7月20日(限りなく尊い母の愛を背中に受けて)

母の愛を背中に受けて       
 私の今住んでいるマンションの直ぐ近くに小学校と中学校があります。朝には子供達が元気よく学校に向かいます。見送る父や母が手を振ったり、握手をしたりしています。そして子供の姿が見えなくなるまで立っているのです。
 このような光景を見ていますと、私は生長の家の御教え・神示を思います。
 「ーーー汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。ーーー」(『七つの燈台の点灯者の神示』)
 私はまた若い頃のことを思い出します。それは昭和十九年十月頃のことです。大東亜戦争中、私は宮崎県内の富高海軍航空基地で連日の操縦訓練・特攻訓練に従事していました。
 その頃の休日に母が面会に来ました。「民家」で母と二人で午前午後を過ごしました。食料難の時代でしたが、母は私の好きな美味しい料理をつくって持って来てくれました。やがて時が過ぎて別れの時となりました。下宿の玄関先で母と別れました。私の帰り行く先は田んぼの中の一本道を真っ直ぐに行く航空基地です。
 私は背中に母の愛の視線を感じました。母は末っ子の息子の私をこよなく愛しながら、然し航空兵である息子は特攻隊員となってお国のために戦死するであろうと思っていることでしょう。私は振り向いて手を振って母と別れたいと思いましたが、一方で胸の中で「未練残すな、汝は皇国軍人ではないか」という思いが湧き出てくるのです。背中に母の愛を感じながら、私は遂に後ろを振り向かず、航空隊に戻りました。
 私は子供の頃から、母のことを「おっかちゃん、おっかちゃん」と呼んでいました。父のことは「おとうさん、おとうさん」と呼んでいました。
 時が過ぎて大東亜戦争は終戦となりました。私は特攻隊員でしたが、どうしたわけか訓練ばかりで、出撃することなく、北海道の美幌基地から九州宮崎の日南市の自宅に、終戦四十日目頃に復員帰還したのです。
 お昼頃でしたが自宅に帰り、玄関先から「只今」と大きい声で言いましたら、奥座敷から母が跳んできて、私の顔を見たり足下を見たりしているのです。きっと母は特攻隊の息子が幽霊で帰ってきたのではないかと思ったことでしょう。
 その後私の母は百歳まで生きていました。私は一生「おっかちゃん、おっかちゃん」と母に甘えて百歳までお小遣いをもらって来ました。
 今でも私は背中に母の愛を感じています。あの時の、航空隊に帰る時の母の視線を背中に受けた思いはいつまでも私の魂にあります。今は宇治別格本山にお祭りする「おっかちゃん」は、可愛い息子の背中を見守ってくれていることを信じています。「おっかちゃん、おっかちゃん」ありがとうございます。ありがとうございます。