暗い。
真っ暗だ。ここは何処だ? 何か変だ。
俺は? 俺は一体どうなったんだ?
―――――光だ。光が見える。出口か?
あの日の空よ
響 ヒロ
「まぁ、お目々覚めたのね。ママですよ〜」
「ほらほら、パパですよ〜」
突然目の前にアップで現れた2つの顔。
パパ? ママ?
なんなんだ、こいつら。何言ってんだ?
第一、ここは何処なんだ?
しかし、開いた口から出た言葉は。
「ぶ」
……何?
「まぁ! 和志くんがしゃべったわ!」
「ホントだ! 和志、ほら、パパだよ。パパって言ってごらん」
「ママよ、ママ。ママって言ってみて」
視線が急に高くなり、二人の顔が下になる。
目の前の男にあまりにも軽々と抱き上げられた体。見下ろした手はあまりに小さくて。
それはまるで。
まるで―――――
「ほら、目が君にそっくりだ」
「口許はあなたにそっくり」
―――――ちょっと待て! どういうことだ!?
なんなんだよ、誰のこと言ってんだよ、おい!
「産んでよかった。あなたにもお医者様にも反対されたけど」
「そりゃそうさ。母子ともに危険だと言われて、賛成する夫がいると思うかい? でも今は世界一幸せだ」
「わたしもよ」
俺は世界一不可思議だ!!
一体なにがどうなってるんだ!?
「どういうことや火村!?」
いつも目まぐるしい程くるくる変わるアリスの、中でも初めて見た、一際鮮やかな怒りの表情。
「どういうこともなにも」
アリスの女に、手を出した。
アリスの隣にいながら俺に色目を使っているのは知っていた。
俺がどんなに望んでも得られないその位置を手に入れたくせに。
声をかけたら、あっさりついて来やがった。愚かな女!
そんな女がアリスの恋人だなんて許せるものか!
―――――違う。そうじゃない。
例えどんな女であろうと、いや、誰であろうと、アリスの隣に俺以外の誰かがいて、アリスがそいつに笑いかけるのが許せなかった。
5月の連休明けの、晴れた日。気まぐれに入り込んだ法学の講義で、アリスを見つけた。
一心に原稿用紙に向かう横顔。差し込む陽射しに色素の薄い髪が金色に輝いていた。
俺は一目で恋に堕ちた。
それまで恋などという、そんな感情は知らなかったが、もし本当にそういうものがあるのだとしたら、この感情以外にそう呼べるものなんてないと思った。
けれど、俺には一生かかっても告げることのできない想い……
「俺に、なにか言うことはないんか?」
「お前に、なにを言うことがある?」
一瞬の、焼け付くような頬の痛み。
だけど、投げつけられた言葉の方が痛くて。
遠ざかるアリスの背中。
後を追うことなどできようはずもなく。
ただ佇んで、小さくなっていくアリスの姿を見つめ続けた。
そうだ。その帰りだ。
誰かが何か叫んだのが聞こえた気がした。
もの凄い速さで光が近づいて来たと思った瞬間。
―――――そうだ。俺は車に跳ね飛ばされたんだ……
俺は死んだのか? そして生まれ変わったとでも?
だけど俺には記憶がある。
あの一瞬、アリスのことを想ったのを覚えてる。
死にたくないと強く思った。だからなのか?
「ふ、ふえぇぇぇ〜っっ!!」
泣くつもりはないのに、ほんの少し哀しいと思っただけで、体の底からこみ上げてくる声と涙。
ちくしょう、なんてこった!
「おお、よしよし、どうしたの?」
「さすが俺の息子だ! 泣きっぷりも実にいい」
これじゃ、まるでSFだ! それとも、アリスの好きなミステリーか?
いや、ミステリーはミステリーでも、ミステリー違いだ!
「お」
「あら」
突然二人が窓の外を見て呟く。
「ほぉ〜ら和志、見てごらん。雪だ。この北海道の春はまだまだ遠いぞ」
北海道!!
