8月11日(特攻のことを思い起こして 愛国)
特攻のことを思い起こして
「産経新聞社」発行の『正論』平成20年8月号を読んでいましたら、映画監督の新城卓氏と演出家の野伏翔氏の対談が載っているのが私の目を引きました。
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○戦後六十余年 なぜわれわれは「特攻」を描き、伝えたいと思うのか。
○今も日本を守る 若者たちの至純を忘れまい。
○「靖国で会おう」といって散華した彼らとの“黙契”を後生は裏切ってはならない。
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この対談の中の野伏氏の発言に次のような言葉があるのが私の目を引きました。
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特攻隊には、
@志願者が不足して上官が指名せざるを得ない状況に追い込まれて半ば強制的に志願させられた隊員もいれば、
A隊員の多くが「熱望」し、志願者が編成数を超えて人選に苦慮した部隊もあったようです。
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上記@Aを読んで私は思いました。私が所属していた部隊は、宮崎県の富高町に飛行場のある「富高海軍航空隊」でありました。ここで連日、飛行機の操縦訓練に明け暮れていました。私達は操縦技術としては、全てを体得していました。つまり「免許証」取得です。
ある日突然、命令が下りました。「今日の操縦訓練には他の分隊の教官が来て、貴様達と同乗して訓練する」ということでした。練習機は複座です。前席に私(二等飛行兵曹)が乗り、その教官(飛行准尉?)は後席に乗りました。操縦は全て私がするわけです。上空へ上がって「失速反転・横転飛行・きりもみ・急降下・急上昇等々」をやりました。後席の教官は何もせず只々私の操縦技術を体感し見ているだけのようでした。
私は思いました。この教官は一体うしろの席で何をしているのであろうか、何しに俺の飛行機に乗っているのであろうか、前席と後席とを結んで会話も出来る伝声管もあるのに、一言もしゃべらず、黙って乗っているが一体どうしたことか、等と思いなが次々と特殊飛行を繰り返しました。(実は私の操縦技術は大変上手でありましたので、数ヶ月前には航空基地の最高司令官を後部座席に乗せて遊覧飛行のようなことをしたこともあったのです。)
最後の操縦技術「宙返り」をしました。宙返りはレバーを全開に近くして操縦桿を前倒しにして急降下し、下ったところで、レバーを絞り、操縦桿を引いて上向きになり、更に機体が逆さになったところでも操縦桿をぐっと引いたままにして、機頭を下げて降下し、自然に機体は水平姿勢に戻るのです。これが宙返りの操縦法です。
実はその時、私が操縦桿の操作をしながら手応えで感じたのは、後部座席の教官が私と同じように操縦桿を操作しているなあという感じでした。
そうしてです。私は後席の教官が一緒に操作しているので、宙返りで機体が逆さになった時に、ふと、操作を教官にまかせて、自分の操作で操縦桿を後ろに引いていた手をゆるめたのです。そうしたらどうでしょうか。身体がシートベルトと一緒にぶらりと下がってしまったのです。すると後席の教官が叫びました。「貴様、何しているのだ」と。あわてて操縦桿を後ろに引いて、宙返りを実行し、飛行機を水平の状態に戻しました。 まあこういうことがあったのです。
その数日後、突然の発表がりました。今回の他の分隊の教官による操縦訓練は、実は「特攻」の隊員選抜の試験飛行であったのだと。私は特攻隊員の選抜から外されていました。何たることか、最高の飛行機操縦の技術を持つ俺が、特攻隊員から外されるなんて、何ということかと、早速私は、自分の直属の上官の部屋へ行き、特攻隊員にして下さるようにと懇願しました。しかし直属上官は言いました。「貴様はあの操縦訓練の折、宙返りの時、操縦桿をゆるめたそうではないか、あれは特攻隊員選抜のための試験飛行であったのだ」と。
私は何としても特攻隊員になりたいと、上官に懇願しました。そして返事を得たいと思って上官の部屋のドアの外に立って、返事を待ちました。翌日の朝まで、其処に立っていましたが、上官の返事はありませんでした。私は特攻隊員になることは出来ませんでした。まことに残念の極みでした。
私の人生にとって 『残念』 という言葉は、このときのことを指して言うコトバです。
その後私の所属している分隊は富高航空隊を後にして、岩国航空隊へと移動しました。そして分隊は分かれて霞ヶ浦海軍航空隊へと移動しました。此処では特攻訓練に従事することになりました。此処で終戦を迎えたのですが、私の所属分隊は、終戦後にも尚、特攻隊として北海道の千歳空港、美幌空港と移動しました。このことは私の「峯夫のひとりごと」の中に書き込んであります。
嗚呼 愛国の人生 何という素晴らしいものでしょうか。私はこの愛国の青春をこの上なく誇りに思っています。感謝合掌です。
