響 ヒロ
―――ついにやってきてしまった。この日が。
大阪府警本部捜査一課の敏腕警部補・鮫山係長は、この日一体何度目になるのか、取り止めもなく眼鏡のレンズを拭きながら、マリワナ海溝よりも遙かに深い溜息をついた。
ところは、阪急梅田駅にある某有名デパートの地下名店街。
その鮫山の葛藤なぞいざ知らず、連れの男は数歩先で居並ぶ有名洋菓子店のガラスケースを次々と覗き込んでは、「あれはどうやろか?」「こっちの方がええか?」となどと、ぶつぶつと呟いている。
こんなジャニーズのOBもかくやという甘いマスクの若い男が真剣な、しかし、どこか嬉しげにそわそわとした風情で洋菓子を選んでいる様子は端から見たら、これから両親同居の恋人の家にでも行くのだろうかという風情だ。
いや、実際は舅姑以上に恐ろしい相手が夕陽丘にある某マンションの702号室で待ち構えているのだが。
事の起こりは先々週、鮫山が森下と参加したパソコン講習の帰りに谷町4丁目駅の商店街であの2人組と出会ったことだ。
それも、自分が謙遜などしたばかりに、パソコン教室をしましょうなどという話になっってしまった。
―――班長も班長や。
是非お二人に教わって来いと満面の笑顔で、火村助教授の講義がないという水曜日に鮫山・森下両名に休暇を許可した、知らない人が見ればただの人の好いおじさん以外の何者でもない海坊主こと船曳警部を思い出して、すっかり八つ当たりの気分になった。
それは、悪態のひとつもつきたくなるというものだろう。
「しっかり教わって来いや」
と、ただただ、ひたすら笑顔で送り出された森下と違い鮫山には、
「ええか、鮫やん。今後の船曳班の運命はお前達にかかっとるんや。火村先生の機嫌を損ねるような真似は決してあかんで。お調子モンの森下がハメ外さんよう、しっかり見張っとけや。頼んだで」
ときたもんだ。
―――火村先生の機嫌を損ねんようにやて? 私らが今日行くことで、既に充分損ねてますよ!
お空に向かって叫び出したい気分だ。
そうこうしているうちに、森下がケーキ屋の手提げ袋を持って戻って来た。
これまた笑顔満面、幾分か頬を紅潮させた様子は、本当にお前、彼女の家に行くようやな。と思わせずにはいられないものだった。それがまた、なお一層、鮫山の心をブルーにさせた。
「どうしたんですか、溜息なんかついて。あ、僕があんまりお待たせしてもうたからですね。すみません」
素直にぺこりと頭を下げる。
やっぱり、鮫山は溜息をつかずにはいられなかった。今日だけで、何年分の幸せが逃げていったことだろう。
「ほんまにすみません。もう、迷うてもうて。どれもこれもかわええし、美味しそうやし。どうせなら、火村先生もお好きそうなのがええなと思いまして」
―――若いってええな……
鮫山は心から思った。
「いらっしゃ〜い」
約束の時間より5分ほど早く鳴ったチャイムの音に、ドアを開けたその部屋の住人は、爽やかな笑顔で客人を迎えた。人によっては一発KOダウンを食らいそうな。
もっとも、そんなことにでもなったらそれこそ、その隣で家主とは正反対に仏頂面のご友人に、止めの一発をお見舞されることだろうが。
だというのに、隣の若造は。眼鏡の奧、隣の男をちらと窺い、鮫山はそっと目を閉じた。
今日の有栖川氏はシンプルなVネックの黒いセーターを着ているのだが、色素の薄い髪と肌に、それはとても良く映えていて、それがまた妙な色気を醸し出していた。
多分それも、火村氏の仏頂面の理由のひとつなんだろうな。鮫山は、そんなことに気づいてしまう自分がなんだかとても嫌になった。
