かざぎりれい
その日は良い天気だった。
ちょうど東京の学会は天気には恵まれたらしい。だが内容の方は惨憺たるものだった。研究者にはありがちだが、机上の空論をあれこれといじくり回したあげく、結局自己満足の結論を披露する。
いつから学会はこんなにつまらないものに成り果てたのかと嘆きながら、俺は席を立った。こんな下らない報告を聞いているよりは、ひなたぼっこの方が数倍マシというものだろう。今日が最終日でもあり、興味ある発表や、義理で聞かなければならない発表も終わっていた。ついでに早めに帰るかと、クロークに預けておいた荷物を受け取って会場を出たところで見知った顔に行き当たった。
「よう、早かったやないか、先生」
大阪弁で話しかけながら片手を挙げたのは、友人の有栖川有栖だった。推理作家の彼は言葉が表すとおり、大阪生まれの大阪育ち、そして現在も大阪の夕陽丘に住んでいる。その彼が何故東京にいるかというと、締め切りが迫っている原稿を書き上げるために、編集者からホテルに缶詰にされていたからだ。一昨日、カステラの差し入れを持ってホテルを訪ねたときにはまだ出来ていなかった原稿も終わったようで、実に晴れやかに笑っている。
「凄い偶然だな、アリス」
「偶然やないで。そろそろ出てくるやろうと思うてお前を待ってたんや」
「俺を、か。こんなに早く出てきたってぇのに、よく擦れ違わなかったな」
「学会がおもしろないって散々ぼやいてたやんか。そんなら、お前のことやから早めに出てくるやろうと思っとったんや」
「へぇ、さすがに推理作家の先生だな」
「何年付き合うてると思ってるんや。そのくらいは分かるわい」
からかったつもりではなかったが、アリスはむっとしたらしい。顔を膨らませる様子が何とも子供じみていておかしい。
「悪かった。で、用は何だ? わざわざこんなところで俺を待っていたんだ。大事なことか」
「そうやった!」
話題が変わった途端、アリスの機嫌は一気に良くなる。まったく単純な奴だ。
「お前、早く出てきたんは、何か急用が出来たためやないんやろ?」
「まぁな。早めに京都に帰ろうかとは思ってるが、それも特別急いでる訳じゃない」
俺がそう言うと、アリスは心なしか上目遣いにこちらを伺う。
「なぁ、火村。お前どうせ今日閑やろ? たまには俺の取材に付き合わへんか? 一昨日の差し入れのお礼も兼ねて奢ったるから」
なるほど。いつもは俺のフィールドワークにアリスが取材を兼ねて付き合うのだが、今回は逆に付き合えということか。推理作家の彼にとっては、犯罪捜査の現場などはまさに垂涎ものらしく、誘いをかけて断られたことはなかった。
しかし、推理作家が犯罪捜査の現場を取材するというのは理に敵っているだろうが、犯罪学者が推理作家の取材に付き合って得することは殆どない。それに関西人のこいつが『奢る』とはね。アリスがそんなに殊勝な奴じゃないことくらい、俺も長年の付き合いで知り尽くしている。
「気前が良いな、有栖川先生。どうした風の吹き回しだ?」
「別に……」
「ははぁ、さてはよっぽど俺に断られたくないんだな。ということは、取材の場所がお前一人じゃ行きたくなくて、俺が行きたがらない所なんだな?」
アリスがギクリと表情を強ばらせる。どうやら図星だったようだ。それにしても、あまりにも感情が顔に出るので、思わず吹き出しそうになる。
「で、どこなんだ? その取材の場所ってのは」
あくまでも俺の口調は厳しい。
「いや、別にそういう訳やのうて……」
しどろもどろのアリスは、俺の目が笑っているのにも気づかない。もうしばらくこの調子でからかってみたいが、後々機嫌を取るのも大変なのでここらで切り上げることにした。
「付き合うよ、アリス。どうせ後は京都に帰るだけなんだから。だから、早いとこ何処に行くかくらいは教えてくれ」
笑いながらそう言うと、アリスほっとしたように胸を撫で下ろす。
「いやぁ、火村やったらそう言うてくれると思ってたわ。今度の話の舞台な、俺、遊園地にしようと思うてるんや。そやから」
「おいっ! 遊園地って、まさかディズニーランドじゃないだろうな」
