Dominoes

鳴海璃生 




 寝癖のついた髪をうざったそうに掻き上げながらドアを開けると、リビングの中にはセピア色の風景が広がっていた。レースのカーテンを通して上り始めた太陽の光が入ってきてはいるが、それはまだとても弱く、宵闇を部屋からぬぐい去るまでには至っていない。
 ドア口で足を止め、火村は中の様子をぐるりと見回した。セピア色の空間はまるで1枚の絵のようで、時間の感覚さえもおぼつかなかった。その中で唯一時間を動かしているのは、TV画面の中のアナウンサー達の声と姿。それを見ている本人はどこかぼんやりとして、時間の感覚を感じさせない。
 既にこの部屋における己の定位置と化したソファの上には、丸められた毛布が乱雑に置かれている。その様子から察するに、ぼんやりとTVに見入っている人間がそこで睡眠を貪ったようには見えなかった。自分が使っていたベッドにも来た気配は無かったし、多分毛布にくるまって暖を取りながら夜明かしをしたに違いない。
 ガラスのロゥテーブルの上には、愛用のマグカップとスナック菓子の袋。ドアポケットから取ってきたらしい新聞は、きれいに折り畳まれたままテーブルの空いたスペースに放り投げられている。
 TVの前にはクッションが二つ。昨日買ってきたばかりのゲームソフトの箱と少し皺の入った紺色のビニールバッグは、クッションの横に乱雑に散らばめられている。だがゲーム機の方は、何故か飾られているかのようにきちんとした状態でクッションの上に乗っかっていた。
「やれやれ…」
 小さく嘆息して、火村はリビングへと足を踏み込んだ。久し振りにあった友人より新しいゲームソフトを選んだ推理作家は、睡魔の誘惑さえも振り払って、勇者への道を驀進なさっていたらしい。
「おい、アリス」
 低い呼びかけに、アリスがのそりと顔を上げる。どこか焦点の合っていないような眼差しは、言葉よりも雄弁に火村に語りかける。テーブルの上のマグカップと空になったスナック菓子の袋を取り上げながら、火村は再度溜め息を落とした。
「眠いんなら、とっとと寝ろよ」
 嘆息するような声音にアリスはふわぁと欠伸を零し、子供のような仕種で目を擦った。
「腹空いてんねん」
 空腹を持て余した勇者は、どうやら食事係が起きてくるまでの時間を朝の情報番組なんぞを見て潰していたらしい。とはいえ、TV画面の左隅に表示されている時間はまだ朝の6時40分。今日が土曜日で大学での講義の無い日であることを考えあわせれば、到底火村が起きる時間ではなかった。今日は偶々早くに目が覚めてしまったのだが、もし自分が起きてこなかったら、こいつは一体どうするつもりだったんだろう。
「お前、俺が起きてくるのを待ってたのかよ?」
 まさかそれはあるまいと思いつつも、火村は呆れた口調で問い掛けた。寝惚け眼のアリスは、彼自身が認識しているよりも、頭の方がより顕著に眠りの態勢に入っているらしい。応える言葉に、1テンポほどの空白が空く。
「ん〜、そういう訳でもないんやけど…。火村が起きてきたらええなぁ、とは思うとったわ」
 以心伝心じゃないが、通常になく自分が早く起きたのは、もしかしたら推理作家の食べ物に対する執念のせいかもしれない。昨日は一晩放っておかれたうえに、朝も早くから食事の用意。おまけにアリスのこの様子では、今日1日自分はアリス無しで過ごすことになりそうだ。これじゃ、全く何のためにここに遣ってきたのか判らない。
 ---借りの分はしっかりつけとくからな。覚えてやがれ。
 心の中で物騒なひと言を呟きながら、火村はキッチンへと向かった。途中で足を止め「テーブルの上片づけとけよ」と声を掛けると、やっぱり1テンポ遅れた返事が背中越しに返ってきた。
 既に部屋の主よりも使い込んだキッチンに立ち、冷蔵庫の扉を開ける。昨日この部屋にやってくる時に買い込んできた食料のおかげで、常になく冷蔵庫の中は潤っていた。
