Bitter Sweet Chocolate Day・

鳴海璃生 




 冷蔵庫からビールの缶を取り出し、男は窓へと視線を向けた。9時過ぎから降りはじめ雨が、磨りガラスにいくつもの水滴を作り、ゆっくりと流れ落ちる。
 その様子を見つめながら一つ溜め息をつき、男はリビングへと取って返した。
 シャワーを浴びていた間もつけっぱなしにしていたテレビからは、馴染みのニュース番組のオープニングテーマが軽快な調子で流れてきていた。
「10時か…」
 口の中で、小さく呟く。まだ寝るには早い時間だが、今日は早めに休もうか…と嘆息する。読みかけの本も何冊かあるし、できればニュース番組にも目を通しておきたい。が、テレビの音の間を縫うようにリビングに響く雨の音のせいで、何をする気にもならなかった。
 呑みかけのビールをテーブルの上に置き、男はカーテンを閉めるため通りに面した窓へと歩み寄って行った。
 闇を写した暗いガラスに、疲れたような自分の顔が映る。それに重なるように、雨に反射した遠くの街の光が不思議な空間をガラスの中に創り出していた。
 ぼんやりとその様子を見つめていた男の視界の中、雨と宵闇に煙るガラス越しに、向かい側のビルの窓が飛び込んできた。シャワーを浴びに浴室へと向かった時には点いていなかった灯りが、闇を切り取ったように白く四角いスクリーンのような形を形作っている。
 僅かに片頬を歪めカーテンを閉めようとした時、向かいのビルの、カーテンを閉めた白いスクリーンのような窓ガラスに二つの影が映った。
 降りしきる雨にじゃまされてはっきりとは判らないが、たぶん背の高い男と髪の長い女の影。向かい合って並んだ二つの影は、何事か言い争っているように見えた。好奇心にかられ、男はカーテンを閉める手を止めて、向かい側の窓の様子に目を凝らした。
 二つの影は、暫くの間しきりに何事かを言い争っていた。が、やがて埒が明かないと思ったのか、女の方の影がくるりと男の影に背を向けた。時ならぬ芝居もこれで終わりか、とホッと溜め息をつき、カーテンを閉めようとした男の手が、凍り付いたように突然止まった。双眸が、驚愕に見開かれる。
 白いスクリーンに映った男の影。その男の手に、長い紐のようなものが握られていた。
 ---まさか…。
 ごくり、と息を飲んだ音が、やけに大きく耳に響く。耳元で、心臓の音が高い鼓動を刻み始めた。
 ---まさか…。
 カーテンを握りしめた手に、微かに汗が滲む。
 ---見ない方がいい。
 頭の中で警鐘が響く。が、男は雨の向こうに煙る白いスクリーンから、視線を外すことができなかった。
 男の影が、手に持った紐をゆっくりと女の首に絡ませる。その瞬間、離れた場所にいる男の耳に、闇を引き裂く女の悲鳴が聞こえたような気がした。
 ---一体なにをしている。こんな事をしている場合じゃない。すぐに警察に連絡を…。いや、彼女を助けに行かなければ。
 頭の中を様々な思いが駆け巡る。だがそれに相反するようにカーテンを握りしめたまま、男の身体はぴくりとも動かなかった。
 宙を泳ぐように、助けを求めるように、白いスクリーンの中で女の手が力無く動く。やがて力尽きたように、その手は空を切った。
 心臓の音が、一際高く耳元で響く。がくがくと足が震え、身体に力が入らない。なのに、まるでセメントで固められでもしたかのように、指の一本すら動かすことができなかった。双眸が男の意に反して、相対する出来事を凝視し続ける。
 ---一体なんだ? 今、目の前で起こったことは、現実なのか?
 まるで、白いスクリーンに映った映画でも観ているような気がした。こんな、こんな事が現実に起きるはずがない。たった今、目の前で起こったことが、まるで夢を見ているようで、少しも現実感が伴わなかった。
 ---俺は眠っているのか? 立ったまま夢でも見ているのか? …いや、そうじゃない。
 心のどこかで信じたくない、と思っているのだ。自分がこういう場面に遭遇したことを---。
 そう…。信じられるわけがない。
 もちろん日々のニュースで見る殺人事件も、確かに間違いのない現実だと認識している。だがそうは言っても、男にとって、それはあくまで自分とは関係のないブラウン管の中の出来事でしかなかった。実際に目の前で殺人事件が起きることなど、あり得るはずが無いのだ。
 ---そうだ。これも、きっと夢に違いない。俺は、悪い夢を見ているんだ。
