鳴海璃生
2月とは思えない暖かな昼下がり、朝食兼昼食を済ませたアリスはソファとテーブルの間の狭い隙間に座り込みスポーツ紙に目を通していた。
紙面の半分以上を割いて伝えられるのは、アリスの愛する阪神タイガースのニュース。監督、選手の1日の動向や今期の展望について書かれた記事は、どれもこれも弾むような明るい未来を予測させた。そして、当然のように紙面に踊る『優勝』の文字。
プロ野球ファンに春を告げるキャンプが始まってまだ数日の今頃は、アリス達阪神タイガースファンにとっても、もっとも心躍る時期なのかもしれない。昨年までの指定席だった最下位からの脱出は当然のことながら、狙うはAクラス! ---なんて、ケチなことは言わない。宿敵巨人を一刀のもとに倒し、竜も港に輝く星も燕も鯉も蹴散らして、ペナントは我が大阪の青空に翻るのだ。---と、夢や期待を大きく膨らませることのできる時期なのだろう。
そして、そんな彼らの期待を現実へと変えてくれそうな頼もしい新聞記事の数々---。最終ページまでをじっくりと嘗めるように読みながら、アリスはにんまりと口許に笑みを刻んだ。あぁ…、何だか今年は美味いビールが呑めそうな予感がする。
「さて、と…」
折り畳んだスポーツ紙をテーブルの上に置き、アリスは半身を捻るようにしてソファへと視線を移した。既にテリトリーと化したソファの上では、ふんぞり返るようにくつろいだ姿勢で犯罪学者殿が一般紙に目を通していた。何か気を惹く記事でもあったのか、視線はなぞるように社会面を行き来している。
読み終えた新聞を交換しよう---と言っても、火村はスポーツ紙なんて読みはしないが---と思っていたアリスは、火村のその様子に小さく溜め息を零した。一体どういう記事が載っているのかは想像もつかないが、あの雰囲気では暫くそれも敵いそうにない。
---仕方あらへんな。
少しだけ温くなったコーヒーを喉に流し込み、アリスは怠惰を埋めるようにきょろきょろとテーブルの辺りを見回した。日曜日の新聞になら通常のものに加えてもう一つ。文化関係を特集した新聞が付いてくるのだが、平日の今日ではそれも見あたらない。手持ち無沙汰に仕方なく、アリスはテーブルの上に山と積まれた広告類に手を伸ばした。
いつもならさっさとゴミ箱に放り込むそれらは、下手をするとメインである新聞のページ数よりも数が多い場合がある。時には、よくもまぁこんな物を新聞受けに入れられたな…、と感嘆してしまうぐらいにもっこりとした厚みを持つ場合もあった。どうやら今日がまさしくその日に当たっていたらしく、テーブルの上に積み上げられた広告類の厚さは数センチにも及んでいる。
結構な重さのそれを手元に引き寄せ、アリスは上から順に目を通していった。
その大半を占めているのは、不動産関係の広告。次から次へと現れる一戸建てや分譲マンションは、『環境抜群』『交通至便』などの不動産にはありがちな煽り文句に彩られている。中にはいわゆる億ションなるもの幾つか混じっていて、一体どんな人が住むのだろうと思わず溜め息が零れた。バブル崩壊だの景気はどん底だのと言ってはいても、こういう高価なマンションをぽんと買えるぐらいのお金を持っている人はどこにでもいるものらしい。
機械的に広告の山を崩していく内に、広告の内容が不動産や車から近所のスーパーの安売り広告へと変わってきた。身近な環境に近づいてきたことにほっと安堵を覚えながら、アリスは次々と広告の山を低くしていった。幾ら身近な環境とはいっても、安売り情報に興味があるわけでもない。
---はよ読み終わらへんかな。
ちらりちらりと火村の様子に視線を走らせながら、広告を1枚ずつ手に取っていく。とその時、アリスの視線と一貫した動きを繰り返していた右手が、とある1枚の広告で不意に止まった。それは、数ページを擁した梅田にあるデパートの広告だった。幾分機械人形のような往復運動を繰り返していた手の動きを止め、アリスはその広告を取り上げた。