「むさ苦しいところですが、どうぞお上がり下さい」
「そやから、お前が言うんやないて言うとるやろ」
……これだし。
「鮫山さん、森下さん。コート、こちらへどうぞ」
言われるまま、鮫山と森下は有栖川が差し出す手に、腕に抱えていたコートを預けた。
へぇ、と有栖川が呟く。
「随分イメージ変わらはりますね。そうやって前髪下ろしていると全然若う見えますし。あ、いつもは老けてるて言うてるわけやないですよ。そのセーター、よう似合うてます。かっこええですわ」
有栖川にそう褒められると、やはり嬉しい。若く見えると言われて嬉しいのは、なにも女性に限ったことではない。
「有栖川さん、僕は? 僕は?」
「森下さんは実際若いし、いつも言うとるやないですか。ドラマの刑事さんみたいやて。でも、スーツ着てはらんと、ほんま、学生さんて言われても信じてまいそうや」
「僕も有栖川さんのこと、いつもモデルみたいやと思うてます」
ほのぼの〜
鮫山は心の中で、森下の頭に拳固を食らわせた。
それにしても理不尽だ。なんで自分が、鮫山警部補ともあろう自分が、この犯罪学者の機嫌をいちいち気にしなくてはいけないのだろう。
さっきのことだって、格好良いと褒めてくれたのは有栖川の方であって、自分から働きかけたわけではない。自分には疚しいところなどひとつもないのだから。そうだ、びくびくするのは、もうやめだ。
―――いや、隣のこの若造はなんとかしなければならないが。
「森下」
「あ、そうでした!」
森下は有栖川に、紙の手提げ袋を差し出した。
「大した物やないですけど」
「もう、そんな気ぃ遣てくれんでもええですのに……」
「僕が食べたかったんです。●●●のケーキ、お好きやとええんですけど」
「わ、好物です」
「ほんまですか。良かった」
「じゃ、遠慮なくいただきます。お茶の時間にみんなで食べましょう」
最初、申し訳なさそうな顔をしていた有栖川だったが、この店のケーキが好きだというのは、気を遣ってのことではないのだろう。
にっこり笑って快く手提げ袋を受け取った。
「良かったな、●●●のケーキやて」
笑顔とともに、紙袋をバトンタッチされた火村は「なんで俺に渡すんだよ」とかなんとか文句のひとつも言うだろうと思って見ていると、そんなこともなく、一度だけ手提げの中を確認して、さっさと奥へ行ってしまった。有栖川の後について奥へ通されがてら見たものは、火村が冷蔵庫の前で膝をつき、袋から出したケーキの箱を丁寧にしまっているの図だった。なんだか、あれだ。新婚家庭にお邪魔した気分。
多分、おそらく、これ以上適切な表現はないだろう現状ではあったが、鮫山は自分の発想力のなさが、とてつもなく恨めしかった。
そんな先輩の気苦労も知らず、後輩は浮かれているし、家主も然り。
「書斎のデスクトップの方が使いやすいかとも思ったんですけど、あそこだと机がひとつしかないので、ダイニングテーブルの方にノートを準備させてもらいました。椅子の方が楽ですよね」
「有栖川さん、ノート2台も持っとるんですか」
「1台は火村のなんです」
鮫山は驚いて、提供者を振り返ったが、火村は片眉をひょいと上げただけだった。
「ただし、煙草の煙で視界がよう分からんような場所で酷使されとるパソコンですから、まともに使えるかどうかは保証の限りやありませんけど」
「失礼な奴だな。少なくともお前よりは効率良く働いてくれるぜ」
「失礼なんは、自分や」