運命のいたずらか、はたまた偶然か。
なんにせよ、アリスのいる、あの西の都はあまりに遠い……
それからの俺がどのように日々を過ごしたか。
過去の意識は確かに俺の中に存在するのに、一方の俺は赤ん坊としての自分を新たに形成しなくてはいけないのだ。
しゃべりたくともしゃべれない。それがどんなに苛立たしく、もどかしいことか。
しかし、その焦りさえ、泣くことでしか表現が許されない。
そうして徐々に、俺の成長とともに少しずつ、過去の俺は新しい俺の中に溶け込んでいく。
正に、現実は小説より奇なり、だ。
けれど、そんな風に斜に構える意識とは裏腹に、自分の想いはもどかしさの極限で。
アリス、アリス、アリス……
すぐにでもお前に会いたいのに。
今の俺には、この北の大地からあの都への隔たりは、どうしようもないほどの絶望以外になかった。
俺は毎日、西の空を見上げてはアリスを想った。
それは俺が7歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。
家への道すがら、女子高校生の会話の中に俺を立ち止まらせる言葉があった。
「有栖川有栖の新刊、もう読んだ?」
「嘘っ もう出てたの!? やだ、これから本屋さん行く〜 つき合って」
「仕方ないなぁ。まぁいいや。あたしも用あるしね」
「いいよねぇ、有栖川先生の書く話」
「うんうん。登場人物がいいのよね。あ、待った! 犯人は言わないでよね!」
「分かってるよ。そこまで意地悪じゃないよ、あたしは」
「へへ、ごめんごめん〜」
有栖川有栖なんて奇特な名前がそうそうあるはずもない。
あいつ、ついにやったのか! 夢を叶えたのか!
俺は2人のあとを追いかけ、本屋の中へ足を踏み入れた。
いつも母親と並んで行く絵本の並んである棚ではなく、馴染みのある文芸の棚。
その本は、探すまでもなく新刊のコーナーに平積みにされていた。
有栖川有栖。
間違いなくそう書いてある表紙。
俺はそっと手を伸ばし、震える指先で本に触れた。
折り返しに印刷されたアリスの写真。
写りはまるで良くないが、間違いなくアリスだ。二十歳のあの頃より大人びて。
だけれど、ずっと綺麗になった。
アリス! アリス! アリス! アリス!
胸が熱くて、痛かった。
こぼれ落ちた熱い滴に慌てて腕で顔をこすり、その本を嬉しそうに胸に抱えた高校生の脇をすり抜け、家路に急いだ。
今の俺にはこんな本を買うだけの金はない。
しかし、どうやって買ってくれと両親に言い出すことができるだろう?
遺伝子が違うからといってしまえばそれまでだが不思議なことに、過去の俺が苦手としていた熱い食べ物が美味しいと感じることができた。代わりというのもおかしいが、あれほど煙草を吸ってもなんともなかった俺の肺は、喘息持ちの母親譲りでとてもではないが、強いとは言えない。煙草を吸うのは無理だろう。それでも、夜中に咳が止まらなくなる度に夜を徹して付き添ってくれる両親を思うと、あれほど手放せなかった煙草も欲しいとは思わなかった。
優しい両親。惜しみなく注がれる愛情。
過去の俺が持っていなかったものだ。
俺が、今の俺として生きてみようかと、ほんの少しでも思ったのは、だからかもしれない。
ただひとつ。アリスへの想いを除いて……
そして時は流れ、俺は高校へ入学した。
「よかったわ、制服。間際になってこんなに背が伸びるなんて、もう。間に合わなかったらどうしようかと思っちゃった」
「どうってことないさ。多少サイズが合わないくらい」
アリスにもさんざん言われていたが、服に関する無頓着さは生まれ変わっても直っていないようだった。
「どうってことあります! だって主席の挨拶でみんなの前に立つのよ? お母さんの方が見ててどきどきしちゃったわ」
「帰りにそこの道でご近所のみなさんにも褒められたよ。父さんも鼻が高い」
俺は一応、良い子に成長したつもりだ。
まったく、以前の俺だったら世界がひっくり返ったって考えられなかっただろう。
アリスだったら大笑いしただろうな。それとも、気味悪がって後ずさりか?