近所のスーパーの安売り広告とは比べようもない洒落たレイアウトで飾られた紙面には、輸入品や一度は聴いたことのある有名店のチョコレートの写真が鏤められていた。それをじっと真剣に覗き込み、アリスは小さく声を漏らした。
「あれっ?」
シンとした空間に突然響いた声に、火村は目を通していた紙面から顔を上げた。声の主に視線を落とすと、今までことりとも音をたてずにスポーツ紙に張り付いていたアリスが、身を屈めるようにして某かの広告を熱心に見入っている。
現場第一主義のアリスは各種店舗、特にコンビニの探索には殊の外熱心で、例えこれといった用事が無くとも日に一度は必ずといって良いほど近所のコンビニに足を運んで新製品や季節限定品のチェックを行っている。だから当然、日頃の購買品の選択も、彼の好奇心・探求心・ミーハー心に起因するところが大きい。その結果、アリスの部屋には役にも立たない代物だの購買の失敗品だのがごろごろと転がることになり、これまた当然の如くそれらの後始末は火村が追うことになっていた。
口を酸っぱくしてアリスの耳にタコができるぐらい「つまらねぇ衝動買いはするな」と言っても、アリスの悪癖---火村にとってはそうとしか思えない---は一向に改まらない。かといって、特売だの安売りだのに興味があるわけでもない。だいいち有栖川家の通常のメインの食事は、冷凍食品かカップラーメンかコンビニ或いは総菜屋の弁当だ。そんな品物にどう深慮を尽くしてみても、特売や安売りに縁があるとは思えなかった。
そのアリスが、熱心に広告に目を通しているだなんて…。全くもって似合わないこと甚だしい。
---まさかスーパーの特売とかじゃねぇよな。
興味をそそられた火村は、ひょいと屈み込むようにして半身をアリスの方へと乗り出した。
アリスの手元にあったのは、梅田のデパートのチラシ。綺麗にレイアウトされた紙面は、所謂バレンタイン仕様にラッピングされたチョコレートの広告だった。
---何でこんなもん見てるんだ?
アリスの手元を覗き込みながら、火村は緩く頭を傾げた。バレンタインのチョコレートなんて、スーパーの特売以上にアリスには縁がない代物だ。
---もしかして俺に買ってくるつもりなのか?
ちらりとそう考えて、火村は緩く頭を振った。こんな想像はするだけ無駄ってものだ。
「君には二度とチョコレートなんてやらへんっ」
数年前のホワイトデイに「チョコレートの礼だ」とか何とか言って好き放題やらかした翌朝、蒲団の中から恨めしそうな視線を投げかけてアリスは掠れた声で火村にそう宣言した。それ以来バレンタインというと、アリスは火村を避け捲っている。その隙をぬうように火村がアリスにチョコレートを渡して、ホワイトデイにしっかりお返しを奪い取る。それが、ここ数年のバレンタインの過ごし方だった。
まさか自分を差し置いてバレンタインのチョコレートをやる相手が、アリスにいるとは思えない。それに第一、バレンタインは男が女性からチョコを貰う日であって、決して渡す日ではないはずだ。
「おい、アリ---」
火村が呼びかけようとした時、アリスが小さな声でぽつりと呟いた。
「う〜ん…、何でホワイトデイのお返しがチョコレートなんや。それとも、最近はそういう風になってんのか?」
その言葉に、火村の眉が小さく上がる。口にしたアリス自身は気づいていないかもしれないが、火村にしてみればそのまま聞き捨てるわけにはいかない台詞だ。僅かに身を屈めた火村は細心の注意を払って、殊更にさり気なくアリスに問い掛けた。
「ホワイトデイのお返しを探してるのか?」
「そや。この間チョコ貰ったから…」
真剣に広告を見つめているアリスは、自分が何を口にしているのかまるで気づいていないらしい。もっとも気づいていたら、こんな台詞は絶対に口にはしなかっただろうが---。
「へぇ〜、誰に?」
「うん…。亜貴穂先ぱ---」
