1月17日ー1(峯夫の日記 丁度10年前の 阪神・淡路大震災)
丁度10年前の今月今日、阪神・淡路大震災のあった日、私は神戸市に住んでいました。その日の日記帳を読み返してみました。次にその日記を載せます。
平成7年(1995年)1月7日 火 晴
朝6時頃、ものすごい地震があった。あわてて玄関の外へ出た。部屋はすべてのものが倒れた。もう少し長く寝ていたら、倒れたものに押しつぶされかも知れぬ。少し落ち着いたので、部屋を片付けた。それでも余震があるので、夕方、マンションの人達と一緒に避難することにした。リュックと毛布をかついで、先ず住吉中学に行ったが、ここでは中へ入れてもらへなかった。
阪急電車の線路から上の方は電気もついてゐるが、下の方は電気がつかないのである。それでまたぞろぞろ歩いて南に下り、甲南小学校に避難した。最初は玄関に寝てゐたのであるが、電気がついたら玄関の自動ドアが開いたり閉まったりするので、校舎の二階・音楽室に行った。ここは玄関より暖い。既に二三十名の人が避難してゐた。後からまた多くの人が避難して来た。皆、毛布をかついで来るんぼである。マンションの人達は別の部屋に行ったらしい。
幹子が隣りで毛布をかぶって寝てゐるのである。今日は朝から、西岡氏・稲見氏が電話をくれた。本部の黒河内理事長と松下理事から電話をくれるやうにと、教化部に電話してくれたのであるが、僕の家からは電話が通じないのである。受けることは出来るが掛けることは出来ないのである。これは一体どうしたことであろうか。教化部から報告してくれと言ってをいた。
朝早く、梅原白鳩会長からも電話あり、今日は姫路に白鳩会支部長会議があるのがと言ってゐるので、電車が通じたら行きましょうと返事した。石井氏からも電話あり、西宮龍宮道場の壁が落ちたと報告あり。壁が落ちても後でなおせばよい、体を大切にして下さいと言ってをいた。
油津の兄からも二回電話あり。テレビで神戸の地震の模様を観て心配してくれてゐる。兄から東京の光明宛に電話してくれるやう頼んだ。夜が更けて行く。寒さがしんしんと加はる。ラヂオで、神戸市等で千二百名以上の死人があったらしい。西宮・芦屋もひどいらしい。午後、幹子と二人で様子を観に住吉駅まで歩いたのであるが、とてもひどいものである。家が倒れてゐる。
東神戸病院では怪我人か死人が玄関外に寝かされてゐる。中はいっぱいなのであろうか。住吉駅前のビルが完全に倒壊してゐる。避難生活とは斯くの如きものか。若い子供達は楽しんでゐるやうである。
「甲南小学校の音楽教室にて、毛布を頭からかぶって、この日記を書いてゐるのである。夜十時」