 思考とは別に、身体は目の前の出来事が現実であることを認識していた。おこりのように身体中が細かく震え、背中をひんやりと冷たいものが伝う。リビングには暖房が効いているはずなのに、たった今シャワーを浴びたばかりなのに、身体全体を包むこの寒さは一体なんだ。
 笑っているような膝頭を叱咤し、男は何とか目の前のガラス窓から視線を外そうとした。その時、ガラスに映った男の影が自分の方を振り向いた。---ような気がした。
 ズキリ、と心臓が喉元まで迫り上がってくる。ありえるはずもないのに、ガラス越しに互いの視線が絡み合う。---そして、視界の内に自分を捕らえた男の影は、ニヤリと片頬を歪めるように微笑んだ。
「う、うわーッ!」
 本能的な恐怖に、男は反射的にカーテンを閉めた。腰が抜けたように尻餅をつき、そのまま後退る。
 ---そんなはずはない。
 影が笑うなんて、そんなことはありえない。目の錯覚だということは判っている。だが男を包む恐怖は、そんな冷静な判断さえも粉々にうち砕いた。次々と頭に浮かぶ思いは、全て恐怖の色に彩られていた。---もしかしてあの黒い影の男は、窓越しに向かいのビルから見つめている自分の姿に気付いたのだろうか。
 ---まさか…。
 ごくり、と男が唾を飲んだ。では、次に殺されるのは自分か。
 ---まさか、まさか…。
 そんなことはありえない。こんな事が自分の身に起こるなんて---。
 風に、ガタンと窓が鳴った。その音に、男は怯えたように身を震わせた。
 ---現実だ。間違いなく、これは現実なんだ。
 背中を伝う冷たい汗に、徐々に思考がクリアになっていく。耳元でがなりたてるような心臓の音が、これが夢や作り事ではなく、間違いなく現実に起こった出来事なのだ、と告げる。
「け、警察に…。---いや、その前に鍵を…」
 震える膝を宥め励ましながら、男は玄関へと這うように歩いていった。心は一分でも一秒でも早くと急ぐのに、一向に足は動いてくれない。たった数メートルの玄関までの短い距離が、まるで永遠のように長く感じられる。それでも何とか玄関まで辿り着き、ガチャガチャと派手な音をたてて、鍵が掛かっていることを確認した。
 普段は滅多に掛けないチェーンも、用心のために掛ける。だが震える指先では、なかなか上手く掛からない。チェーンの擦れ合う無機質な音だけが、狭い玄関に響いた。その間にも、ドアの向こうにあの影の男の足音が響いてきそうな恐怖に苛まれる。
 漸くの思いでチェーンを掛け、男は震える足でリビングへと転がり込んだ。なるべく視線を窓へと向けないようにして、電話機の置いてあるテーブルへと向かう。
 コードレスの受話器を取り上げ、震える指でプッシュボタンを押す。110の簡単な番号なのに、何故か上手く押すことができない。思ってもいないボタンを押しては、通話ボタンを切り、再度押し直す。数度それを繰り返した後、漸く耳元にコール音が響いてきた。すぐに、カチャリと回線が繋がる音がする。
『はい、大阪府警です』
 耳に響く女性の声に、男はホッと安堵の息をついた。だがそれも束の間、次の瞬間には堰を切ったように、男は受話器に向かって声を上げていた。
「こ、殺しです。人が殺されたんですッ」
 受話器を持った手に力が入る。頭の中では色々と言葉が渦を巻いているのに、そのどれもが上手く口に上らない。
 男の言葉に俄に緊張したような空気が、受話器を通して伝わってきた。だが耳に響く女性の声は、あくまで冷静さを崩すことはなかった。
『詳しい場所をお願いします』
「は、はい…。場所は、味原本町の---」
 上手く纏まらない思考を必死につなぎ合わせ、相手の質問に返事を返す。短いのか、長いのか---。時間の感覚さえも、身体の中から失われていく。
 実際には数分にも満たない通話が終わり、男は呆然と宙空に視線を彷徨わせた。まるで手に張り付いたかのような受話器を床に置いた途端、男は大きく息を吐き出した。必要以上に強く受話器を握り締めていた掌は、汗でびっしょりと湿っていた。
 何とか落ち着こうと、テーブルの上に置いた缶ビールに手を伸ばす。すっかり生ぬるくなり気も抜けきっていたが、喉を滑り落ちる液体の感覚に、少しずつ心臓の高鳴りも小さくなっていく。
 額に浮いた汗を拭い、ホウッと大きく息を吐き出す。とその時男の耳に、雨の音に混じって小さくパトカーのサイレンの音が響いてきた。


to be continued




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