絶望の向こう側

くるみ 




 昼過ぎの光はのんびりと眠気を誘った。
 あくびをひとつもらして、火村はダッシュボードからガムを掴み口に入れた。強烈なミントの刺激で少しばかり意識が覚醒する。
 名神から近畿自動車道を抜け、今は阪和自動車道へと入ったところである。車の数も少なく、あたりの景色も変わりばえしない。良い天気だ。ドライブ日和。



***



「ええか、火村。14時15分到着予定やから。まぁ税関だなんだで30分位いるかな。だから遅くとも15時には迎えに来てくれな」
 当然のように迎えに来いとのたまう電話線の向こうの声に、火村は悪態をついた。
「俺が忙しいって言ったらどうするんだ?」
「そんなことあるわけないやろ。この有栖川様が帰国するんやで。おまえかて俺のためにスケジュールあけてあるに決まってる」
「どうしてそう言い切れる? フィールドワークが入ったかもしれないぜ」
「またまたぁ」
 アリスがおかしそうに笑った。
「やって2週間もご無沙汰やったんやで。おまえも俺に会いたいやろ」
 アリスは取材と称してシンガポールへと旅行に行っている。この電話は現地からのカエルコール。
「なぁ。…会いたい、やろ?」
 火村の返事がないので、アリスの声が少しトーンダウンした。
 2週間。短いようで長かった。向こうで刺激を受け毎日を楽しんでいるアリスでさえも長かったと思うらしい。それならわかるだろうが。こちらで相も変わらぬ日々を過ごす火村がどんな気持ちで彼を待っていたか。
「迎えに行ってやる」
 短くそう答えると、アリスが「やった!」と弾んだ声を出した。
「実はお土産買いすぎて、なんや荷物が仰山あんねん。車やなかったらしんどいほどあるし。火村さまさまやな」



***



 連絡橋を渡る。空港が見えている。海がキラキラと光をはねかえして輝いている。料金所で1730円も払った。まったく暴利なこと。腹も立つが、あと1時間もしないうちにアリスに会えると思うと怒りも持続しない。現金な自分に火村は密かに笑った。
 駐車場にベンツを入れ階段を下りる。そこは関西空港駅へ直結している。早足で目の前のターミナルビルへと向かった。トランクを持つラフな服装の人々が通路にひしめいている。出国ラッシュの時間に来合わせたようだった。どの顔も旅行への期待感からかほころんでいる。火村は己の顔もそうなんだろうな、と少し浮き足立った気分でそう思う。
 カラフルなモビールがもてなしてくれる関西空港は、いつ来ても遊園地みたいだ。待ち合わせは1階のレンタカーカウンター前。受付の邪魔にならないように少し脇に陣取り、背を預けた。丁度ここから案内のビジョンが見える。アリスの乗るシンガポール航空976便を探した。どうやら多少早く着くらしい。14時15分の予定時刻から10分ほど早い、14時5分。それが本日の到着予定時刻になっていた。時計を見ると、14時ジャスト。あと5分で着くことになる。
 15時でいい、と言われたのにこんなに早くに来てしまったのは、やはり一時でも早くアリスに会いたいからだろう。バカらしいことだが、今日は朝早くに目が覚めた。平日より早いくらいである。ゆっくりと朝食を食べ、興味はあったが時間がなくて読めなかった本を手にとってみた。だが、中々集中できない。なんだか11時ごろに腹がすいて、食事がてら出てきてしまった。
 そう。会いたいのだ。
 アリスの顔を見たい。笑う声を聞きたい。土産物より、アリスの土産話のほうが楽しみだ。好奇心旺盛な彼のこと、沢山おもしろいことを発見したに違いない。くるくる表情を変えながら報告してくれるはずだ。あぁ早くおまえの声を聞きたいよ。