ああ、まったく。このまま、いつもの夫婦漫才に雪崩れ込まれては堪らない。
「それでは、私がそちらのパソコンをお借りすることにしますよ。森下がドジやって、先生の大切な資料を消したりしたら大変ですよって」
「ひどいですよ、鮫山さん!」
「じゃあ、そそっかしい者同士、向こうで組んでもらいましょう」
「なんやてぇ?」
「ほんとのことだろ?」
「ムっカつく〜。森下さん、いけずな連中はほっといて、こっちはこっちで仲良うやりましょう」
「そうしましょうそうしましょう!」
こうして、待ちに待った(?)パソコン教室は幕を開けた。
「有栖川さんはどこでパソコンを覚えたんですか? お仕事はやっぱりワープロなんですよね?」
ディスプレイからは目を離さずに森下が訊いた。
「最近は仕事でもパソコンを使てます。段々ワープロを製造してくれるメーカーものうなってきましたし、時代はパソコンですからね。火村も馴れとけて言いますし」
「じゃあ、火村先生から?」
「とんでもない! そんな優しい男やありませんよ。そんな暇人やないとか、俺だって自分で覚えたんだからお前も自分で覚えろとか言いよるんですよ。なので、ほとんど独学です。―――あ、そこ、シフト押しながらです」
「あ、ほんまや。―――あ、できましたできました」
「で、白状すると、実は森下さんたちを利用させてもろたんです。まぁ、おさらいと、それにこの状況なら、分からんことがあったら火村にも訊けますもん」
「せこいよな、有栖川先生は」
正面から火村の目がちらりと覗いた。
「ほらね。こういう男ですから。素直に教えてくれとも言えへんのです」
「でも、有栖川さん、すごく分かってらっしゃいますよ。説明も分かりやすいし」
「森下さんの理解力が高いからですよ。出来のええ生徒さんで助かります」
顔を見合わせて、にっこり。
なにやらそこだけ、南国のお花畑。
じゃあ、こっちは北国の荒野か? 鮫山はディスプレイを見つめたまま、そんなことをちらりと思った。目を閉じたら、本当にそんな景色が浮かんできそうだ。いかんいかん。いちいち気にしないと決めたではないか。
「鮫山さん、そこ違ってます」
「…………」
決心はあっけなく潰えそうだった。
そろそろお茶にしませんか? と有栖川が提案したのは、世間一般でも言うところのおやつの時間。
「私や火村は画面をずっと見ていることにも馴れてますけど、鮫山さんと森下さんは疲れたでしょう?」
「ずっと立ち通しで、お二人こそお疲れやないですか」
鮫山がディスプレイから顔を上げた。向かい側では森下が思い切り体を伸ばしている。
「ああ。教師たるもの立っているのが仕事といえど、どこぞの助教授は講義も座ったままなさるようですから」
「教室の移動すらない作家先生に言われたくないね」
「言うとくが、作家の体力、舐めたらあかんで」
「じゃあ、別の機会に試させてもらうよ」
次の瞬間、表向きクールな助教授は、状況を掴めない客人の前で、テーブルに片手をついて、弁慶の泣き所をさすっていた。
もしかして、一挙一動に気を配るべきは、犯罪学者の方ではなく、推理作家なのだろうか。鮫山はひっそりと、そんなことを思った。
「あれ?」
有栖川がティーカップに紅茶を注いでいるのを見て、森下が声を上げた。
「あ、もしかして森下さん、コーヒーの方が良かったですか?」
「いえ、そうやなくて」
有栖川は森下の視線の先を追い、ああ、と呟いた。
「ええんです。こいつは、こない熱いもんは飲めませんよって。コーヒーも、たっぷり牛乳入れるんやよなー?」
