星空の向こう

歳東春木 




「もぉええ、アホッ! 君なんか知らん、絶好や!」
 怒鳴り声とともに、バンッと勢い良くドアが閉められる。
 続いて聞こえてきたのは、ドタドタという足音。
 微かにしか聞こえないそれは、部屋の外へと出て行ってしまったためだろう。
 段々と遠くなって行くそれを聞きながら、火村は一つ溜め息を吐き、口元を乱暴に拭った。
「ったく、あのバカが…ここがどこだか忘れてるんじゃねえだろうな」
 言いながら、どっかりとソファへ腰を下ろす。
 乱暴な扱いにスプリングが悲鳴を上げたが、火村は構わずテーブルに上に放り出してあったキャメルの箱に手を伸ばした。
 数本残っている内の一本を取り出し、ライターで火を点ける。
 癖の強いそれは、学生時代から好んで吸っているもので、結構なヘビースモーカーである彼のトレードマークのようになっていた。
 深く息を吸い込み、吐き出す。
 そうしていると、少しづつ苛立ちが収まってくる。
(これぐらいでカッカしてるなんざ、俺もまだまだってことか…まぁ、あいつのガキさ加減には負けるけどよ)
 片頬を歪めるようにして嗤うと、しなやかな動作でソファから立ち上がった。
「さてと…そろそろいいな」
 ひとり語ちて、やや短くなったキャメルを銜えたまま部屋を後にする。
 その歩みに迷いはなく、目的ははっきりとしていた。
 これだけ付き合いが長いと、空いての行動を把握することなどとても簡単なことで…
(まぁ、こん時にあいつが行くとしたら、多分あそこだろうさ)



 その頃、マンションを飛び出したアリスは、沸き上がる怒りのままにだかだかと勢い良く歩いていた。
 もちろん、その対象である火村に文句を言うのも忘れてはいない。
 夕闇が迫る道路を早足で歩きながら、ぷつぷつと独り言をつぶやく若い男---現在のアリスの格好は、先刻まで自室にいてくつろいでいたこともあってかなりラフなもので、生来の童顔も相まって到底三十代には見えなかったのである---は、端から見れば怪しい人以外の何者でもなかったのだが、幸いにも人通りは殆ど無く、誰かとすれ違うこともなく目的地へと辿り着いた。
 住宅街の中の、ほんの少しの緑。
 そこは、そんな感じの場所だった。
 以前この辺りを散歩している時に見つけた、その小さな児童公園はアリスのお気に入りの場所で、時々足を向ける。
 昼間は子供などの姿がちらほらと見えるそこも、流石に今の時間では一人も居なかった。
 ほう、と息を吐いて、アリスは公園の中へと入っていく。
 狭い空間に一通りの遊具が配置されたそこは、大人の彼にとっては何となくミニチュアめいていて、少しだけ現実から遠ざかるような気がした。
 砂場と鉄棒の横を擦り抜け、真ん中にあるジャングルジムへと歩を進める。
 子供の頃を思い出しながら、今ではかなり低く感じられるそれへとよじ登った。
 苦労して身体を押し上げ、頂上に腰を下ろす。
 星が瞬き始めた空を見上げると、不意に涙がころんと一粒落ちてきた。
「火村が悪いんや…俺のせいやない…」
 つぶやくと、もう一粒。
 久しぶり…ほぼ二ヶ月ぶりに会った火村は、あきれるほど変わりなくて、ついいつもの調子でぽんぽん言い合っていたら、気が付けば口論へと発展していた。
 もう既にその発端は何だったのか思い出せもしないが、普段だったら聞き流せるような些細な事でも、そうなってしまえば感情を煽るだけになってしまう。
「ケンカしたかったわけやない…久しぶりに会うたんや、色々美味いもん食べて(但し、この場合作るのは確実に客である火村の方であろう)沢山話して…フィールドワークで何があったとか、大学や猫のこととか…」