アリス、アリス、アリス……
いつだって俺は、自分の行動ひとつにさえ、アリスだったらどう言うか、そんなことばかり考えている。
アリスの姿が、声が、頭の中に鮮やかに浮かぶんだ。
「じゃあ、我儘ひとつ言ってもいいかな?」
両親は揃って俺を見つめた。
「前から考えていたんだけど、このゴールデンウィークに、行ってみたいところがあるんだ。旅費は小遣いを貯めてあるしさ」
片っ端から買い揃えたアリスの本。
毎日毎日、繰り返し読んだ。繰り返し、アリスの写真を眺めた。
少し寂しげなアリスの微笑み。前はこんな風に笑う奴じゃなかった。
それが切なくて。
アリスへの想いはおさまるどころか募るばかりだった。
「ど、何処へ行くの?」
母親がおろおろと落ち着かない視線で俺を見つめた。
「京都へ。行きたい大学があるんだ。だからその下見に」
「大学なんて、こっちにだってあるじゃない。それに、下見なんて、あなた高校に入ったばっかりじゃないの」
「行ってくるといいさ」
目で意見を求められた父親は、そう答えてくれた。
「お前はいつか、何処かへ行かないことには気が済まないみたいだからな」
16年振りの北白川の下宿。
ばあちゃんは元気だろうか?
まだ下宿している学生はいるんだろうか?
俺がいなくなって、あの部屋はどうなったろう?
通りからぼんやりと俺の部屋だった2階を見上げていると、カラカラと音を立てて引き戸が開かれた。
心臓がドクンと鳴った。
「あら?」
ばあちゃんはそこに立つ俺を、じっと見つめた。
あの頃の俺とはどこから見ても似通ったところなどひとつもないのに、それでも気づいてくれないかと期待をしてしまう。
ばあちゃんは、にこりと笑った。
まさか!
「有栖川さんのファンの子やね?」
「え?」
驚きを返す間もなく、ばあちゃんは俺を庭に招き入れ、2階の窓に向かって声をかけた。
「有栖川さん、ファンの子がいらしてくれはりましたえ」
ほどなく、声が返る。家の中からのせいで、くぐもってはいたけれど―――――
俺の心臓は、100メートルを全力でダッシュしたくらいの速さでどくどくと脈打った。
まさか本当に? 本当に、アリス? こっそり見るくらいはできるだろうと思っていたけれど、まさかこんな……
階段を下りてくる足音。玄関で靴を履く音。
そして―――――
「なに、ばあちゃん?」
アリス、アリス、アリス、アリス!