 どうせこれから眠るのなら、それほど凝った朝飯を作る必要はないだろう。自分の分の朝食は後回しにして、取り敢えずアリスの分だけ作ることにする。エッグホルダーから卵を2個掴み、ついでにバターと牛乳を取り出す。それをシンクの上に置き、冷凍庫からがちがちに凍った山切りの食パンを2枚取り出した。
「フレンチトーストとフルーツサラダだな」
 朝食というよりはおやつのようなメニューだが、両方共にアリスの好物なのだから文句をいうことはあるまい。だいいち人に食事の用意をさせておきながら文句なんて言いやがったら、その場で作った朝食は没収してやる。
 ボウルに入れた卵と牛乳と砂糖をかき混ぜ、その中にパンを2枚放り込む。鼻歌混じりにフライパンにバターを溶かし、程良く温まったところで卵をひたひたに浸した食パンを放り込んだ。ジュッと芳ばしい音がキッチンに広がり、すぐに甘くて美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐり始めた。
 出来たてのフレンチトーストを皿に盛り、淡い海の色をしたガラスの器に缶詰のフルーツを空けて、その上にヨーグルトをぶっかける。手軽に作った朝食をトレイの上に置き、空いたスペースに自分の分のコーヒーとアリスの分のホットミルクを置いた。それを抱えリビングに戻ると、もしかして寝こけているんじゃないかと危惧したアリスは、一心不乱に新聞を読みあさっていた。
「おい、アリス。飯できたぜ」
 声を掛けてもアリスは新聞から目を離さず、「ん〜」だか「あ〜」だか訳の判らない返事を返してくる。火村は片づけられた---単にテーブルの上にあった物を下におろしただけだが---テーブルにトレイを置き、アリスの髪を2度3度軽く引いた。
「アリス、飯」
 少し強めに声を掛けると、アリスが驚いたように顔を上げた。先刻よりははっきりと目覚めているようだが、まだどこかぼんやりとした様子に火村は緩く眉を寄せた。
「とっとと喰って寝ろよ」
 火村の顔と目の前の朝食を交互に見つめ、嬉しそうに破顔する。フォークとナイフを手に「いただきます」と丁寧に手を合わせると、早速湯気のたつフレンチトーストへと手を伸ばした。嬉しそうにパンを頬張るその姿は、火村の飼っている3匹の猫が餌を与えられた時の姿とどこか似通っている。口許に苦笑を刻みながら、火村は自分用に淹れた少しぬるめのコーヒーに手を伸ばした。
「さっきは何必死になって読んでたんだ?」
 口に入っているパンをホットミルクで流し込んだアリスは、傍らの新聞に手を伸ばして、それをテーブルの空いているスペースに広げた。
「ほら、ここ」
 楽しげな様子でアリスが指し示したのは、朝刊の第二社会面。四角く囲まれたそこには、長く列を作ったペンギンが倒れているイラストと、『ペンギン なぞのドミノ倒し』という文字が白抜きで書かれていた。
「何だ、こりゃ?」
 怪訝な表情で、火村はアリスの指先を覗き込んだ。どうやらすっかり眠気が吹っ飛んだらしいアリスは、意気揚々と事に成り行きを語りだした。
「さっきTVで言うてたんやけど---」
 アリスの言葉に、火村はちらりとTV画面へと視線を向けた。画面の中では赤いワンピースを着た女性アナウンサーが、蛙のぬいぐるみを相手に天気予報をやっている。どうやら、偶にアリスが早起きした時に好んで見る朝の情報番組らしい。その番組の中では、今日発売になった新聞の中から政治・スポーツ・芸能とジャンルごとに、めぼしい記事が紹介されていた。
「ペンギンがな、飛行機を見てドミノ倒しになるそうなんや。面白そうやったんで慌てて新聞を見てみたんやけど、何やすごいんやで。ほんまにこんなんなるんかいな」
 アリスの手元に視線を走らせる。ロンドン発のそのニュースは、南大西洋の島に生息するオウサマペンギンの群が航空機に驚いて大規模な将棋倒しを起こす現象が明らかになり、英空軍と科学者グループの共同調査団が島に派遣されたというものだった。