 ぐすっと鼻をすすり上げる音が、静かな星灯りに浮かび上がる公園に響く。
 アリスはジャングルジムの頂上で両膝を抱え込むと、その上に頬を乗せた。
 まだ初夏というには早いこの季節では、彼が身に着けている薄手のシャツとジーンズでは少し膚寒い。
 まして既に陽は完全に落ちて、紺色の空には星灯りがはっきりと見えるようになっている。
 ざわざわと、周りに植えられた木立を揺らして風が走り抜け、アリスは思わず襟元を両手で引き寄せた。
「さむ…」
 思わずつぶやく。
 こんな所にいてもどうなるものでもない。
 それどころかこのままでは風邪を引いてしまいそうだ。
 アリスがそんなことを思いながらそろそろジャングルジムを降りようか、と腰を上げた時。
「…ひ、むら…」
 見慣れた長身が、公園の入口にたたずんでいるのに気が付いた。
 木立の陰になっているので、この暗さでは表情までは伺えないが、ぽつんと小さな光が見えるのは、恐らく銜えているキャメルの火だろう。
 その光が、ゆっくりと動き出す。
 確実にこちらへと向かってくるそれを見て、アリスは咄嗟に身体を動かしていた。
 近づいてくる彼から、逃れるために。



 アリスを追ってマンションを出た火村は、さして急ぐでもなく歩を進めていた。
 この辺りはアリスが引っ越して来てからというもの、第二の自宅付近といった状態なので、地理はほぼ完璧に頭の中に入っている。
 彼の優秀な頭脳にはその程度の記憶など朝飯前であって、本来の住人であるアリスが未だにその半分の把握もしていないこともあり、毎回彼のガイドマップ代わりとなっていた。
 その情報によれば、このような場合にアリスが行きそうな場所は三カ所ほどだが、さらに先ほどの状況と現在の時刻を加味すると、一カ所に絞られてくる。
「どうせ、またあそこだろう…分かり易い奴」
 十数年の付き合いで、アリスの行動パターンなどとっくに見切っているのだ。
 多分、何年か前にできた小さな児童公園。
 そこにきっと、アリスは居るだろう。
(ガキくせえ奴)
 アリスはそこが結構気に入っていて、度々足を向ける。
 火村と一緒の時もあるし一人で行くこともあり、それはその時々によるけれど、いつも決まって夕方の陽が暮れる頃から夜に掛けて、それは変わりない。
 彼に言わせると、そこは昼間は子供や近所の主婦たちのもの、それ以後は自分のもの、なのだそうだ。
 確かに、暗くなってからも公園に居る子供はないだろう。
 住宅地の真ん中であるから、夜になればほとんど人通りもなく、訪れる者もない。
 周囲は木立に囲まれて---大した本数が植えられている訳ではなかったけれども、目隠し位の役には立つだろう---静かだし、星見や月見にはもってこい、なのだそうだ。
 …あくまでも、アリスの主観によるものではあるが。
 火村も、数度彼の酔狂な趣味に付き合ったことがあるが、確かにこんな大阪の町中にしては、空が綺麗に見えるような気もした。
 もっとも、彼としてはその状況をもっと他のことに有効活用したかったのだが。
(アリス…)
 ゆっくりと、だが着実に彼は近づいて行きながら、火村はマンションを飛び出して行ったアリスを思う。
 久しぶりに会った推理作家は、相変わらずあまり良くない顔色をしていたが、満面の笑みを浮かべて火村を招き入れた。
 聞けば、つい数時間前に原稿を上げたばりだと言う。
 本来の締め切りは明日だったのだが、火村が来るということで、何としてもその前に終わらせてしまおうと頑張ったらしい。
 そのかいあって、彼がマンションに到着した時には既に原稿は黒猫の手に委ねられ、担当の編集者にも連絡済みで、すっきりさっぱりT仕事Uは終わっていたのだけれど。
