5月19日(見守る親の愛を 背中に受けて)

                       限りなく 尊く 有難い 親の愛
                       
                       見守る親の愛を 背中に受けて
                     
合掌 ありがとうございます。
 今朝、自宅から出勤途中、まことに美しい光景に出会いました。大きなマンションの玄 関の前で、背の高い父親か、或いは祖父かも知れない男性が、端然と立って、可愛いランドセルを背負った小学校六年生くらいの女の子が、学校に行くのを見送っているのです。

「行ってらっしゃい、元気で気をつけてね」「行って来まーす」と親子の会話はそれだけですが何とも美しいものでした。
 道は一直線の歩道で数百メートル。 女の子は後ろを振り返り振り返りして手を振ります。女の子の可愛い目は天女の瞳のようです。それに応えて父親も手を振るのです。何回も何回も。その振る手は観音さまの手のようです。

 朝の輝く太陽の光を背中に受けて、女の子は進んで行きます。この光景は文字通り“美しい天国”を思わせるものでした。女の子が街角を回って見えなくなっても、父親はじっと立っています。何かを祈っているかのように。

 いつの世も親というものは有り難いもの。親は我が子の幸せを切に願って、愛し育ててくれます。
 それにしましても、今朝見た光景、端然と不動の姿勢で立って見送る親と、可愛い眼差しで見返る子供の光景は尊くも美しいものでした。

 生長の家の聖経『甘露の法雨』の冒頭に掲げてあります「七つの灯台の点灯者の神示」の中に「汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。(前後の文章を省略)」とあります。
本当に親がその子を愛し育むその心は、何にたとえようもない尊く美しく有り難いものです。神の愛、仏の慈悲とはこのことでしょうか。

 この親子の別れ際の光景を見た時、この時、ふと私は昔のことを思い起こしました。昭和十九年の暮れのことです。
 戦争は日本の敗戦の色濃く、私の所属していた宮崎県にある富高海軍航空隊では連日、飛行機操縦訓練・特攻訓練をしていました。

 たまの休日、外出先に私の母が面会に来てくれました。食料難の中を私の好物「おはぎ」をこしらえ、また交通難のところを、くぐり抜けての面会でした。おそらく母は、息子は航空兵であるから、お国のために戦死するに違いないと思っていたでありましょう。

 可愛いかわいい我が子、自分のおなかの中から生まれた可愛い子、しかも末っ子、この子に会いたい一心で、母は面会に来てくれたのでした。
 私と母は夕刻まで一緒に民家で過ごしました。母との会話は、厳格で愛深い教育者である父のこと、台湾に行っている兄のこと、満州に嫁いだ姉のこと等、母が私を見る眼差しは、愛そのもの、優しさそのものでした。そして別れる時が来ました。母に別れの挨拶をして、私は民家の玄関を出ました。航空隊の近くまでは田圃道です。

  私は背中に、見送る母の心の視線を強く感じましたが、この時の私の意識は「うしろを振り向くな、未練を残すな、お国の為に死に行く者が、何の未練ぞ」というものでした。

  あれからもう六十年以上を経た今、その時の若い自分の心情を「あっぱれ、いさぎよし」と思っています。そのやさしい母も百歳で此の世を去りました。

  今朝の親子の愛の光景は限りなく美しいものに感じられました。親の愛、親が我が子を思う愛、そして子が親の愛を感じる心、世の中に世界中に、親子の愛ほどに美しい尊いものがあるでしょうか。

嗚呼、お父さん・お母さん、ありがとうございます。
限りなく私を愛して下さったお父さん・お母さん、有り難うがざいます