 そんなことを漫然と考えていた。そのとき。

 地響きがした。
 腹の底から響く音。揺れる建物。轟音。
 びりびりとガラスが振動する。カウンターのパンフレットがばさばさと落ちた。
 相次ぐ悲鳴。
 あっという間にロビーは混乱の渦と化す。
 何が起きた? 火村は辺りを見渡した。地震? いや、そうでもなさそうだ。では一体?
 右往左往している人々を尻目に、火村はどこが一番情報が早いかを考え、インフォメーションデスクの傍に移動した。綺麗に化粧をした案内嬢が電話に応対しながらうろたえている。火村は耳をすました。墜落…炎上。そんな単語が漏れ聞こえた。
 どっと冷や汗が出る。
 まさか…。
 いや、でも。
 時間的にはぴったりなのだ。しかし、確認もしないうちから悪いことを考えていても仕方がない。別の便かもしれないではないか。そうだ、悪運の強いアリスのこと、そんな凶事にまきこまれる訳がない。火村は必死で落ちつこうと胸を押さえた。
 鼓動が跳ね上がっている。当てた手の下でどくどくと音を立てている。がんがんと耳鳴りがする。
 火村は祈る思いで案内嬢の話が終わるのを見つめる。本当に長く感じた。実際は1分やそこらのことだったのだろうけれど、火村にはとてつもなく長く感じた。
やがて、彼女が受話器を置いた。周りの人々が彼女に殺到する。何が起こったのか、どうしたのか。案内嬢は顔を強張らせながら何か言った。聞き取れない。怒号と悲鳴は今もあちこちで続いている。詰め寄られ、カウンターの奥に身を無意識にずらしながら、彼女はもう一度言った。
「…墜落しました。飛行機が、墜落したんです」
 再び、抗議の嵐。それはそうだ。ここは到着ロビー。出迎えの人で一杯の場所。
「どこの航空会社なんだ、一体!!!」
 叫ぶひとりに彼女は気丈にもはっきりと答えたのだった。
「シンガポール航空976便です」


 火村は展望ホールへと走った。情報の錯綜しているここでは正確な事実はわからない。火村は見切りをつけ、自分の目で確かめようと動いた。ターミナルビルからは直接は行けない。もどかしい気持ちで連絡バスへ乗り込み、到着後、展望デッキのある最上階へと駆け上がる。5階なのに息切れも気にならなかった。状況を知りたい、その一心だった。
 そして。
 飛びだして、目を見張った。
 黒煙で視界が悪い。少しばかり風が吹くと、やっと滑走路が垣間見える。炎だ。それと白い機体。いや、その残骸。滑走路をオーバーランして、展望デッキとは反対側の空港島の端でその機体は燃えていた。
 どういうことだよ、チクショウ!
 消防車が必死に放水しているようだが、焼け石に水。炎の勢いは増すばかりで、未だに時折、爆発音がしている。
 あれじゃ。
 火村は泣きそうな気持ちになった。
 あれじゃ、生存者なんて、いるわけない。
 絶望的に見えた。火村の目の前で刻一刻と状況が明らかになっていく。近づけない救助隊。中ほどで真っ二つに折れている胴体。炎。煙。散らばる破片。折れた尾翼――。
 なんでなんだ! どうしてだ! 
 火村は手すりにしがみついた。目を閉じる。身体がぐずぐずと崩れ落ちそうだった。
 失われてしまうのだろうか。
 唯一で無二の、アリス。
 俺の、太陽。生きる支え。そして、俺の全て。
 おまえはあの炎の中なのか?



***



「なんだ、おまえは荷物もちが欲しかったのか?」
 火村は意地悪な気持ちになった。
「なら宅急便でも使えよ。空港のロビーにあるぜ」
 そう言うとアリスは慌てたように早口になる。
「火村、そんないけずなこと言わんでも。なぁ来てくれるってさっき言うたやん」
 懇願する口調に優越感を感じる。
「…アリス。どっちかはっきりさせろよ」
「どっちって?」
「荷物もちの俺が必要なのか。それとも恋人の俺が必要なのか」
 恥ずかしげもなくそう言うと、アリスがギャっとかゲっとか奇妙な声を発した。
「どうなんだよ?」
「どうって」
 アリスが小さい声で言う。わかっている。言わずにどうしたらこの話題を終わらせられるだろうと必死に考えているのだ。彼は滅多にそういう甘いことを言わない。でもたまには聞きたい。それが男の独占欲ってもんだろう?
「…どっちも」
 考えた末、アリスが答えた。でもその答えは火村を満足させなかった。
「却下だな。それなら迎えに行く必要はない。宅急便を使えよ。恋人の俺にはあとから土産でも持って、おまえが京都に来い」
「そんな、火村…」
 途方にくれたような声がする。あとひと押し。
「用はそれだけか? 俺は生憎忙しいんだ。切るぜ」
「ひ、火村!」
 悲壮な呼びかけ。
「なんだ?」
 落ちたな。火村はほくそえんだ。
「おまえに、会いたい。早く、会いたい。荷物なんてどうでもええ。そんなん口実に決まってるやんか。…折角、俺が日曜日に帰れるようにスケジュール組んだのに。俺、おまえに直ぐに会いとうなるに決まってるから。せやから」
 火村は口を覆った。笑いが漏れそうだったのだ。
 久しぶりに聞けたアリスの甘い告白。
 日曜日だけどアリスのマンションに泊ろう。日本食が恋しいだろう彼のために腕によりをかけて夕食を作ってやろう。けれど疲れてたって容赦はしない。久しぶりの恋人を間近に感じて我慢がきくわけないからな。
「火村?」
 こちらを窺うアリスが愛しい。
「迎えに行ってやるよ。俺もおまえに会いたい」