からかうように話を振る有栖川に、猫舌の助教授は憮然とすることで答えを返した。
「もしかして、アッサムは嫌いやったですか?」
「というか、よう分からへんいうんがほんまのところです」
森下は頭を掻いた。
「鮫山さんも、大丈夫でしたか?」
「ミルクティーにもストレートにも合う美味しいお茶ですよね」
「ええっ!?」
「って、どういう意味や森下?」
「え? いえ、あと、その、ええとぉ……。あ、このカップ、綺麗ですね!」
刑事のクセに、なんて下手クソな話の逸らし方だ。
「ほんま、そう思います? 私も一目惚れして、つい衝動買いしてもうたんです。そう言うてもらえて嬉しいです」
でもまぁ、有栖川が嬉しそうなので、勘弁してやろうと鮫山は思った。その代わり、明日からはまた特訓だ。
親の心、子知らず。いや、かなり違うが。捜査一課のハリキリボーイは嬉しそうな顔で●●●屋のケーキを頬張っていた。
「●●●屋のケーキは、やっぱり美味いですよね〜」
「ほんまです。火村も好物なんですよ。な?」
たっぷりのミルクティーを用意してもらった火村は、マグカップに口をつけながら、横目でちらりと有栖川を見遣った。
「良かったです〜。そういえば火村先生、釣り鐘まんじゅうもお好きなんですよね?」
「そうなんですよ。こいつ、こんな顔して、甘党なんですよ〜」
楽しそうに笑う有栖川に、こんな顔は余計だと火村は憮然と呟いた。
「頭脳労働者には糖分が必要なんだよ」
「はいはい。ブドウ糖は脳の唯一の栄養源やて言うんやろ。ええよええよ。今時、ええ男が甘い物が好きや言うたかて、恥ずかしいことあらへん」
「逆に、女の子には喜ばれますよ。一緒にケーキバイキングに行かれる言うて」
「ほんま? なら俺も甘党やて言うて回ろうかな〜」
鮫山は、目の前の男の機嫌が段々と下向きになっていく展開を頭の中でつぶさに描き、心の中で隣の後輩を罵倒しまくった。
―――警部、すみません。捜査一課に明日はないかもしれません……
そんな哀れな男の心情など露知らず、家主は果てなく罪な男だった。
「夕飯も食べて行ってくださいね。大したおもてなしはできませんけど」
「いえ、そこまでは……」
せめてこれ以上、事態が悪化しないうちにと鮫山が辞退の言葉を口にすると、分かっているのかいないのか―――確実に後者―――森下の小さな抗議が耳に届いた。有栖川も重ねて言う。
「独身の寂しい男に、たまには賑やかな食事を楽しませたってくれませんか?」
「ね、鮫山さん。せっかくそう言うてくれてはるんやし」
「お願い〜」を絵に描いたような目でW攻撃。
念のため、正面の男を窺ってみたが、その表情から特に難色も示していないようだ。
「はぁ、それではお言葉に甘えて」
2人の確信犯は、掌をパンと合わせて、お互いの健闘を称えた。
「わぁ、おでんや!」
テーブルの上に置いた卓上コンロに有栖川が大きな鍋を乗せると、森下が歓声を上げた。
さすがにいつものガラスのテーブルでは危ないので、折り畳み式の卓袱台が登場した。
この上にコタツの天板を裏返して置くと、麻雀台に早変わりってわけです。などと有栖川は台の足を伸ばしながら嬉しそうに言ったものだ。
「この季節、みんなで突つきあいながら食べるものいうたら、やっぱりこれですよね。たくさん食べてってくださいね。お勧めは大根です」
では、まず、そのお勧めの一品を。ということで有栖川がよそってくれた大根を一口入れた鮫山は、感心したように呟いた。