夢にまで見たアリスが今、俺の目の前にいる。
「せやから、ファンの子。ほな、私は買い物に行ってきますよって、外に出はるなら戸締まりよろしゅうお願いしますね」
「もう。子供じゃありませんって」
「はて、どうでしょ」
ばあちゃんは、ころころと笑いながら出かけてしまった。
俺はアリスから目を離すことができなかった。
写真なんかとはまるで比べ物にならないくらい、ずっとずっと綺麗だ。
アリスが俺を見ている。
アリス、アリス。俺だよ、アリス……
だけどアリスは他人を見る目で俺を見つめた。
「えっと、君、名前は?」
「藤木……和志、です」
泣きたくなる気持ちをこらえて、俺は答えた。
アリス、アリス。俺なのに。アリス。
「えっと、じゃあ藤木くん。せっかく来てくれたんやし、ちょおそこの喫茶店でも入ろか?」
アリスが俺に笑いかける。だけれどそれは、他人行儀のそれで。
もう、昔のように笑いかけてはもらえない。「火村」と呼んではもらえない。
胸が痛い。アリス。
「アリス……ガワさんは、あそこに住んでいらっしゃるんですか?」
16年前にはなかった喫茶店。
交わされた言葉から、マスターとは顔馴染みだとすぐに分かった。
「??? 俺があそこに住んどるの知っとったから来てくれたんとちゃうの?」
コーヒーカップを持ったまま、少し首を傾げる様は昔と全然変わらない。
とても30を過ぎた男のものとは思えないほど可愛い。
「え? あ、ああ、そうですね」
「おもろい子やなぁ」
「お前に言われたかねぇよ」
懐かしさで、つい口から漏れてしまった口調。
「へ?」
「いえ、なんでもないです」
ちくしょう。俺はお前とこんな風にしゃべりたいわけじゃないんだ。
もどかしい、じれったい。
まだ言葉をしゃべれなかった時の苛立ちが甦る。
「そういう君は、何処から来はったん?」
「北海道です」
答えるとアリスは一瞬遠い目をし、
「そっか。遠くから来たんやなぁ」
そう言って笑った。
「希望の大学がこっちにあるんです」
「へえ、何処?」
「英都大学」
アリスの笑みがぱっと弾けた。
「そこ、俺の母校なんや」
「知ってます。ファンですから」
こんなこと言われるのはもう慣れっこだろうに、アリスは顔を赤くして照れ隠しに頭をかいた。
アリスらしい仕草。これも全然変わらない。
「それで、下見を兼ねて」
「ふぅん。受験生なんか。大変やな」
「受験はまだ先です」
「へ?」
「今年高校に入学したばかりですから」
「全然見えへんわ」
「よく言われます」
そう言うとアリスは再び遠い目をして、懐かしそうに目を細めた。
「……俺にもそんな友人がおったわ。全然年相応に見えんのやけど、せやけど、俺の前では年相応どころか、めちゃくちゃ子供っぽい奴やった」
それは、アリス。
「その人は今……?」
「もうおらへん。死んでもうた」
俺のことなんだな。
「……仲の良い人だったんですか?」
答えを聞くのは怖くて。それでも訊かずにいられない。
「俺はそう思っとったよ。あいつはどうか知らんけどな」
俺もそう思っていたよ、アリス。それ以上に大切だった。お前ほど大事な奴はいなかったのに。アリス……
「俺はほんまにあいつのこと好きやったよ。せやのになんで……」
アリスは両手で目を覆って俯いた。
アリス、アリス。俺はここにいるのに。お前の目の前にいるのに!
お前の「好き」が友情以外のなにものでもないと分かっていてさえ、お前をこの腕に抱きしめたくて堪らない。
「変やな、俺。初対面の君に、なにこんなこと話しとるんやろ。ごめんな。せっかく遠くから来てくれたのに、こんな話して」
「……いえ」
ほかに言える言葉なんてなかった。
翌日、ばあちゃんから聞き出した俺の墓を見るためにでかけた。
転勤族の両親は、俺が最後に一番長く定住したこの地に墓を立ててくれたらしい。
自分の墓を見るのはなんとも変な感じだ。
生前に墓を立てると長生きするというが、既に生まれ変わってしまった俺の場合、「生前の墓」とは言わないだろうし。
「なぁ、そう思わないか?」
そう。この下に埋まっているものが「俺」だったのは、もう16年も昔の話だ。
時間の流れは、時として残酷で優しい。
俺の中の感情も、いつかは穏やかに終息を迎えることができるだろうか……
「あれ、君。藤木君?」
声に、驚いて顔を上げた。
振り返ったそこに、俺以上に驚いたアリスの顔。
「なんで君、ここに……? 北海道から来たって、もしかして君……」
「あ、いえ。偶然です。偶然ここに」
普通、偶然で他人の墓の前に立つ奴なぞ、いるわけないのだが。
「そういうアリス……ガワさんは?」
「ん。昨日君と話したら、無性にここへ来となってしもて」
アリスは優しい眼差しで俺の墓を見つめた。
「ここ、な。昨日君に話したやろ? あいつの墓なんや」
昔、俺を見つめてくれたあの眼差しだ。
もう二度と、俺に向けられることのない……
「……その人、どうして?」
「事故やった。学校の帰り道、車に跳ねられて」
「……」
「せやけど、俺が殺したようなもんかもしれへん」
俺は驚いてアリスを見つめた。
「なんでそんなこと……っ」
「せやって、あの時俺があんなこと言わんかったら……!」
(お前なんか最低や! 死んでもうたらええ!!)