(それで自分の体調崩してりゃ世話ねぇぜ)
 誰がみても良くないと言うだろう顔色で、それでも火村の訪れを喜んではしゃぐアリスを見ているうちに、段々と苛立ちが募って来て。
 気が付いたら、怒鳴り合いになっていた。
 切っ掛けなんて、ほんの些細なことで…今度の旅行の計画を立てていた時に、火村の出した案をアリスが気に入らずちょっとした我が儘を言い始めた。
 その程度のことだ。
 常ならば聞き流せる言葉の端が気に障ったのは、どちらが先だっただろう。
 どちらが悪いとも言えない、そんな小さなずれが段々と膨れ上がって、大きくなって行く。
 アリスが自分を罵る言葉を、これ以上聞きたくなかった。
 だから、強引に口を塞いだ。
 眦に、感情が高ぶったためだろう涙を浮かべて自分を怒鳴りつける、その腕を強引に捕らえて引き寄せて。
 抵抗しようとする身体を力と体格の差に物を言わせて押さえ込み、噛みつくような強さでもって、喚く口を塞いだ。
 強引に歯列を割り、逃げる舌を捕らえて容赦なく追い上げる。
 だが、殆ど暴力に近いその行為は、アリスの無我夢中な抵抗によって中断された。
 唇に噛みつかれて思わず顔を離した所を突き飛ばされ、腕の中から抜け出されて。
 続いて聞こえてきたのは、T絶好や!Uという罵声と、ドアの閉まる音。
 まずかったな、という思いはあるのだ、それでも。
 後悔をしているわけではないが、もう少し別のやり方があっただろうに、と思う。
 アリスが意地っ張りなのは分かり切ったことだったのに、自分の方にも余裕がなかったのだ。
 それでなくてもなかなか会えずにいたのだ、一緒に居ることができる時間を無駄にしてしまうのはとても惜しい。
 ケンカをしたい訳ではない。
 会えなかった時間の分も、きっちりとアリスを補給するためにここに居るのに。
 擦り抜けていった温もりを思い出すように、手を握りしめる。
 ようやく、目的地である公園の入口が視界に入って来た。
 思った通り周囲に人の気配はなく、そこは静まりかえっていて、かすかな風に木の葉がざわめく音だけが聞こえてくるだけだ。
 火村はゆっくりと公園の入口へと近づくと、中を伺った。
 予想に違わず、この場所には不似合いな姿を見つける。
 公園の真ん中にあるジャングルジムのてっぺんに、膝を抱えて座り込んでいる、それ。
 寂しげなその姿に、胸を突かれた。
 同時に火村の中で、一瞬だけ凶暴な思いが駆け抜ける。
 寒そうなその腕を掴んでそんな所から引きずり降ろして、だが、それではさきほどと同じ結果になってしまう…それどころか、もっと悪い状態になるだろう。
 ほう、と深く息を吐く。
 気持ちを落ち着けて、アリスを驚かせないように。
 そんなことを考えている自分に、思わず苦笑を漏らした。
(お前だけに、だぜアリス。俺がこんなことを思うのも、するのも、いい加減自覚しろよ、自分が特別なんだってことを)
 くるくると変わる表情と邪気のない満面の笑みと。
 そんなものが大切だと、初めに気が付いたのはいつのことだっただろうか。
 それとそれらに癒される自分を感じたのは。
 その手に入れてもそれらは変わりなく、すでに自分にとってなくてはならないものと化している。
 火村が公園内へと足を踏みいれると、アリスは気配を感じたのか、すぐに彼に気付いた。
 そして咄嗟に、といった感じで腰を浮かせる。
 恐らく、近づいてくる火村から逃げようとしたのだろう。
 だが、アリスが腰掛けていたのは地面の上のベンチなどではなく、いささか大人には小さ過ぎるとはいえ、それなりの高さがあるジャングルジムの頂上で…