「当たりや、さすがは火村やな。まぁ、せっかく東京に来たんやし、やっぱり派手なトコがええしな」
「…………」
「どうしたんや、火村?」
尋ねてくるアリスは上機嫌だ。俺が頭を抱えている理由には一向に気づかないらしい。この脳天気さに太刀打ちしようとして、何度諦めたことか。
しかし、だ。カップルか家族連れしかいないようなところに、何故わざわざ俺を誘おうというのか。学生同士ならいざ知らず、大の大人が、しかも三十路をとうに過ぎた男が二人連れでは、とにかく悪目立ちし過ぎるというものだ。
「そういう所に行くのに、何で誘う相手が女性じゃなくて俺なんだ?」
俺は素直な疑問を口にした。有名なデートコースにアリスと二人で出掛けるのに異論がある訳ではないが、その辺りには何か事情がありそうだ。
「はは、やっぱりお前でもそう思うんやな。一応、編集部の女の子を誘ってみたんやけどな、今ちょうど原稿の締め切り時期やからな。誰もマイナー作家の相手して遊んでいる暇はないそうや。そやけどせっかく浮かんだトリックやし、遊園地はみんなが知ってるとこがええやろう?」
やはりそうか。アリスは取り敢えず誰かを誘おうと努力したらしい。しかし、全部断られてしまったため、結局俺に話を振ったということだ。因みに、こいつが一人で出掛けなかった理由も想像がつく。たとえ取材を兼ねているとはいえ、遊びに行くのに一人ではつまらないと思ったのだろう。
実際に聞いてみると、アリスはその通りだと答えた。多少落胆はしたが、そのことで俺は前言を翻したりはしなかった。
そして今、俺たちはディズニーランドの入園ゲートの前に立っている。どうせなら夜のパレードや花火まで見たいという希望をきいて、結局滞在も延ばした。先刻、長ったらしい名前のリゾートホテルの部屋を確保し、ついでに俺は、ややラフな服にも着替えをした。ホテルで原稿を書いていたアリスと違って、何しろ俺は学会に来ていたのだから、それまではスーツ姿だったのだ。
「ほれ」
殆ど走り出しそうなアリスの足取りに、思わず笑いを誘われる。約束どおり二人分の入場券を買い求め、得意そうに差し出した。自慢げなその様子にまたまた笑みが零れる。
「何や、火村、機嫌ええな。ニヤついてて気持ち悪いで」
「こんなところで、眉間に皺なんかよせてもいられねぇだろうが」
「そらそうやな」
全く脳天気な奴だ。俺が何に反応して笑っていたのかを考えずに納得してしまうとは。まあ、そこがアリスってとこか。
ありがたく、アリスが差し出す切符と園内案内図を受け取る。入場ゲートを通った所で、取り敢えずの行動予定を決めるために俺たちは地図を広げた。
だが、その予定は脆くも崩れ去った。余りの人の多さに目眩がしそうだ。
人の波を避けながら何とか園内を一周したが、それだけでくたびれ果ててしまった。何しろ想像を絶するほど人が多いのだ。これは何だ、あっちはどういうものだとアリスがうろつくので、それだけでもほぼ2時間はかかっている。小説家の取材というものは何といい加減なんだと呆れたが、これもアリスに限ったことかもしれないので、一般論は止めた方がいいか。
さすがに疲れてきたのだろう。アリスが喫茶を探そうと言う。それで俺たちは空いているベンチに腰掛けて、案内図を広げた。
「それにしても遊園地ってぇのは悪趣味だな。乗り物にしても、食べ物屋にしても、どうしてこんなネーミングをするんだ」
「そら、しょうがないやろう。何しろ相手は夢見る子供たちやからな。誰も30過ぎの犯罪学者にこびてる訳やないんやから」
アリスはあっけらかんと言い放った。こいつ、俺が誰の付き合いをしてここにいるのか忘れてるな。
「それよかすごい人やな。予想以上や。ほら、あそこレストランらしいんやけど、あんなに人が並んでるで」
地図を指さしながら言うので、アリスの示したところを見ると、クリスタルパレスとある。俺はまたまた頭を抱え込みそうになった。
「まあいい。確かにここは俺向きじゃねぇしな。それよりアリス、本当に夜のパレードまで見て行くのか?」