「ほんまに、味がよう染み取る。この出汁がまたええわ」
続いて口にした森下も美味しいと頷いた。
「そう言うてもらえて、ほんま嬉しいです。みんなで夕飯できるんが楽しみで、実は昨晩から煮込んでたんです」
本人の言う通り、本当に楽しみにしていたのだろう。うきうきとした気分が伝わってくる。こんな風に手放しで歓迎されて、喜ばない者などいないだろう。それは堅物と言われる鮫山とて例外ではない。ましてや相手が有栖川とくれば尚更だ。それでなくとも、この男は周囲の人間の感情に影響を及ぼすのだから。
それが最も顕著な男が、ここにいる。
鮫山はいつも、有栖川を優しげな目で見つめている時の助教授に、どこか安堵の気持ちを覚える。ほら、そんな顔かてできるんやないですか、と。面と向かってその事実を突きつけたいような―――分かってるんですか? と訊きたいような、そんな気持ちだ。
「それから、この漬物は火村の下宿の大家さんの手作りで、めっちゃ旨いです。これがあれば、私はお櫃一杯空けられますね」
「お前の場合は食い過ぎなんだよ」
「なんや。いっつも、ちゃんと食え食え言うくせに」
「それは、締め切りの時と、本を大量に買い込んで来た時だけだ」
有栖川の額にデコピンを一発。
「痛いやないか、あほぅ」
鮫山は、有栖川を助手として連れてくる前の、独りで犯罪の現場に挑んでいた頃の火村を見てきた。無表情で。いつも何かにじっと耐え、自分をすら戒めているような。
だから、はじめて有栖川と共に立つ姿を見た時は、本当にほっとしたのだ。それは多分、鮫山だけでなく、船曳警部も同じだったはずだ。
「ええもん。そういう奴には、やらん!」
有栖川は額をさすりさすり、柳眉を逆立てて火村を睨み、中腰で背を向けた。
「じゃーん。おでん言うたら、やっぱりこれでしょう!」
抱えて振り返ったのは、瓶のままやら、箱に入ったものやらのアルコール達だった。
さすがにこれは、絶対マズイに決まってる。
「いえ、我々は明日も仕事ですし……」
「そんなん、みんなそうですよ!」
鮫山が辞退すると、有栖川はまるでサラリーマンの宴会部長のようなことを言って返してきた。
「お前以外はな」
助教授、すかさずツッコムことを忘れない。
「馬鹿にすんなや。俺かてちゃあんと締め切り抱えさせてもろとるわ」
「そりゃすごいな、アリス」
「うわ、ものごっつムカつく。やっぱお前みたいな奴には飲ませたらん!」
つん、と顎を聳やかし、さらにアルコール達をサイドボードの引き戸の奥から次々と取り出しては並べ立てた。まったく、どこに入っていたんだと、この部屋を頻繁に訪れる火村すら驚くほどの酒瓶の数で。
「なんか、お店でも開けそうな感じですね」
大小様々色とりどりのそれらを眺め、森下も感心して声を漏らした。言われた有栖川はなんだかとても嬉しそうだった。
「お2人は、酒は強い方ですか?」
「強い方やないですけど、弱くもないと思いますが……」
いや、そういう問題ではなくて。つい、そう答えてしまった鮫山は、心の中で一人突っ込みなんてしてしまった。やはり関西人。
「ほな、こっちのなんかお勧めです。そないアルコール度も高うなくて、美味しいんですよ」
瓶ごと差し出されてしまった。
「森下さんは?」
「自慢ですが、人より先に潰れたことはありません!」
「そら、楽しみや。今夜はじゃんじゃん食ってじゃんじゃん飲みましょう!」
「おー!」
だから明日は通常勤務だといっているのに。鮫山は森下を遠慮なく睨んだ。いつまでも学生気分でおるんやないで!