 焦って行動を起こした彼は、当然のように足を引っ掛け、一メートル弱の高さから転がり落ちた。
「いったーっっ!」
「このバカッ、何やってんだ」
 思わず怒鳴りつけ、地面に横たわるアリスに駆け寄る。
 土を祓いながら引き起こしてやり、ざっと全身を見て怪我がないか調べた。
「火村…」
 驚いているアリスは、まだ目を丸くしている。
 呼吸が早いのは驚いたのと痛みからだろう、暗いのでしっかりとは見えなかったのだが、どうも背中から落ちたらしかった。
 打ち身程度で大きな怪我は無いと判断した火村は、アリスの腕を引いてしっかりと立たせてやり、まだ少し残っていた土も払ってやる。
「おい、しっかりしろよセンセイ」
 言いながら、まだぼーっと火村を見ているだけで、自分からは行動を起こそうとしないアリスの顔を覗き込む。
「ひむら…」
 答えが返ってくることに、安堵する。
 どうやら、衝撃が強くてまだ少し混乱しているだけらしかった。
 心配無いと分かると、途端にいつものペースに戻った火村に悪戯心が沸き上がる。
 こういったおいしい状況を見逃さないのは、流石に彼らしいと言えた。
「アリス…」
 反応が無いのもお構いなしに、火村が心配料を取り立てようと顔を寄せ、腰に腕を回す。
 耳許で囁くバリトンは、大抵の女ならば一発で落ちるであろう官能的なもので…もちろん、腕の中の推理作家だとてその例外ではない。
 が、それは後数センチという所で、咄嗟に上げたアリスの両手に阻まれた。
「なっ…何するんや、アホ!」
 一気に我に返った彼は、両手を突っ張らせながら火村をにらみつけている。
「惜しいな、もう少しボケてりゃいいものを」
「アホ、そんなことしとったらお前に何されるか分かったもんじゃないわ。現に今やってぼーぜんとしとった俺に悪さしよーとしてたやないかっ!」
 途端にぎゃんぎゃんと喚き立てるアリスに、火村はわざとらしく耳を塞ぐ。
「うるせえな、静かにしろよ。今何時だと思ってるんだ? 近所迷惑だぜ」
 悪びれずにそう言う、ふてぶてしさ。
 アリスは思わず二の句が継げず、口を開いたまま傍らに立つ男を見上げた。
「なっ…なんちゅう図々しいやっちゃ…お前、もしかして世界が自分中心に回っとるとか思ってないか?」
 こういう男だと知ってはいたが、今更ながらに我が身の不幸をしみじみと噛み締めてしまうアリスだった。
 結局、自分はどんなことをしてもこの男には敵わないのかもしれない。
 頭を抱えたいような気分で、恨みがましい視線で火村を見ていると、再び腕を掴まれた。
「ふん、どこも何ともなってはいないらしいな。…まあ、少しくらい衝撃を加えた方が、軽い頭に刺激になっていいかもいれねえよな。…おい帰るぞ。さっさとしろよ。こな所で風邪なんざ引きたかねえだろ」
 言いたいことを言って、さっさと歩き出す。
 腕を掴まれているアリスは、当然引きずられるようになって後を追った。
「ちょっ…ちょい待っ…火村、お前歩くの速すぎや…」
 落ちた時にぶつけた背中や、引っ掛けた足が痛みを訴えているアリスが抗議の声を上げるが、火村の歩調に変わりはなかった。
 仕方なくそれに付いていきながら、段々と痛みが耐え難くなって行くのを感じる。
 先ほどの火村の見立てや自分では気付かなかったのだが、やはりどこか痛めているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、不意に路面のわずかな窪みに足を取られて躓いてしまった。
「おわあっ」
「おいっ…何してやがる、このバカ」
 倒れかかるのを、火村が危ういところで抱き止めた。
 力強い腕に縋りながら、ほうっと安堵の息を吐く。