 どうにも眉唾にしか聞こえないそのニュースが、アリスにはいたくお気に召したらしい。そういえばこいつは種類を問わずに動物好きだが、その中でもペンギンがやたらと気に入っていた。本屋でペンギンの写真集を見ては嬉しそうに笑っているし、去年のクリスマスプレゼントにリクエストされた何とかって画家の画集には、とぼけた顔をしたペンギンがふわふわと空を飛んでいる絵が収録されていた。
 パクパクとフレンチトーストを口に運ぶアリスと、ぼんやりと空を見上げて寝ころんでいるペンギンのイラストを交互に見比べて、火村は小さく息をついた。アリスがやたらとペンギンを気に入っているのは、もしかしたら同族に対する親近感なのかもしれない。のんびりのほほんとしたペンギンと脳天気に食事をするアリスの姿には、どこか相通ずるものがある。
 フレンチトーストの最後のひと欠けを口に放り込んだアリスは、縁に青いラインの入ったプレートを脇にどけ、火村の方へと身を乗り出してきた。もちろん手には、フルーツサラダが盛られたガラスの器とフォークがしっかりと握りしめられている。
「ペンギンさんには可哀相やけど、ちょっと見てみたいと思わへん? 40万羽のオウサマペンギンが、航空機の進行方向に沿ってドミノ倒しみたいにパタパタと倒れていくんやで。壮観やろなぁ…」
 ヨーグルトがたっぷりと掛かった林檎をフォークに突き刺しながら、アリスがうきうきとした口調で喋る。それを横目に見つめながら、火村はうんざりしたように冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。
「お前、こんな記事を信じてんのかよ。冗談に決まってんだろ」
「エイプリルフールじゃあるまいし、何で天下の全国紙に冗談なんて載せるんや。本当のことに決まってるやろ。---ペンギンのドミノ倒しかぁ。水族館とかでも見れへんもんかな。あっでも、倒れたペンギンて、一体どうやって立つんや? あの短い足やったら、早々上手くは立てへんよな」
 その様子を頭に思い描いたのか、アリスがククッと小さく笑う。その表情からは、今アリスの頭の中でどういう情景が描き出されているのかが丸判りだ。
 ---何がペンギンドミノ倒しだ。馬鹿馬鹿しい。
 余りご機嫌の芳しくない助教授は、苦々しげな表情でアリスを見つめた。ペンギンのニュース自体がつぼに填ったせいもあるかもしれないが、アリスが妙にハイになっている原因の大半は、徹夜明けで頭の螺旋がぶっ飛んでいるからに違いない。このまま放っておくと、どこまでエスカレートするか判らない。そしてそれはとりもなおさず、火村に迷惑・面倒・気苦労の類を引き連れてくることになる。
 とっととベッドに放り込むか、と思った時、火村は不意に数年前の出来事を思い出した。今まですっかり忘れ去っていたが、ドミノ倒しといえば目の前の推理作家も南大西洋のペンギン並に見事なパフォーマンスを披露してくれたことがあった。
 カタンとガラスと陶器の触れ合う硬質な音に、アリスは視線を上げた。テーブルに肩肘をついた火村が、ニヤニヤと楽しげな笑みを口許に刻んでいる。口の中の蜜柑をごくりと飲み込んで、アリスは訝しげに眉を寄せた。
「---何やねん、その面?」
 背中がゾクゾクするような嫌な予感を無理に押さえ込みながら、アリスは恐る恐るという風に問い掛けた。余り品の良くない笑いを深くした火村は、どこかからかいを含んだ眼差しを注ぎながらアリスの方へと僅かに上半身を屈めた。
「いや。アリスがやたらとその記事を気に入っているのは、ご同輩だからかな、と思っただけさ」
 くいと顎を上げ、アリスの手元にある新聞を指し示す。つい今し方までうきうきとした気分で読んでいた新聞記事にちらりと視線を落とし、アリスはこくりと小さく息を飲んだ。背中を伝う嫌な予感てやつは、じわりじわりと大きくなっていく。
「ご同輩ってのは何やねん。俺は飛行機に驚いて倒れたことなんて、ないで」