「当たり前や。半分はそれが目的なんや。それにもう、そんなに待たなくても始まると思う」
パレードまでの時間を確認する。確かに今日の昼までは、そろそろ京都に帰るか、なんて考えいたのに、アリスにここまで引っ張ってこられたのだ。それからホテルを押さえ着替えをして出て来たのだから、ここについたのは午後4時ぐらいだったのだろう。さらにそれから2時間以上も経っているのだから、既に6時近くという訳だ。それでも人が減らないのだから凄いものだ。
都会で、交通網が発達しているってぇのも善し悪しだな。そんなことを考えていたときだった。俺がその文字に気が付いたのは。そのアトラクションはどんなやつだったか。思い出そうとして俺は自分の案内図に目を移した。
なるほどこういうものはあるにはあったが、あまり興味をもって見なかったものの一つだったな。しかし、さっきの名前の話が蘇ってきて、俺はほそく笑んだ。
「何にやついてるんや。あまりのカルチャーショックに火村先生もついに頭にきたんか。それとももう付き合いきれんほど疲れたんか?」
「別にそんなんじゃねぇよ」
「そやったら、一つくらいは何かに乗ってみんか。せっかくここまで来たのに、歩き回っただけじゃ物足りんし。それに、パレードまでもう少し時間があるし」
無理に付き合わせたという意識はさすがに残っているようだ。アリスは俺の方にある程度の選択権をよこしてくれた。
「じゃあ、お前のお茶会にしようぜ。それなら付き合う」
「俺のお茶会って……なんやそれ」
意外なことを言われたというように、アリスは目を見張った。
「ほら、これだ」
俺が指さしたのは、いわゆるコーヒーカップという乗り物だった。名前は『アリスのティーパーティー』。
『不思議の国のアリス』の作者ルイス=キャロルに敬意を払ったためか、コーヒーではなく紅茶というのだろう。
さっきここを一周したときには、アリスがやれコースターだ、お化け屋敷だと騒いでいたので、こういう本当に子供向けのものにはあまり注意していなかった。それで覚えていないのだろう。こんな時間にもなれば子供も減っているはずだから、時間をかけずに何かに乗ろうというのなら、こういうものの方が却っていいのかもしれない。
「そんなんで喜んどったんか。お前の考えていることはよう分からん」
「アリスに分かられたら終わりかもな」
「何やと! まあええ。それよか、これになら乗るんやな?」
「ああ、お前がいいんならな」
「よし! そしたらこれにする」
俺が笑っていたのがよっぽど気に障ったらしい。アリスはかなりムキになっていた。そんなアリスの様子がますます俺の口元を緩めるとも思わないようだ。
それで俺たちは、年甲斐もなく二人でそのお茶会に向かったのだった。だが……。
そのお茶会は、俺たちの予想に反してかなりの人が順番を待っていた。勿論、さっきのコースターの長蛇の列とまではいかないが。大体あんな数分もかからないようなコースターに、何故2時間も待たなければならないのか。俺にとっては無駄でしかない。
それでもここも30分待ちだった。カップを乗せた大きな台を、幾重にも人垣が囲んでいるのには正直言って驚いた。もう夜といってもいい時間帯に、小さな子供を抱えている姿を見ると、要は子供をダシにした親も遊びたいのだと納得する。こういう教育、躾を受けてくれば、社会性や目的意識の無い学生が増えて来たのも当然かと思うと情けない。
「そういや、俺、コーヒーカップちゅうのに乗ったことないなぁ」
ようやく次に順番が来そうだというときに、アリスがポツリと漏らした。
「なんだ、乗ったこと無かったのか」
「ああ、俺はどっちかっちゅうと、ジェットコースターに並んで乗ってた口やからな」
「そうか、これはこれで面白いぜ」
「へぇ、火村は乗ったことあるんか。それでどう面白いんや?」
「例えばあの赤いのと黄色いの、見てみな。回転数が違うだろう」
「へぇ、ほんまや。あっちの青いのなんかえらい速いな」
「だろ? 赤いのはカップルで乗ってるが、二人とも何もしてないからゆっくりだし、女の子二人と母親らしい親子連れのは、子供たちが中のハンドルを回してるんだ。それで少しばかり速く回ってるのさ」