相手の名前を口の端に上らせ、アリスは漸く今自分が置かれている立場に思い到った。咄嗟にしまった、と臍を噛んだが、既に漏らしてしまった言葉は取り返しようがない。かといって、言葉の不味さに覚悟を決める勇気もない。こくりと小さく唾を飲み込んだ時、頭上から低い声が響いてきた。
「三反園亜貴穂かよ」
「いや、あの…」
取り繕うように言葉を継ごうとしたアリスの襟首を、火村がぐいと引いた。目の前にあるのは、見慣れた男前の顔。双眸を眇めたその表情は、なまじ整っているだけに余計に凄みを増す。
「てめぇ、俺に内緒であんな女と連絡取ってたのかよ」
そんな滅相もない---。
地獄の底から聞こえるような低い声に、アリスはぶんぶんと勢い良く頭を左右に振った。幾ら警戒心に疎いアリスとはいえ、火村の天敵とも言えるような相手と密会するだなんて---。そんな我が身を危うくするような真似をするわけがない。
「じゃあ、何であの女からチョコなんて貰うんだ?」
「だからあの‥佐山教授の退官慰労パーティで…」
「佐山教授?」
ぼそぼそと口中で呟くようなアリスの言葉に、火村は僅かに視線を揺らめかせた。社会学部であった火村は直接教えを請うたわけではないが、確か法学部にそんな名前の教授が在籍していたことは記憶している。
アリスの襟首を掴んだまま、火村はぐいっと指先に力を込めた。その力に引きずられるようにアリスはよろよろと立ち上がり、ぽてんとソファに腰を下ろした。
「詳しく話しな」
射すくめられるように睨みつけられ、アリスはこくこくと力無く頷いた。
「実は、先々週の土曜日に佐山教授の退官慰労パーティが京都ホテルであってん」
ぽつりぽつりと語りだしたアリスの言葉に、火村は緩く眉を寄せカレンダーを脳裏に描く。
確かその日は「今から帰るのめんどいから泊めて」とか何とか言って、火村の部屋にアリスが転がり込んできた日だ。すっかり酔っぱらってやたらとご機嫌だったのを覚えているが、それがあの女、三反園亜貴穂からのチョコレートが原因だったせいか、と思うとむかつくことこの上ない。
むっと顔を顰めた火村の表情をちらりちらと上目遣いに伺いながら、アリスは慎重に言葉を選んで説明を続けた。亜貴穂からチョコレートを貰ったのは事実だが、その上に勝手な誤解を積み上げられたのでは溜まったものではない。相手が他の女性ならまだしも---いや、それでも火村の機嫌は良くないだろうが---、三反園亜貴穂じゃ怒りの度合いも天井知らずなのは目に見えている。それが嫌というほど判るだけに、言葉の選び方には慎重の上にも慎重を記さねばならない。
「俺も3年から佐山教授の選択取ってたからちらっと顔出したんやけど、そこに亜貴穂先輩も来てたんや。そんでパーティー終わった後に、久し振りやし、お茶でも飲もうかって言うてホテルのラウンジでお茶飲んだんやけど…」
「その時に、あの女がお前にチョコなんて渡しやがったんだな」
徐々に小さくなっていくアリスの語尾を引き取るように、火村が憎々しげに言葉を継いだ。ちらりと火村の表情を眺めたアリスは、こくりと小さく頷いた。
三反園亜貴穂は、アリスの1年先輩にあたる。3年、4年の2年連続でミス英都の称号を獲得した美人で、性格は女性版火村といっても過言ではないかもしれない。そのうえ、火村と並ぶくらいに頭もいい。お茶を飲みながら聴いた話では、現在は神戸の女子大で火村と同じ助教授として教鞭を取っているとのことだ。
その亜貴穂とアリスの出会いは、彼が大学3年の時に遡る。
法学の選択科目である佐山教授の講義を取った時、同じクラスに彼女も在籍していた。そう人数も多くないゼミ形式の講義だったため次第に親しく話すようになったのだが、その時点では火村も単なるアリスのクラスメート程度の認識しか彼女には持っていなかった。
その認識を大きく覆し、火村の天敵とまでいえる地位に亜貴穂が上り詰めたのは、夏休みも間近な7月。この剛胆な女性はよりにもよって学生でごったがえすお昼時の学食で、しかも目の前に火村が座っている状態で、「有栖、私と付き合わない?」などとアリスに交際を申し込む暴挙に出たのだ。