***



 のろのろと重たい心を抱えてターミナルビルに戻った。
 あれから時間がたったためか、だいぶ情報も明らかになっていた。着陸時、胴体から突っ込みオーバーラン。そして、炎上。生存者確認できず。ほぼ絶望。そしてビジョンには乗客のリストが延々と流れている。
 火村は見上げた。祈るような気持ちで。だが、何十人目かに見つけてしまった。
 あってほしくなかった、名前。
 A.Arisugawa。
 確かにその名前はそこにあった。有栖川なんて珍しい名前、そうそう同姓の人物がいるわけないのだ。ましてやファーストネームのイニシャルも同じ。
 それでも諦めきれなくて眼鏡をかけて再度見た。やはり、間違いはなかった。

 なぁ。おまえ本当に俺をおいていっちまったのか?
 火村はやるせない気持ちで約束のレンタカーのカウンターに寄りかかる。
 俺と付きあうとき約束したじゃないか。俺より先に死んだりしないって。
 無茶な要求にアリスは微笑んで肯いたのだ。大丈夫、安心しいや。そう言って抱きしめてくれた。
 火村は大切なモノを作るのが怖かった。信頼して心を預けて、それを失うのが殊のほか怖かったのである。そんな位なら最初から作らないほうがよかった。だからひととの交わりを避けた。線を引いて誰も入れないようにしてきた。それをひょいと飛び越えてきたのはアリスのほうだ。アリスは火村が彼を欲しがるように仕向けてきたくせに、そして約束してくれたくせに、こうやって突然消えてしまうというのか? 約束違反じゃないか。どうしてくれる?
 火村は弱くなった。
 アリスが火村ひとりで背負ってきたものを、一緒に背負ってくれたから。今さら、元に戻されたとて困る。もう半分で慣れてしまったのだ。潰れてしまう。壊れちまうよ。
 ぐずぐずと座り込んだ。膝の力が抜け、立っていられなかった。涙を拭おうともせずただ流れるままにしている火村を見かねて、カウンターの受付の女性がハンカチをくれた。けれど握らされたそれをそのままに、呆然と前を向いている。焦点があっていない、どこか遠くを見つめるような瞳で。周囲の泣き声もざわつきも、何もかも耳に入らなかった。
 火村は全てをシャットアウトした。



***



「会いたい、って火村…」
 アリスが受話器の向こうで言いよどんだ。そのまま言葉が続いてこない。
「アリス?」
 優しく呼びかけると、彼は照れたように弁解した。
「火村がそないなこと言うてくれると、思わへんかったから」
「そうか?」
 そんなに言葉を惜しんでいただろうか。火村は首を傾げた。いつだって大切にしてきたし、愛情表現は欠かしていなかったつもりだけれど。
「だって火村。あんまり会いたいとか…その、好きだとか。そういうこと言わへんやん?」
「そうだったか?」
「あ、責めてるわけちゃうんやで。嬉しいんや。なんていうの? 火村がそう思ってくれてることはわかってんねんけど、それでも言葉でもらうと嬉しいやんか」
 すとん、と胸におちた。
 まさしく自分もそうだったから。アリスが余りにも言わないから言わせたくなった。かくいう自分も言葉にしていないとは思わなかったが、こうも喜んでくれるのならたまには言ってもいいか、と思う。心が暖かく潤って、優しい気持ちになる。
「会いたかったんだ。2週間、こんなに長かったことはない。アリス、おまえが夢に出てきたほどだ」
「火村」
「夢の中でおまえは笑うんだ。火村って呼ぶんだ」
「ひむ…」
「早く、直に聞きたいな」
 電話だと素直になれた。これが彼を目の前にしては言えないのだ。照れもあるし、何より天の邪鬼の血が騒ぐ。
「火村、もういい。やめてや。心臓に悪い。俺、すごいドキドキいうとる…」