「まぁな。だが、ドミノ倒しってのはあるだろうが」
「何言うて---あっ!」
 勢い込んだ反論の言葉を、アリスは咄嗟に飲み込んだ。記憶の引き出しの奥底に埋め込んだ思い出したくもない光景が、マッハの勢いで浮上してくる。
 ---あぁ、何でこんなところで思い出してしまうんや。
 己の記憶力の良さを悔やみつつ罰の悪い思いで、アリスは目の前の犯罪学者を睨め付けた。口許に浮かぶ質の良くない嗤いは一層深みを増し、眼差しに含まれた楽しげな色は、アリスにもはっきりと見て取れる程に色濃くなっている。
 ---ちくしょう。
 唇を噛み締めるように小さく呟いた言葉は、弾むような火村のバリトンに掻き消された。
「なぁ、アリス。あれはその記事のペンギン以上に見事だったよな」
 少しずつ陽の光に支配されていくリビングの中で、火村のバリトンの声だけが異質な色を放ち光に混じることなく拡散していった。

◇◇◇

 それは今から3年程前の、秋も深まった晴れた日のことだった。
 東京の出版社にちょっとした用事のあった私は、助教授になって初めての学会に出張する火村とスケジュールを合わせて3泊4日の東京旅行としゃれ込んだ。もちろん火村の学会は2日で終わりだし、私に至ってはほんの小一時間もあれば済む程度の用事でしかなかった。
 それを何故3泊4日もの滞在にしたかというと、私にはどうしても行きたい所があったからだ。しかもその場所は、一人で行くのがちょっと恥ずかしいような場所だったのだ。いやそれ以上に三十路を過ぎた男が二人で連れ添っていくような場所でもないのだが、言うなれば一人より二人。同じ恥ずかしい思いをするにしても、二人でいれば幾らかはましに違いないとの、私の打算的深慮がなされている。
 その場所とは、千葉にあるのに東京の名を冠する、ある意味日本1有名なテーマパーク---要は遊園地だろう、と思うのだが---だ。
 東京ディズニーランド。
 今さらとか、何でまたとか、男二人で---と色々ご批判、ご指摘はあるだろうが、ディズニーランドでの1日を報告する京都在住の先輩作家の余りに楽しげな口振りに、どうしてもどうしても行きたくなってしまったのだ。となったら、思い立ったが吉日。私は嫌がる犯罪学者を宥めすかして、ついでに入場料および昼食・夕食は奢りという多大なリベートまで付けて、ようやっとこの浦安の地に辿り着くことができた。
「---ったく、冗談じゃねぇぜ」
 隣りを歩く仏頂面の犯罪学者は、燦々と輝く太陽とは相反する低い声で呟いた。私自身もちょっと身の置き所がないくらいの窮屈な感じは、東京駅から乗った京葉線の中でもひしひしと感じてはいるのだ。
 何せ周りは、足取りも軽いお嬢ちゃん・お坊ちゃん方---休みでもないのに、何故いるという疑問はこの際ゴミ箱にでも捨てておく---や、すっかり二人の世界を作っている大学生のカップル。そして、トレンドなファミリードラマにでも出てきそうな若い家族連れ。日本晴れの天気に相応しい一団の中にあって、30を過ぎた男の二人連れというのは、まるでふわふわパステルカラーの世界に浮き出た黒い染みか、次元の違う世界とでもいうような、一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「ええやんか。もっと年齢喰ったら、絶対来られへんようなとこやんか。これが最初で最後のチャンスやと思えば、こう気分も浮き立つやろ」
「俺は一生に一度も足を踏みいれなくても、絶対に後悔しない自信があるぜ」
「あー、もうッ。ぐちゃぐちゃと煩い奴やなぁ。男は引き際と諦めが肝心なやで」
 私は火村の胸元に買ったばかりのパスポートチケットを押しつけた。もちろんこのチケットにも、ミュージカル風に両手を広げたミッキーマウスが印刷されている。それを嫌そうに見つめ、火村は顔を顰めた。なかなか手を出さない火村を睨め付けながらぐいぐいと何度か押しつけると、火村は諦めたように私の手からチケットを奪い取った。