一体何が起こったのかと目を白黒させるアリスと、眉を潜めた火村を交互に見つめ、亜貴穂はにっこりと華のように微笑んだ。ついでにデートの約束まで取り付けて颯爽と身を翻した姿は、今も目に鮮やかだ。だが亜貴穂が去った後の騒ぎは、今思い出しただけでも頭痛を覚えてしまう。
その後も何かとちょっかいを掛けてくる彼女---もちろん交際の申し込みは、懇切丁寧に断った---に、最初は見て見ぬ振りを決め込んでいた火村の機嫌も次第次第にどん底へと向かっていった。目の前で繰り広げられる美男美女の争いはそれこそハブとマングース並で、間に挟まれた単なる普通の人間のアリスは、ただただオロオロするばかりだ。
今にして思えば、亜貴穂はそれを楽しんでいたのかもしれない。---と、冷静な判断を下すこともできる。だが、当時のアリスにそれが判るはずもない。京大の大学院に進んだ亜貴穂に卒業祝いの花束を渡した時には、本気で嬉し涙が零れそうだった。
そういう過去の経緯だある相手だけに、たかだか義理チョコの類であったとしても火村の逆鱗に触れるのは必至で---。
「それで、お前はあの女にホワイトデイのお返しをする気なのかよ」
一段と険しくなった火村の口調に、アリスは困ったように小さく頷いた。自己弁護的言い訳をさせて貰うなら、アリスだとて決して好きこのんでホワイトデイにお返しをしたいわけではないのだ。
「やって、亜貴穂先輩が期待してるって言うんやもん」
恋愛感情とは別の意味で、アリスは昔っから彼女には頭が上がらなかった。そして、それは今でも変わりがない。そこがまた火村の気に触るらしいのだが、致し方ないではないか。
気弱に呟いたアリスにちらりと一瞥を走らせ、火村はフンと鼻を鳴らした。
「それで、デパートのチラシを見て適当な物を探してたってわけか---」
独り言のような火村の呟きに、アリスはこっくりと頷いた。もっとも何故かチョコレートばっかりで、何の役にも立たなかったのだが---。
「あんな女には、飴玉でも送りつけときゃ十分だよ。それに、だいたい今頃広告見ても載ってるわけないだろうが。まだバレンタインも来てないんだぜ」
「えっ?」
火村の言葉に、アリスは慌てて新聞を広げた。紙面の上辺に印刷されている日付は、2月7日。既にチョコレートを貰ってしまっていたから、すっかりバレンタインは終わっているものと思っていた。だがそのバレンタイン自体が、確かにまだ1週間も先の話だった。道理で広告のページにチョコレートが氾濫しているわけだと、アリスは他人ごとのように納得した。
「おい、アリス」
くいっと髪の毛を引かれ、アリスは火村へと視線を移す。つい先刻まで不機嫌な表情を晒していた火村の口許には、ニヤニヤと質の悪い笑みが刻まれていた。
「あの女からのチョコを貰ったってことは、もちろん俺からのチョコも受け取ってくれるんだろうな」
どこかからかうような口調でそう告げる火村の目は、口調とは相反する光を湛えている。とてもじゃないが、「嫌だ」などと言える雰囲気じゃない。
「ホワイトデイのお返しも期待してるぜ」
ニヤリと笑いながら告げられた言葉に、アリスは引きつるような笑みを湛えてこくりと頷いた。End/2001.02.20
15000hits記念です。すっかり時期がずれてしまいましたが、一応バレンタインものなので3月まで引きずらなくてホッとしてます。本当はこれとは別のクリスマスネタを考えてたんですが、幾ら何でもそれはちょっとね…。ということで、自粛しました(笑) 慌てて作ったネタなので、めっちゃいい加減です。ごめんなさいm(_ _)m ホワイトデイ or 学生時代の話は、気が向いたら---ということで、書き逃げです(^_^;)ヾ
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