忘れることなどできない、最後に聞いたアリスの叫び。
思い出すたび、今でも心が切り裂かれそうになる。
「あいつがあんなことで死ぬような男やないのはよう知っとる。せやけど、ああ見えて繊細な奴やった。傷つけたことに変わりあらへん。俺があんなこと言わんかったら、火村はもしかしたら……」
まさか、そんな風に思っていたなんて。
「お前のせいじゃないよ」
そう言えたらどんなにいいのに。
アリス、お前は少しも悪くなんかないんだ。
悪いのは俺だ。自分の気持ちに整理もつけられず、お前を巻き込んで傷つけた。
あの時も今も。ただ一人、守ってやりたいと思うのはお前だけなのに。
そのお前をこんなに哀しませているのは俺なのか。
それなのに、俺はお前にどうしてやることもできないのか!?
己の不甲斐なさに吐き気がする!
「ほんま、昨日から変やな、俺。会うたばかりの君にこんなことばかり話してもうて」
一頻り感情の嵐が去ると、アリスは俯いていた顔を上げ、恥ずかしそうに殊更明るい口調で言った。
「せや。君、こっちは初めてか? 俺みたいなおっさんで良かったら、観光案内したるよ」
「仕事は?」
「え? そ、そんなん大丈夫に決まっとるやん。って、その目は信じとらんな。ほんま、心配ないねん。締め切り1週間延ばしてもろたし……あ」
しまった、と慌てて口を押さえるアリスは、とても「おっさん」なんかとは思えないほど可愛くて。
思わず笑いが洩れた俺に、照れたように頭に手を遣っていた。
長くて細い、綺麗な指。
その間をさらさらと零れ落ちる、陽を受けて淡い金色に見える細い髪。
目が離せなかった。
思い切り抱きしめたい。アリス。
「……くん? 藤木くん?」
「あ、はい!」
何度も呼んでいたらしい。アリスは怪訝そうな顔をしていた。
「どないしたん?」
「え、あ、いえ、別に」
抱きしめたくて。本当はそれだけじゃ全然足りなくて、もっともっと―――
なんて考えていたなんて、言えるわけがない。
「せやったらええけど。で、行きたいところある? あ、なぁ、英都行かへん? 君、下見しにわざわざ北海道から来たんやろ? もう行ってもうた? 自慢やないねんけど、あそこの案内ならツアコンもまっつぁおやで」
そう言うアリスは本当に得意満面で。
お前、30男の自覚ないだろう?
「な、どないする?」
英都大学―――――
今でも脳裏に鮮やかに甦る、アリスと出会った思い出の場所。
本当はひとりで覗いてくるつもりだった。
でも、お前と一緒なら……
「俺も毎年、今頃の時期には行きよるし」
淋しげに笑うアリス。
今、毎年と言ったか、アリス? しかも、この時期に?