***



 珍しいことを言ったから、天変地異が起こったのだろうか。
 優しい言葉をアリスに伝えたから。柄にもなく甘い言葉をささやいたから。
 それとも。
 自分は幸せになる権利のない人間なのかもしれない。そうだ。そうに決まっている。あんなことがあったあとで、のうのうと生き延びているだけでもおかしいのに、幸せになるなんて許されないことだったのだ。だから自分はアリスを奪われた。不幸なままでいるように。
 だがアリスになんの落ち度があるというのだ?
 あれは自分を愛しただけだ。大切に守って傍にいてくれただけ。罰を与えるなら、なぜ自分ではない? なぜ何の咎もないアリスに?
 すまん、アリス。おまえの未来も何もかも、俺のせいで無くなった。恨むか? 
 俺は俺が憎い。憎いよ。


 不意に肩を揺さぶられた。絶望の底から中々這い上がれない。誰かが何かを言っているが聞き取れない。意識を努めて集中させる。だがそれだけでもひどく苦労する。
「…携帯、鳴ってます」
 先程の受付の女性だった。のろのろと顔を上げると、彼女が心配そうに見下ろしている。
「携帯、鳴ってるんです。さっきから、ずっと」
「け、いたい?」
「ええ。5分くらい。ずっと」
 音が戻ってくる。尻のポケットに入れていた携帯がうるさくメロディを奏でていた。ルパン3世のテーマ。アリスが入力してくれた曲だ。

「おまえ、愛想ないのなぁ。いまどき単なるピピピっていう音で使ってるやつおらへんで」
「面倒なんだよ。それに曲が鳴ったとき、火村先生はこういう趣味なのねって想像されるのが、最悪に嫌なんだ」
 ぶっきらぼうに言うと、「貸して」と手が伸びてきた。
「おい、何やってるんだよ?」
「ちょお待って。すぐ済むから」
 火村の手を振り払ってアリスが逃げる。追っかける。逃げる。しばらくそうしていたが、次第にどうでもよくなって火村は追いかけっこをやめた。
アリスはしばらくいじっていたが、ほどなくそれを返してくれた。
「俺専用の着メロ入れといた。流れたら、すぐわかるやろ? 俺からやって」
「アリス。…何の曲入れたんだ?」
 凄みを利かせて問う。
「ルパン3世」
 しゃらっと答えられた。アリスは小学生のときからファンだったと言う。足の長いおちゃらけたヒーローに関西人の血が騒いだとか。
「やめろよ。それこそ俺の趣味を疑われる」
「ええやん。恋人の趣味やって言いや」
「バカ。そんな恋人を持つ俺の趣味を疑われるじゃないか」

 そのルパン3世の、テーマ。
 アリスからの、電話。アリス専用のコール。
「アリスっ!? アリスなのか?」
 瞬時に意識が覚醒し、携帯に向かって叫んだ。一抹の願い。そしてわずかな希望。
「アリス!!!」
「…なんや、声大きいで」
 普段どおりの彼の声。
「あ……」
 アリスだ。
 火村はそれ以上声が出ない。
 嘘じゃないよな。幻聴じゃないな。俺が都合よく夢を見てるわけじゃ。
「火村ぁ。今、どこにいる?」
「……」
「火村?」
 不思議そうな声だった。火村は弾けるように立ち上がり、外へと走り出た。頬をつねった。痛かった。夢じゃない。夢じゃないのか?
「火村? おい、火村? 怒ってるんか?」
「…おまえ」
 辛うじて声が出せたのは外に出てから。
「ゴメンなぁ。待ったやろ? 俺、事情があって関空便に乗れんかってん。仕方ないから成田便に振り替えてもろうて、今、成田なんや」
「アリス?」
「なに?」
「本当にアリスなんだな?」
 信じたい気持ちで一杯だった。だが到底信じられなかったのも事実だ。これ以上失望させられるわけにはいかない。
「待ったやろ? 心配したやんな? 俺の名前、関空便にあったのに、いつまでたっても出てけえへんから。あ、荷物だけは出てきた?」
「そんな…こと」
 生きているのなら何でも許せる。
「今、どこ?」
「…関空」
「まだ空港なん? もう18時やで。5時間も待っててくれたんか?」
 5時間。もうそんなに過ぎていたとは知らなかった。時間など感覚になかったから。
「怒ってる? ゴメンな」
「そんなこといいから! 早く戻って来い! 早く、はや、く…」
 麻痺していた感情が溢れてくる。凍った身体に血が通うように思える。
「なんでもいい。おまえの顔が見たい。安心したいんだ。生きてるおまえに、一刻も早く!」
「火村火村。なに? え?」
「早くって言ってるんだよっ!! お願いだから戻って来い!」
「あの?」
「御託は後だ。新幹線に飛び乗って帰って来い! 大急ぎだ」
「火村?」
「息もできない。おまえの無事を確かめるまでは何も手につかない。本当なんだ。ぐちゃぐちゃで…死にそう、なんだ」




