5月15日(今日も偉大なる御本『正法眼蔵を読む』を拝読しています)

今日も『正法眼蔵を読む(新草・拾遺)』を拝読しています。これを拝読して今さらの如く、人生の生き方というものをしみじみと感じています。
 
(P237ー238)「三時について」に次のような言葉があります。

「一者順現法受。二者順次生受。三者順後次受。」これを三時といふ。佛祖の道を修得するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に堕するなり。ただ邪見に堕するのみにあらず、(略)ーーーこの三時の業、善悪にわたるなり。」

解説文(P238)
さて、いわゆる善悪の報いに三時があるというのはどういうことであるか。先ず三時であるが、一つは順現法受(じゅんげんほうじゅ)と言い、現世の業果を現世で受ける場合である。二つは順次生受(じゅんじしょうじゅ)と言って、現世の業果を次の来世に受ける場合。第三は順後次受(じゅんごじじゅ)と言い、現世の業果を次の来世の後に受ける場合の、この三つをいう。
 これを「三時」というのである。仏祖の道を修するには、その最初からこの三時の業報の道理を習得するのである。ーーーこの「三時の業」は、善業でも悪業でも、同じように善悪の結果が正しく出て、必ず因果の法則が現れるのである。