「あー、危ないとこやった。ありがとな火村、助かったわ。いくら他に人通りがないゆーても、こんなトコでコケたらみっともあらへんもんなー」
 あはは、と笑いながらアリスがそう言うのに、火村は溜め息を吐く。
(こいつは…人の気も知らねえで…)
「…どしたん、火村?」
 男の反応が無いことを訝しんだアリスが、覗き込むようにして見上げてくる。
 その瞳が、男の口の端に浮かんだにやりとした笑みを写した次の瞬間。
「なっ…何やてーっっ!」
 力強い腕が腰に回され、一呼吸の間に火村の肩へと担ぎ上げられていた。
 突然のことに反応できないでいる彼に構うことなく、男はそのまま歩き出す。
「いい子にしてろよ」
 つぶやく言葉が、担がれたアリスに届いているのかいないのか。
 それからしばらく歩く間、意外に軽かった推理作家は彼らしくもなく沈黙していた。
 だがそれも少しの間だけで、ようやく我に返ったらしいアリスがじたばたと暴れ出す。
「ちょっ…火村、下ろしたって。俺ちゃんと歩ける…さっきのはちょっと躓いただけやもん。とにかくこんなん嫌やっ、恥ずかしくて死ぬ」
 言いながら、自分を担ぎ上げている男の背中を拳で叩く。
 それでも火村は構わずに歩き続け、結局マンションに着いてもアリスの主張は聞き入れられることはなかった。
 エレベーターで七階に到着する頃には既にアリスも喚き疲れて、ぐったりと火村の肩に身体を預けており、悔しさからか目の端には涙が浮かんでいる。
 何も言わない男は当然のようにアリスの部屋の扉を開け、担いだ足から靴を脱がして自分も部屋へと上がった。
 そこに至っても下ろしてくれない火村に、アリスは半ば泣きつくように訴える。
「なあ、頼む火村…何か言ったって。君の機嫌が悪いのは分かったから…」
 こんな風に無視されるなんて、とても耐えられなかった。
 それは、彼の顔を見ることができないから尚更で。
(君、今どんな顔してる?…目を見れば、君が本当に怒っとるのか、きっと分かるのに)
 が、彼はそれに答えず、リビングのドアを開けて中へと入って行く。
 そしてソファへと近づくと、担いでいた身体をまるで荷物でも放るように、無造作にその上へと下ろした。
「わっ…」
 衝撃にアリスが思わず声を上げる。
「ほれ、到着。足首を捻っているかも知れないからな…ちょっとそこで待ってろ。湿布薬持って来てやるから。いいか、動くんじゃねえぞ」
 乱暴な扱いとは反対に、アリスを見下ろす火村の目は優しい光を浮かべていた。
 そのことに、馬鹿みたいに安心する。
 ほう、と息を吐いて、ソファの上で体勢を立て直し、腰掛けた所で火村が戻って来た。
「足だせ」
 横柄な命令口調にも、不思議と反抗する気持ちは起きなくて、そんな自分に少し驚く。
 言われるままに痛む方のジーンズの裾を少したくし上げ、正面に跪いた火村へと差し出すと、てきぱきとした手つきで処置を施してくれた。
「素人療法だからな、明日痛みが引かないようだったら医者に連れてってやるよ。他に痛む所は?」
「…背中。さっき落ちたときにぶつけたんやけど…」
 語尾を濁して、火村から視線を反らす。
 今更な上に今は怪我をしているかもしれない、という時なのだから、そんなことを言っている場合ではないと思いながらも、アリスは明るい場所で服を脱ぐのをためらった。
 照れ臭いのもあるし、それともう一つ、何となくそれは火村には見せない方が良いような気がしたのだ。
 が、この男がそんなことを許すはずもなく、たちまちのうちにアリスのシャツは容赦ない腕に剥ぎ取られてしまう。
「……」
「どうしたん?」
 いきなり黙り込んでしまった火村に、アリスが不思議そうに聞いてくる。