それは、アリス―――――
今頃の時期になると毎年やって来るとアリスは言ったが、連休中だというのに、警備員にはアリスの挨拶ひとつで校舎の中にも入れてもらえた。
あの頃と変わらない、懐かしいキャンパス。
アリスは建物やその他の記念碑など、代々の学生に伝わる語り草などを交えながら大学の中を次々と案内してくれた。
その中には俺の知らないエピソードもあった。それは俺の知らないアリスの時間を、否応にも思い知らせてくれた。
「―――――で、あっちが図書館で、その隣が学食。ほんでこの校舎が社学で、その隣が法学や」
楽しそうに、けれど時折、アリスの振る舞いは痛々しげにすら見える。
「君は社学受ける言うてたな。―――って、そっちはちゃうで!」
知ってるさ、アリス。
「ここな、ここは俺達が初めて会うた場所や」
そこへ足を踏み入れると、後からついてきたアリスが懐かしそうに、その階段教室の階段をゆっくりと上った。
一番後ろの窓際の席。
あの日と同じ、暖かくて柔らかい光が窓からその席に注いでいた。
アリスはそこに座り、背中を丸めて机の上をじっと見つめた。
懐かしい光景。
まるで時間が戻ったような……
「今でもよう覚えとる。5月の7日。ゴールデンウィークが明けたばかりのよく晴れた日やった。応募原稿の締切が迫っててな。授業中やったけど、この席でこっそり書いとった。そしたらな、いつの間にそこに座っとったんか、右隣の奴が俺の原稿読み始めてん。変な奴や思ったわ。せやけど、気にかけてる暇も惜しかったし。気ぃついたら俺の書きかけのまで覗いてきよってて。ほんまに変奴やったわ」
くすくすと笑う。
「さすがの俺もこいつヤバイんちゃうか思てな。チャイムが鳴って講義が終わったのをこ れ幸いと慌てて机の上を片づけはじめたん。
そしたらあいつな―――」
「その続きはどうなるんだ?」
アリスは音を立てて席を立ち、大きな瞳を見開いて俺を振り返った。
「君、なんでそれ……」
呟き、俺を見つめたまま、ゆっくりと後ろへ一歩後退した。
「せや。なんで火村の墓の前にいた? なんでこの教室に入った? なんで……?」
何故、だって、アリス?
「昔――――― 授業中にも関わらず、俺の隣で一心不乱に原稿を書いている奴がいました。本当に一生懸命で、俺は思わずそいつに見惚れてしまいました。その一瞬に、囚われてしまいました。でもある日、事故で離れ離れになってしまったんです。だけど俺は、どうしてもそいつのことが忘れられませんでした。
そいつの名はアリスといって、あなたにとてもよく似ていたんです」
一瞬―――――
アリスの瞳から雫が零れた。
はじめて見た、アリスの涙。
俺は手を伸ばし、その頬にそっと触れた。
こぼれ落ちてくる雫。
綺麗な綺麗なアリスの涙。
―――――暖かい……
目を開けると俺を覗き込む瞳が見えた。
ああ、暖かいと思ったのは―――
「火村……」
長い睫毛を不安に震わすアリスがあまりに綺麗で見惚れてしまった。
「アリス」
名前を呼ぶと、大きな瞳に透明な涙が盛り上がった。
「良か……っ、良かった、火村。俺……俺、あんなこと言うてごめんな。俺、君にあんなひどいこと……っ」
今、目の前にいる奇跡の存在。
俺は腕をアリスの首に回して引き寄せた。
「好きだよ」
アリスの目が、驚きに見開かれる。
それがなんだか気分が良くて、俺は笑った。
お前だけだ。俺がこんなこと言うのは。
お前だけ。なぁ。
「アリス……」
失くしたと思っていた大切なもの。
見つけた……End/2000.12.11
切なくて、ちょっぴり胸がイタクて、でもふんわりと幸せなLove
Storyでした。 こんなステキなお話を書いて頂けて、みどりば、めちゃめちゃ嬉しいです。どうもありがとうございましたm(_ _)m ヒロさんはアリスファンということですが、もしかしたらちょっぴりヒムラーじゃないか…と、私は疑ってしまいました。 それっくらい、このお話の火村はステキでした。 |
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