鳴海璃生
アスファルトに濃い影が落ちる。肌を伝いぽたぽたと流れ落ちる汗を意識しながら、私は足を引きずるようにして一歩一歩歩を進めた。
辺りには人っ子一人いない。シンとした静けさの中、蝉の声だけがやけに煩い。
ゆっくりと視線を上げると、ペンキを零したような青空に太陽が白く輝いている。見つめているだけでクラクラと目が眩み、倒れそうだった。
「冗談やないで、全く…」
ぼそぼそと呟き、私は再び視線を落とした。太陽の照り返しに湯気を上げそうなアスファルトも十分暑苦しいが、あの夏真っ盛りの青空と太陽に比べれば、何ぼかましってもんだ。
地元の人間が家に閉じこもるこんな時間にとぼとぼと外を歩く羽目に陥ったのは、京都在住の友人がかけてきた一本の横柄な電話のせいだった。
受話器を取り上げるなり用件を話し出した礼儀知らずな犯罪学者の様子に、思わず溜め息が漏れる。もっとも今さらこんなことに文句を唱えても、どうなるわけでもない。おまけに原稿の真っ最中で、なるだけ早く電話を貼ってしまいたかった私は、ありがたくもない助教授殿の一方的な話をおとなしく拝聴した。
内容は唐突な電話同様、これまた唐突なものだった。以前借りたままですっかり忘れ去っていた火村助教授の蔵書の一冊を、とっとと返しに来いというのだ。人が時間に追われているこのくそ忙しい時に、よくもまぁこんなくだらん電話ができるものだ、と半ば感心する。
「ふざけんなや、ドアホッ!」
ぶっつんと神経が切れる一歩手前だった私は、丁寧な返事を返し、思い切りよく電話を切ってやった。電話機から端子を引き抜いたあと、再びワープロに向かったのだが、火村への怒りのためか、はたまた才能のなせる業か、ワープロのキーを叩く私の指の動きは、まるでワルツを踊るダンサーのごとき華麗さだった。何せ火村からの電話を受ける前は頭を抱え込んで唸っていたエッセイが、火村と電話したあとは「あっ!」と言う間に終わってしまったのだ。これも知られざる火村先生の効能だろうか。ああ…、ありがたやありがたや。
原稿を上げすっかり気をよくした私は、火村の言っていた本を返しにわざわざ京都まで出掛けてやることにした。その時点では暑くなる前に家を出よう、などと殊勝なことを思っていた。だがガラス窓の向こうに見える、如何にも暑そうな青空にうだうだとしている内、あれよと時間は過ぎていった。そして結局、最低最悪の時間にぶつかってしまったというわけだ。
暑い中歩いて歩いて、漸く辿り着いた目的地の門の前で、私は一つ息を吐いた。身を包む空気も太陽に熱せられて嫌になるぐらいに熱かったが、私の吐き出した息もそれに負けず劣らず熱く熱せられているような気がした。
もう一つ深呼吸をして肺の中の熱を逃がしたあと、私はカラカラと軽い音をたてて古い格子戸の門を開けた。一歩中に入ると、庭に水でも撒いたのか、少しだけ湿った空気が柔らかく頬を撫でる。
「こんにちはぁ〜」
ガラスの引き戸を開け、中に向かって呼び掛けると、ひんやりとした空気が身を包む。まるで地獄から天国に来たような安堵感を感じ、私はホゥ…と大きく息をついた。ふと視線を落とすと、玄関の上がり框にこの家の住人が長々と茶虎の身体を伸ばして寝っ転がっていた。
「ええよなぁ、ウリ。お昼寝の真っ最中なんかい」
その気持ちよさそうな姿を羨ましそうに眺めた時、奥の居間から誰かが顔を出す気配が感じられた。ウリから視線を外し、廊下の奥へと眼差しを注ぐ。当然婆ちゃんだろうと思っていたそれは、私をここまで呼び付けた極悪非道な友人だった。
