1月17日(15年前の阪神淡路大震災を思う−−日記を読む)
1月17日・阪神淡路大震災から15年、あの日の僕の日誌を開いて見ました。犠牲になられた御霊様に心から成る哀悼の意を捧げ奉ります。
下記は(平成7年の峯夫の日誌・阪神淡路大震災の日・文章は原文のまま)(但し原文は講談社発行の大日記帳に毛筆で縦書きに書いています)
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1月17日 火 晴
朝六時頃、ものすごい地震があった。あわてて玄関の外へ出た。部屋はすべてのものが倒れた。もう少し長く寝てゐたら、倒れたものに押しつぶされたかも知れぬ。少し落ち着いたので、部屋を片付けた。それでも余震があるので、夕方マンションの人達と一緒に避難することにした。
リュックと毛布をかついで、先ず住吉中学に行ったが、ここでは中へ入れてもらへなかった。阪急電車の線路から上の方は電気もついてゐるが、下の方は電気がつかないのである。それでまた ぞろぞろと歩いて南に下り、甲南小学校に避難した。最初は玄関にねてゐたのであるが、電気がついたら玄関の自動ドアが開いたり閉まったりするので、校舎の二階・音楽室に行った。ここは玄関より暖い。既に二・三十名の人が避難してゐた。
後からまた多くの人が避難して来た。皆毛布をかついで来るのである。マンションの人達は別の部屋に行ったらしい。妻の幹子が隣で毛布をかぶってねてゐるのである。
今日は朝から西岡氏・稲見氏が電話をくれた。本部の黒河内理事長と松下理事から、電話をくれるやうにと、教化部に電話してくれたのであるが、僕の家からは電話が通じないのである。受けることは出来るが、掛けることは出来ないのである。これは一体どうしたことであろうか、教化部から報告してくれと言ってをいた。
朝早く梅原白鳩会長からも電話あり、今日は姫路に白鳩会支部長会議があるがと言ってゐるので、電車が通じたら行きましょうと返事した。
石井氏からも電話あり、西宮龍宮道場の壁が落ちたと報告あり。壁が落ちても後でなおせばよい、体を大切にして下さいと言ってをいた。油津の兄からも二回電話あり、テレビで神戸の地震の模様を観て心配してくれてゐる。兄から東京の光明宛に電話してくれるやう頼んだ。
夜が更けてゆく。寒さがしんしんと加はる。ラヂオで、神戸市等で千二百名以上の死んだ人があったらしい。西宮・芦屋もひどいらしい。
午後、幹子と二人で様子を観に、住吉駅まで歩いたのであるが、とてもひどいものである。家が倒れてゐる。東神戸病院では怪我人か死人が玄関外に寝かせてゐる。中はいっぱいなのであろうか。住吉駅前のビルが完全に倒壊してゐる。
避難生活とは斯くの如きものか。若い子供達は楽しんでゐるやうである。
「甲南小学校お音楽教室にて、
毛布を頭からかぶってこの日記を
書いてゐるのである。夜十時」
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