「ほな、行こか」
 逃げられないようにジャケットの裾をぐいっと握り、私は犯人を連行するような注意深さで火村を正面入り口へと引っ張っていった。
 中に入ると、花々で作られたミッキーマウスが最初に目に飛び込んできた。地に張られた白い煉瓦が太陽の光を弾いている。花壇の向こう、真っ正面にあるのが、古き良き時代のアメリカの街を再現したワールドバザール。正面入り口から入ってきた人達はきょろきょろと辺りの様子を見回しながら、足取りも軽くワールドバザールへと向かっていく。
 私は、ミッキーマウスをかたどって花が植えられた花壇の前で足を止めた。どこもここも美しく作られたこの場所は、現実から遠くかけ離れた夢の国ようだ。まるで別世界に迷い込んできたような不思議な感覚に、私は大きく息を吸い込んだ。海の香りを含んだ空気が、ゆっくりと身体中を巡っていく。と同時に身体中の細胞が、現実世界から夢の国の住人仕様に変化していくような気がした。
 光を弾く白い煉瓦と高い青空との対比に目を細め、首を伸ばすようにしてぐりると辺りの様子を眺め回した。その視界の中、花壇の向こう側にもこもことした白いお尻が左右に動いているのが見えた。
「あっ、ドナルドや」
 握りしめていた火村のジャケットを離し、私は花壇の向こうへと回り込んだ。お馴染みのセーラー服姿のドナルドダックと白雪姫の7人の小人が4人、右に左に踊るような仕種で歩いていた。少し離れたワールドバザールの入り口辺りには、赤いミニスカートのミニーマウスと山高帽を被ったグーフィー。反対側にはしましまのマフラーを巻いたプーさんと水色のマフラーのピグレット。
「あー、しまったぁ。カメラ持ってくるんやった」
 ディズニーランドではみんなが子供---という言葉通り、すっかり年齢を忘れた私は、地団駄を踏まんばかりに口惜しがった。あぁ、ドナルドと並んで写真を撮りたかったじゃないか。
「まっ、ええか。次があるしな」
 これが最初で最後との決心をあっさりと覆し、取り敢えず私は目の前のドナルドへと近寄っていった。私に気づいたドナルドが、お尻をふりふりこっちへと歩いてくる。ああ、何てかわいいんだ。
 ドナルドと握手をかわしていると、白雪姫の小人達もわらわらと私達の方へと近づいてきた。小人という設定のせいなのか、彼らは私より随分と背が低い。せいぜい1m60cmあるかないかというところだろう。着ぐるみだと判っているのに、周りにいる彼らを見ているとそんなこともすっかり忘れてしまう。
 火村も来ればいいのにと思い、小人の帽子の横からひょっこり顔を覗かせた時、まるで破裂したような子供の泣き声が聞こえてきた。反射的に声のした方を振り向いてみると、三つか四つぐらいの子供が、白い煉瓦の上に張り付くような恰好でころんと転がっていた。きっとドナルドの方へと掛けだして、転んでしまったのだろう。まだ若い父親が、子供の方へと慌てて駆け寄ってきていた。すぐに抱き上げて宥めてるが、子供は一向に泣きやむ気配がない。
 何かを訴えるように、子供が小さな手で空を指さした。それにつられるように私は、視線を空へと向けた。視線の先では、ミッキーの顔をした風船がふわりふわりと青い空へと上っていっていた。たぶん転んだ瞬間に、手にしていた風船を離してしまったのだろう。手を伸ばして届く範囲ならすぐにでも取り戻してあげるのだが、少しずつ高度を上げて空へと帰っていく風船は、とても人の手には届きそうにない場所をふわりふわりと気持ちよさそうに漂っていた。
 とその時、風船の行方を追っていた私の視界の端で、何か白いものがぐらりと揺れた。何だと思う間もなく、ドナルドの丸い頭が視界一杯に広がる。
「ちょ、何なんやーッ!」