けれど、すでに妙なハイテンションになっている2人に、そんなものはアウト・オブ・眼中。こうなったらもう、何を言っても無駄だろう。
溜息をつく鮫山に、火村も哀れみの視線を送った。
30分もすると、様相はものの見事に2つに分かれていた。
「森下さん、もうあきませんですか?」
「なぁに言うてんですか。まだまだこれからですよ!」
「そうこな!」
「有栖川さんこそ、大丈夫でしょうね?」
「当たり前田のクラッカー! って、森下さんは知らんかったかな? ま、ええわ。ほな次、これ行こ、これ。めっちゃお勧め。旨いんやまた、これが!」
「知ってますよ、当たり前田のクラッカー。なにせ、周りは年上ばっかりですからね。船曳警部がよく―――あ、おおきに。ほな、今度は僕がお注ぎしますね〜」
「おっととと」
そんな学生のノリの2人を横目に、こちらは渋く大人の雰囲気を決め込む組の1人、鮫山が言った。
「強いんですね。驚きました」
「あの顔ですからね。騙されて泣きをみた人間を何人か知ってます」
誰がと問うまでもなく頷いて。ああ、でも。と火村は小さく呟いた。
「そうとも言い切れないかもしれないな」
手にしたグラスをゆらゆら揺らし、有栖川の瞳と同色の液体に小波が立つのを穏やかに見つめながら火村は続けた。
「あいつの場合、質の悪い酒―――製造の側にいる人には申し訳ない言い方ですが―――にはまるで弱いんです。もちろん、値段ではないのですが、大抵の場合、学生時代に行くような居酒屋ではそういったものの方が圧倒的に多いのも事実ですしね。私がいない時は―――外で飲む時は、ビール以外は飲まないように言いつけてはいたんですけど。私があいつと知り合ったのは2回生の時ですから。クセに気づいた時には既に知っている連中が何人もいましてね」
「それは、さぞかしご苦労なさったんでしょうね……」
有栖川のその癖というのがどんなものかまでは話さないものの、火村の見せる表情に、思わずそう慰めずにはいられなかった鮫山である。
「火村先生はいかがなんです?」
「私ですか? そうですね。強くはないとは思います。飲んでも缶ビール3本くらいですし。アリスにはいつも、弱いと言われています。でも、酒を飲むのは好きですね」
鮫山は呆れた。でも、まぁ。後輩と盛り上がっている家主の男をちらりと見つめる。
きっと、比べる相手が間違っているのだ。いつも一緒に飲む相手があれでは、さすがの火村も錯覚するかもしれない。
そして、多分、鮫山も錯覚していたのだ。この和やかな雰囲気に、平穏無事にこの一日が平穏無事に終わろうとしているのだと。
そう、気が緩んでいたに違いない。
「……いや、それは多分、弱くはないと思いますよ」
鮫山がそう言った時の火村がほんの一瞬だけれど、少し嬉しそうな顔をしたから。
「今度、一緒に飲みに行きませんか?」
口が滑ったのだ。
火村もまさか、この鮫山がこんなことを言うとは思わなかったのだろう。ぱちくりと目を瞬かせた。
多分、その対象が自分でさえなかったら、この男でもこんな顔をするのかと素直に珍しがることができただろうに。
「そうですね、是非。アリスが良い店をたくさん知っていますので」
火村が気を利かせてくれて助かった。多分、この男も少し酔いが入っていたに違いない。
「そろそろ我々はお暇させていただくことにしますよ」
潮時を感じて、鮫山は言った。
「ああ。私も明日は1限から講義があるので、一緒にここを出ようと思っていたんです」
「それは、長居してしまって申し訳なかったです」
「とんでもない。アリスも楽しんでいたようですし」
酔っていても、辿り着くのは、結局そこかい。
「酔い覚ましに、濃いお茶でも淹れましょう」
火村が立ち上がったのをきっかけに、鮫山も後輩に声をかけるべく横を向いた。
「有栖川さんっっ!!」
鮫山の叫びに、キッチンでなにやら陶器が落ちて割れるけたたましい音がした。
「アリス!?」
血相を変えた火村が飛び込んでくるのと、同じく血相を変えた鮫山が森下の背中にしがみついたのは、ほぼ同時のことだった。
「……っ」
火村は言葉を失った。自分の甘さに悔やんでも悔やみきれないといったところか。
つい今しがたまで酔いの片鱗も見せていなかった有栖川が、見るからに陶然とした様子で森下の首に両腕を回して抱きついていた。
「このアホ! 森下!」
ここ最近、これほどまでに動悸が激しくなったことがあっただろうか。それでも、かろうじて有栖川の体には指一本触れることなく、鮫山は森下を引き剥がすのに成功させた。酔いの回った有栖川の腕に力はまるで入っていなかったのが幸いした。
しかし。森下は、これまた明らかに酔いの回った顔で、普段だったら絶対できやしないだろうに、思いっ切り鮫山にドスを利かせた。
「なにすんですか。俺の邪魔しんといてくださいよ!」
ああ、一人称変わっているし……
「一体……」
有栖川を背後から抱き込む姿勢で呟いた火村は、テーブルの上とは言わず、カーペットの上にも並んだ酒瓶を一望し、次の瞬間絶句した。
それはもう、一見して、どこの国のものかも分からない、見たこともないようなラベルのシロモノで。
「なんやのぉ、もう」
「アリス、これを飲んだのか?」
「なんやの、飲んだらあかんいうんか? 酒っちゅうのはなぁ、飲むためにあるんやで〜」
鮫山は先刻の火村の話を思い出し、悪い予感になにやら背筋に寒気を感じた。
何処のどいつだ、こんなものを有栖川に寄越した奴は!
