9月6日ー4(美幌から郷里油津に帰る 父母の姿を見る)
19−9−6−4
美幌からの復員ーーー郷里に帰りて。
美幌から故郷へ帰る道順は、北海道内の汽車、函館から青森までの連絡船、そしてどうしたわけか青森からの汽車は客車ではなく貨車に乗って、日本海の方を廻って大阪へ。大阪で乗り換えて広島に来ました。見るも無惨、原爆による被害は言葉で表現出来ないものでした。
広島で乗り換えて、九州へ来ました。鹿児島本線に乗り換えました。
30名の同期生達のうち半数以上は中国地方と北九州の出身でしたので、鹿児島本線に乗っているのは10名ぐらいの人数だったでしょうか、久留米の駅で久大線に乗る者と、ずーっと熊本・鹿児島へ行く者と、最後の別れで、駅のホームで一人々々、胴上げをして、互いの健勝を祈って別れました。
僕は原田君達と一緒に久大線に乗りました。原田君達は日田駅で下車しました。それから先は僕は一人旅です。大分駅で日豊線に乗り換えて、一路古里の油津へーーーー。油津駅で下車。限りなく、限りなく、なつかしい、なつかしい家路をたどって、我が家へ向かって歩きました。たんぼ道をたどって歩けば、我が家が見えてきました。戦災でも焼けなかったようです。
家のそばに来ました。機関銃の弾の跡が丸く壁を貫いているのが目に入りました。玄関の前に立ちました。玄関の戸のガラスが破れていました。ずーっと家の中が見えました。
嗚呼、父と母が、奥の方の座敷で、火鉢を中にして、何か寂しげに、じーっと向き合っているのが見えました。(この父と母の光景、僕の心に焼き付いています。永遠に消し去ることは出来ない光景です)
僕は玄関の前に立って、大声でーーーー「ただいまーー」ーーーーと言いました。その声が聞こえたか、母が奥座敷から玄関に飛んで来ました。
そして、僕の前に立ち、何とも言えない顔付き目つきで、僕の顔から頭から、そして目を足の方にまで向けて、何度も顔から足下まで見上げたり、見下ろしたりして、やっと可愛い子が帰って来たと実感したようでした。我が子は海軍の航空兵であるから、きっと、特攻で戦死するに違いないと思っていたことでしょう。それが突然、前触れもなく帰ってきたので、もしや幽霊ではないかと、顔があるか足はついているかと、見上げたり見下ろしたりしたのでしょう。昼間であるのにーーー。