 私と同じように風船の行方を追っていたドナルドだが、どうやらその頭でっかちのバランスの悪さが災いしてしまったらしい。ぐらりと倒れかかってきたドナルドの身体を受け止めようと、私は慌てて手を伸ばした。だが、余りに突然のことで上手く身構えることもできず---しかも着ぐるみの身体は、私が想像していたよりもずっと重かったのだ---、私はドナルドの身体を抱き留めるようにして、ドナルドと一緒に後ろへと倒れ込んでしまった。
 地面に張りつめられた煉瓦で頭を打つことを覚悟した私は、咄嗟に目を瞑った。だが、病院行きも覚悟した痛みはいつまで経っても襲っては来ない。その代わりに、身体の下にぼわんとした柔らかなものの存在が感じられた。
 恐る恐るというように開いた両目に写ったのは、眩しい程の青い空。ドナルドに組み敷かれたままの情けない恰好で、私は魅入られたようにその青空を凝視した。
「アリスッ!」
 まるで永遠にも感じられた一瞬の後、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。頭を動かして声のした方を見ると、少しだけ焦った表情の犯罪学者がこちらに向かって駆けてくる姿が、目に飛び込んできた。
 幸いにもどこも怪我らしきものをしていない私は、慌てて起きあがろうとするが腹の上にのっかったドナルドのでかい頭と重い身体がじゃまで起きあがることができない。そのドナルド自身も何とか起きあがろうとしてじたばたと黄色い足を動かしているのだが、如何せんこのバランスの悪い頭でっかちな体型ではそれもままならないらしい。おまけに頭の下では何やらもぞもぞと動いているし---。
 ---って、俺なに下に引いてんのや?
 限られた狭い範囲で頭を動かしてみても、自分の身体の下にあるものの正体が掴めない。取り敢えず何とか起きあがらねばと思うのだが、ドナルドと正体不明の物体に挟まれた身体は、私の思惑通りには動いてくれなかった。こうなったら助けを待つしかないか、と諦めにも似た気持ちで空を見つめた時、見慣れた男前の顔が目に写る青空の間に割って入ってきた。
「おい、大丈夫か?」
「取り敢えず元気や。早うドナルドどけてくれ」
 苦笑いと共に呟いた私に小さく頷き、火村は私の腹の上にいたドナルドを引き起こした。お腹の上にあった圧迫感が取れホッと息をつこうとした途端、やや乱暴な仕種で腕を引かれた。よろよろと立ち上がり、火村の腕の中に収まる。ハァと大きく息を吐くと、耳元で火村の声が響いてきた。
「怪我してないな?」
「ああ、平気や。あんがと」
 軽く礼を言いながら、私は身体の下にあったものの正体を見極めるためにゆっくりと振り返り、思わず目を瞠った。そこには、見事にドミノ倒しになった小人が4人。じたばたと、ユーモラスともいえる奇妙な動きでもがき足掻いている。思わず吹きだしそうになった表情を慌てて引き締め、口許を隠すようにして私はこほんと小さく咳払いをした。
「えっとぉ…」
 何と言って良いのか判らずに言葉を濁した私の隣りから、にやりと笑う気配が伝わってきた。できるならば振り向きたくないと思いつつ、私は壊れた人形のようなぎこちない動作で傍らに立つ犯罪学者へと視線を移した。思った通り、眼差しにあからさまなからかいを含んだ火村が、ニヤニヤと品のない笑いを口許に刻んでいた。
「なかなか見応えのあるドミノ倒しだったな。カメラを持ってないのが悔やまれるぜ」
 そう言いながら火村は、顎をしゃくるようにして辺りを指し示した。遠巻きにしてこの様子を眺めている人達の中には、しっかりと手にしたカメラのシャッターを切っている者達もいた。ディズニーランドでの楽しい1日のアルバムの中に、きっと私の無様なドミノ倒しの写真が張られてしまうのだ。それは彼らの思い出の中にほぼ永遠に残り、子供や孫に語り継がれたりなんかもするわけだ。あぁ…、情けないったらありゃしない。取り敢えず己の---いや、火村の---手元に私のドミノ倒しの証拠が残らなかったのが、不幸中の幸いだ。
「アホか。こんなん写真に撮っても、すぐに破り捨ててやるわ。それよりほら、手伝わんかい」