***





 事実は呆れるほどアリスらしい話だった。
 搭乗手続きもすませ、出発までの待ち時間に免税店で最後の買い物をしている最中、アリスは泣いている女の子を見つけた。声をかけると日本人で、やっと言葉が通じたことに安心してしがみついて離れない。母親と一緒に来たというので探していたところ随分と時間がかかり、関空便に間に合わず乗れなかったのだと言う。道理で関空便に名前はあったわけだ。
 もちろん、そのせいでアリスは助かったのだけれど。
「もしかしたら、あの子、神様の使いやったのかもしれんなぁ」
 火村はアリスの髪をなでた。その拍子に毛布がずれてアリスの肌があらわになる。すでに何度も口づけた肌だ。至るところに淡い跡が散っている。
「俺、約束したもんな。おまえより先に逝かんって」
「覚えてたのか?」
「もちろん」
 アリスが身を寄せてくる。ごそごそ動いていたが、火村の顎の下で落ちついたらしい。
「絶対に先に逝かん。おまえが心配やもん」
 火村は絶句した。絶対とためらいもなく言える彼に心が震えた。そして、不思議とそれを信じることが出来る自分にも熱いものがこみあげる。けれどそれを表現しようもなく、火村はアリスの身体をぎゅうと抱きしめた。
「けど俺が免税店に寄ったんは、火村のおかげやから」 
 火村が神様なのかも、とアリスがつぶやく。
「どういうことだ?」
「免税店にはな、煙草を買いに行ったんや。あのキャメル。お土産に」
 荷物は関空便にて灰になったけれど、手荷物のキャメルだけは残った。数時間前、アリスから渡された唯一の土産だ。本当はもっと沢山あったんやでと無念そうにアリスは唸った。でも火村には十分だった。土産などいらない。アリスが無事でここにいて、生きて呼吸してしゃべって笑ってくれさえすれば、他には何もいらない。
 そう、あの恐怖と絶望の時間を思えば、なんて今の幸せであることか。
「火村に感謝やな」
 違う。俺がおまえに感謝なんだ。
 失うと覚悟して、初めて価値を知った。それまでもかけがえのない恋人だとは思っていたけれど、もうそんな範疇に収まりきらない、自分自身よりも大切なモノなのだと知った。
 そう。失っては生きていけないくらい。
「愛してるよ、アリス」
 アリスが身体を強張らせた。そろり、と顔を上げて火村の表情を見ようとする。
「愛してる。死ぬなよ。絶対に死ぬな。俺より先になんか――」
「大丈夫。安心しぃや」
 いつぞやと同じセリフでアリスが唄うように言う。
「信じてる。アリス。信じるから。死ぬな。裏切るな」
 言い募った。駄々っ子のごとく何回も約束させた。
「大丈夫」
 アリスの声は優しくて、火村の疲れた心に染みた。
「大丈夫。安心しぃや」
 アリスの手が背にまわり、ゆっくりと火村を撫で下ろす。何回も何回も。
 おまえはひとりじゃないんだよ、というように。
 火村はうっとりとその手に身を任せた。
「寝よう。なぁ、疲れたやろ?」
 小さく優しい声が遠くで聞こえる。
 今日は本当に酷い1日だった。寸でのところでこの腕の中の存在を、失う羽目になるところだった。我が身を、運命を呪った。アリスを失うことを本気で覚悟したのだけれど。
「おやすみ、火村」

 絶望の向こう側に、用意されていた幸運な結末。
 この日常、この平穏。
 今日だけは神に感謝してもいい。
 火村はぼんやりと沈みつつある意識でそう思った。やわらいだ気持ちで、心から思った。


End/2001.04.29



くるみさん、ありがとうございますっ!!!
こんなにステキな火村とアリスを戴いて、もう余りの嬉しさに喜びの舞でも披露したい気分です○(≧▽≦)○
最初に業界ネタと伺った時から、一体どんなお話なんだろう…とドキドキしていたんですが、まさかこういうお話とは---。もう息を詰めて一気に読んでしまいました。
まさかまさか…、と思いつつも、お話の展開にハラハラドキドキ。携帯からアリスの声が聞こえた時には、私もホッと安堵の息を吐いてしまいました。あううっ、良かったよぉ…(T^T)g
やっぱり火村のためにも、そしてアリス自身のためにも、アリスは火村をおいて逝っちゃいけないわッ!
本当に素晴らしいお話をありがとうございました。感謝・感謝のひと言です。

目と心が釘付けになるくるみさんの素晴らしいヒムアリは、こちらで読めます