座っている姿でした
私は 大声でーーーー只 今 ただいまーーーーと叫びました そしたら びっくりしたような顔をして 私の母が 玄関に飛んで来ました そして 私の顔を見 また 自分の顔を上下させて 私の頭から足まで じーっと見上げたり 見下ろしたりしていました これは 私が特攻隊員となっていることを 知っていたからでありましょう 息子は死んで帰るものだと 覚悟を決めていたからでありましょう その息子が 何の前触れもなく 玄関先に突っ立ているから これは英霊かしらと思ったのでありましょう。
父から 後で聞いたことでありますが 息子は必ず帰って来る ということを予感して その当時 物のない時に たまたま町から配給になった お菓子(?)を 食べずに 息子のためにとっておいたのであると言って まだ腐りかけてはいない お菓子(?)を私に食べさせてくれました。この時の感動を 私は忘れません。