 恥ずかしさを吹き飛ばすように大声で怒鳴り、私はドナルドの手助けをして未だに起き上がれずにいる小人達を引き起こした。
 ぺこぺこと何度も頭を下げたドナルドダックと小人達は、倒れた時から今まで結局ひと言も言葉を口にしなかった。ここを訪れた人々に夢を与えるため、幾ら喋ってはいけない規則になっているとはいっても、咄嗟の場合にはつい言葉が出てきそうなものだ。それがばったりとドミノ倒しになったあの時点でさえひと言も喋らないのだから、さすがプロというか---。
 妙なところに感心している私に何度も手を振りながら、ドナルド達は他の客達の方へと歩み去っていった。滅多にない珍事に足を止めていた人達も、三々五々それぞれの方向へと散っていく。後に残った私は、ぼんやりとその様子を眺めていた。
「おい、アリス。行くぞ」
 軽く背中を叩かれた私は、その掌の暖かさに押されるように夢の国へと続く1歩を踏み出した。

◇◇◇

「容量の少ない頭の中にちゃんと残ってたみたいじゃねぇか」
 ニヤリと笑いながら、火村がアリスの顔を覗き込んできた。頭を抱え込んだアリスは、罰が悪そうな表情でちらりと火村の方へと視線を走らせた。
「あれは俺のせいやあらへん。元々は、ドナルドの頭がでかすぎたのが問題なんや」
「まぁ確かに、最初にこけたのはあのアヒルだがな。だが着ぐるみと一緒になってドミノ倒しやったのは、世界中探してもお前ぐらいだと思うぜ。その点じゃ、ドミノ倒しするペンギンと同じくらいの貴重な体験なわけだ」
 とくとくと何を言うんだこの野郎---ってな感じだが、ここで反論すると100倍にも200倍にもなって返ってくるのは、今までの経験から嫌って程に良く判っている。アリスはテーブルの下で拳を握りしめながら、徐に立ち上がった。僅かに双眸を眇めた火村が、アリスの次の行動を面白がっているような眼差しを注ぐ。その視線に居心地の悪さを感じながら、アリスはソファの上にあった毛布をそそくさと抱え上げた。口で敵わないならば、名誉ある撤退ってやつが最良の手だ。
「さぁて、ほんなら俺は寝るかな」
 アフゥと態とらしい欠伸を連発しずるずると毛布を引きずりながら、アリスは極力火村の方を見ないようにしてドアへと向かって行った。
「おい、アリス」
 からかいを滲ませた低い呼びかけに、アリスは嫌そうに眉を寄せて振り返った。ガラスのテーブルに肩肘をついた火村が、眇めるように眸を細めた。まるで追いつめた得物をからかうような表情に、アリスはこくりと小さく息を飲んだ。そんアリスの仕種にどこか満足したように、火村は余り質の良くない笑いを返してきた。
「ドミノ倒しの夢見てベッドから落ちるんじゃねぇぜ」
「あ、アホかっ! ガキやあるまいし、そんな寝相悪うないわっ」
 寝不足の頭にくらりと響くくらいの大声で怒鳴ったその先には、レースのカーテン越しに青い空が透けて見える。もしかしたらドミノ倒しで倒れたペンギンは、その時初めて空の青さに気づいたのかもしれない。ふと、そう思った。
 それは、きっとどこか懐かしくて暖かい青色をしているのかもしれない。あの時心配そうに覗き込む火村の肩越しに見えた青空が、とても懐かしくて柔らかな空の色をしていたように---。


End/2000.11.24



信じられないくらいに遅くなってしまった5000hits記念ですが、少しでも楽しんで頂けましたでしょうか?
ここに書いてあるペンギンドミノ倒しの話は冗談じゃなく、真実です。---っていうか、本当に朝日新聞に載っていました。ただ水族館の飼育係りの方のお話では、ペンギンは学習する動物なので、飛行機を天敵と間違えて目で追い、何度も倒れるということはあり得ないんじゃないかということでした。確かにペンギンドミノ倒しも1度見てみたい気はしますが、それよりもどちらかといえば倒れたペンギンがどうやって起きあがるかの方に興味があります。