 しかしそれに対するいらえはなく、うって変わった乱暴な手つきで手当てされた。
 心なしか、今まで優しかった目つきが、きついものに変わっているような気もする。
「火村?」
 首をかしげるアリスの腕を捕らえる。
 力を込めると、その大きな目が不安に揺れた。
「何…っ」
 口を開こうとするのを自分のそれで塞いで、火村は抗い難い強さでアリスの身体を引き寄せた。
「…アリス」
 独特のイントネーションで呼ばれて、瞬間強ばっていたアリスの身体から力が抜けて行く。
「狡いやっちゃ…そんな声ひとつで、他に何も言わんと。俺ばっかりが持ち出しで、お前は何も、ひとつもくれんやないか。…ひどい男に引っ掛かった俺は不幸や、甘い言葉ひとつも言えば許したろと思うけど」
 唇が離れたすきに、文句を並べ立てる。
 それが妙にアリスらしくて、火村は思わずニヤリと笑みを浮かべた。
 先ほど一瞬駆け抜けた凶暴な感情の残滓が、嘘のように引いて行く。
「ふん。…じゃあ、ご期待にお応えするとしようか…アリス、お前が欲しいんだ、いいだろ? 熱いお前の中に挿入って、かき回して…お前を俺で隙間なく埋め尽くしたいんだ…」
「でーっっ、やめんかいっ! どーゆー神経しとったら、恥ずかしげもなくそんな台詞が言えるんかい、このどアホ! 君どっかおかしいんやないか?」
 顔を真っ赤にして火村の言葉を遮る。
 その茹でだこのような顔を見て、意地悪な男は会心の笑みを浮かべた。
「こんのーっ、アホアホアホッ! 火村なんかもう知らん、俺をからかうのもえーかげんにせえっ」
 クッションで殴りかかってくるその腕をあっさりと捕らえ、体重を掛けて押し倒す。
 なおももがこうとする身体を、深い口付けでもって封じ込めた。
 思うままに翻弄して、唇を離す。
 既にアリスの全身からは力が抜け切って、火村のシャツを握り込むのがやっとという有り様だった。
「かわいいぜ、アリス。そのままおとなしくしてろよ」
 勝ち誇った笑みを浮かべる男をにらみ返す。
 それがアリスの最後の抵抗だった。



「ところで、さっきのことなんやけど…」
 数時間後、腰の立たなくなったアリスがベッドでごろごろしながら傍らの火村に問いかける。
「さっき?」
「うん、俺が飛び出したのって、何が原因やったっけ?」
 言うと同時に、火村から冷ややかな視線を浴びせられた。
「だって、覚えとらんもん…」
 ふくれるアリスに、火村は溜め息を吐きながら教えてやる。
「今度の旅行の計画立てた時に、お前がTこまちUに乗りたいとか言い出しやがったんだよ。初めは南紀に行こうとか言ってやがったくせに」
「そ…そうやったっけ?」
 そんなに下らないことだっただろうか。
 いや、確かにTこまちUにはまだ乗ったことがないので、一度乗ってみたいとは思っていたのだが。
「ごめん…」
 小さな声が途切れ途切れに聞こえてきて、火村は吹き出すのを苦労して耐えるのだった。


End/2001.05.30



三度目だか四度目だかの正直(笑)で、『Magic Time』(1998.07.05)用に書いて頂いた作品です。
それまで歳東さんといえば、甘々ラブラブの、とっても可憐で乙女チックなお話(亜州だけど…)をお書きになる方だとばかり思っていたんですが、この作品の最後辺りにある火村の台詞で、その認識を改めました。

でも「蒼天さんだから…」という当時のアノ言い訳は、貴女の私らに対する認識が絶対に間違っている、と今でも固く信じていますよ、私…(笑)
だって例の台詞打つ時、手が震えたもん。←乙女だから

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