鮫山は、どこの誰とも知らぬ輩に思いの丈、怒りをぶつけた。
「なぁなぁ、今日は泊まって行ってくれはるんでしょ?」
いつの間にやら火村の拘束から上半身だけ這い出てきた有栖川が、咄嗟に伸ばされた火村の腕の追跡を振り払い、潤んだ目で鮫山を見上げていた。
正直、このお願いモードに逆らえる奴がいたらお目にかかりたいと思ったが、大阪府警捜査一課の未来と自分の身の安全のためにも、鮫山は帰る旨をきっぱりと告げた。
すると、有栖川の両の瞳が一層潤み、縋るように、白い手が鮫山の節くれだった手を包み込んだ。
「俺のこと、嫌い?」
「アリス!!」
鮫山は、突っ伏したかった。いや、この状況で突っ伏したりなんかしたら、それこそ恐ろしいことになるのは火を見るより明らかだから、死んでもこの体勢を崩すわけにはいかないことも百も承知だったが。
「あー、鮫山さんだけズルイ〜」
森下が負ぶさるように鮫山の背にのしかかり、顎を鮫山の右肩に乗せたまま、小さな子供がぐずるように前後に大きく揺さぶった。
「もちろん、森下さんも泊まっていって欲しいな〜」
「ほんまに?」
「ほんま、ほんま」
そして2人は互いの保護者には目もくれず立ち上がり、タンゴでも踊るかのように両手をがっちりと握り合って見詰め合った。
「お泊まりお泊まり」
「お泊まりお泊まり〜」
いい加減、雷を落とさねばと思った火村と鮫山はいざ、目標に向かってその怒りを吐き出そうとしたのだったが。
見下ろした先の目標は既に壁に背を預け、身を寄せ合うように、それはそれは平和な顔で遙か夢路に旅立っていた。
火村と鮫山は顔を見合わせ、がっくりと肩を落とした。
「飲み直しましょうか」
「ええですね、少しだけ」
どちらからともなく小さく笑いを零し、2人の平和な顔を肴に、しばし穏やかな時間を満喫することにした。
その翌朝。
あまり早いともいえない時間に、702号室から3人の男たちが大慌てで飛び出して行ったとか行かなかったとか……End/2002.02.07
ヒロさぁ〜ん、ありがとぉございますぅ〜vvv 私めがお願いしていた例のパソコン教室編ですね。 おステキ☆ うっとり…。 ヒロさんの相棒のたまきさん曰く、「鮫やんに救心を!」だそうですが---。 はい、その理由がよぉく判りました。確かにこれじゃ、鮫山さんには救心が必要ですわ。 哀れな---(T^T)g 知らないってことは強いというか、無邪気は強いというか---。ある意味、アリスと森下さんのコンビって最強? 果たして大阪府警に明日があるのかどーかは、とっても不安です。 あ〜でも私、例え新婚家庭に迷い込んだような罰の悪さを感じてもイイから、アリスと一つお鍋でおでんを突っつきたいです☆ もちろんその場に火村がいないと、なお嬉しいけど…。 |
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