「なるほど。1番速く回ってるんは小学生の男の子が乗ってるやつやけど、確かに一生懸命ハンドル回しとるわ」
すっかり興味を持ったらしく、アリスはそれまで投げやりだった態度を一変させた。それまでは、意地を張ってここまで来たが何とかコースターに変えられないかということばかり考えていたらしい。
順番がくると、アリスはうきうきとした足取りで、カップに乗り込んだ。苦笑しながら、俺もアリスの後に続く。もうここまで来てしまえば、いい大人が恥ずかしいなどという気も失せていた。
「俺がハンドル回すからな」
宣言するアリスの様子は完璧に子供だ。
「どうぞ、お前のお茶会に俺は呼ばれて来ただけだ。任せるよ」
そんな遣り取りをしていると音楽が流れ始めた。いよいよお茶会の開幕というところか。俺は背中をカップの壁に当てて、ゆったりとくつろいだ。
音楽とともにゆっくりとカップが回転を始めると、アリスは待ってましたとハンドルを回し始めた。ほかのカップより明らかに速い加速を得て、カップは急回転を始めた。
そして……。
「すまん」
何とも情けない声で、アリスはベンチに横たわっていた。あまりに張り切り過ぎてテンションが上がっていたのだろう。カップが回転を止めたときにはすっかり目を回していた。ああいう作業をしていれば、むしろ目は回さないものなのに、だ。それで俺は、アリスをベンチまで引きずって行った後、最寄りのトイレでハンカチを濡らして来てやった。
「まあ、原稿で缶詰にされた後で疲れたんだろう。いいから少し横になってろ」
「そうやなぁ。そう言われれば、昨日まで殆ど徹夜やったもんな」
「そうだぜ、推理作家の先生。体調くらいは管理しといてくれ」
そう言いながら俺は、アリスが寝ているベンチに腰掛けた。ちょうどアリスの頭側だ。ついでに額に手を置く。
「それより、火村」
「なんだ」
「今、何時や?」
「もうすぐ8時だな」
「しまった! 場所取りっ」
アリスがガバっと体を起こした。しかし、具合が悪いので寝ていたのに、いきなり起きても体がついてくるはずも無い。仕方なくグラリとよろれたアリスの体を支えてやった。
「なんだパレードならこの辺も通るんだろう。ここで来るのを待ってようぜ」
「そうやな。そうするか」
本当に調子が出ないのか、アリスが珍しいことにおとなしく言うことを聞いた。
やがて遠くから不思議などよめきと一緒に、ネオンサインのお化けのようなパレードが近づいて来た。夜の闇の中でこれを見る者は、確かに一時でも現実から夢の国へ行けるのだろう。俺にさえそう思わせるほど、パレードは綺麗だった。いつもはよく喋るアリスも、綺麗なやなぁと呟いただけで、光の集団が通り過ぎるのを眺めていた。その後の花火にもアリスはいたく満足したようだった。
「さて、そろそろ腹もへってきたことやし、ホテルに帰ろうか」
「もういいのか」
「ああ。もう十分休んだから大丈夫や」
パレードの間座って休んだためか、体調も回復したらしい。しかし俺が訊いたのは、もう見たいものは無いのかという意味だったのだが、まあいいのだろう。本人が帰ろうと言うのだ、俺が反対する理由は無い。
翌日、アリスはかなり寝坊した。だが夢の中でも遊園地にいたようで機嫌は悪くなかった。
その後、まだアリスの遊園地ミステリーは日の目を見ていない。あまりに下らなくて編集から渋られているのか、それともそもそもあの話は俺を誘う口実だったのか……。全ては有栖川有栖だけが知っている。End/2000.11.11
「他人様によるみどりばのためのアリス本」をコンセプトに発行した蒼天初のゲスト本『ロマンチックにリボンをかけて』(1998.05.03)用に、可愛くお強請りして書いて頂いた作品です。実はこれがかざぎりさん初めてのアリスという、記念すべき作品。いやぁ、その節はどーもありがとさんでしたm(_ _)m |
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