「よぉ、やっと来たか」
黒に近いネイビーのTシャツにジーンズをはいた火村が、パタパタと団扇をあおぎながら玄関へとやってきた。見るからに暑苦しそうなその姿に、思わず目眩を覚える。頼むからこのくそ暑い時に、そういう黒っぽい服を着るのは止めて欲しいものだ。着ている本人はどうということはないのかもしれないが、見ているこっちは暑苦しくて堪らない。
眠っているウリから少し離れた場所にそっと腰を下ろした私は、うんざりしたように声の主を見上げた。
「来たか、やないわ。俺を呼び付けたんは、君やないか」
ぶつぶつと文句を唱えながら、私は背中に背負っていたリュックを下ろし膝の上に置いた。中を開け、一冊の分厚い専門書を取り出す。
「ほい、これ。長い間あんがとさん」
火村に本を手渡したあと、私は靴を脱ぎ、玄関に上がってごろんと廊下に横になった。ひんやりとした木肌の冷たさが薄いシャツを通して伝わってきて、火照った身体に心地よかった。
婆ちゃんがいれば、もちろんこんな恰好はしない。だが五感をとぎすまして辺りの気配を探ってみても、婆ちゃんがいるらしい雰囲気は微塵も感じられなかった。どうやら、今この家には火村だけしかいないらしい。
こうなったら、もう遠慮なんかするもんか。
横で眠るウリに倣って身体を伸ばす私の頭の上から、パラパラとページを繰る乾いた音が響いてくる。
「ああ。やっぱお前のとこにあったんだな、これ。ご苦労さん。もう帰ってもいいぜ」
「何やてっ!」
さらりと告げられた言葉に、私は弾かれたように身を起こした。わざわざ大阪から一時間もかけて、しかもこのくそ暑い中をフラフラになりながらやってきた友人に対して言う台詞か、それが。
「何だ、聞こえなかったのか? だったら、もう一度言ってやる。用は済んだから、もう帰ってくれて構わないぜ」
「ふざけるなや。それがこんなくそ暑い中を、わざわざ出向いて来てやった人間に言う台詞か。普通は労をねぎらって、冷えた茶の一杯も出すもんやないんか。それが正しい人間のおつきあいってもんやで」
本を閉じた火村は視線を落とし、僅かに肩を竦めてみせた。
「まぁ、俺としちゃ茶の一杯もご馳走してやりたいんだがな。だが今ここでのんびりしていたら、あとでお前が困る結果になるんじゃないのか?」
激昂する私とは裏腹の妙に落ち着いた火村の声音に、私の中の怒りも徐々に形をなくし始めた。どうやらこの先生は、私がまだ仕事を抱え込んでいる状態だと思っているらしい。アホんだら。そんな状態で、誰がこのくそ暑い中を遣ってくるもんか。友情より原稿---は、推理作家としては模範的な選択だ。
せっかくの親切なご注意だったが、それこそ小さな親切大きなお世話ってなもんだ。ここはひとつ、火村の巨大な誤解を解いてやらねばなるまい。
「火村先生の推理も大ハズレやな。君の期待に添えんで申し訳ないが、それこそ余計な心配や。仕事はきっちり済ませて、これから暫くは自由の身や」
どうだ、と言わんばかりに胸を張った私を見つめ、火村は口許に小さく笑みを刻んだ。見下ろされるように高い位置から注がれる視線に妙な居心地の悪さを感じ、私は少しだけ後ろへと身体を引いた。
「お前、携帯持ってるか?」
脈絡のない突然の問い掛けに、私は双眸を瞠った。唐突に何を言い出すのか、と思ったら、携帯だと。それも余計な問いやないか。携帯ならちゃーんとここに---。
「あ、あれっ?」
慌ててリュックをひっくり返す私の耳に、大袈裟な溜め息が聞こえてきた。
「やっぱり部屋においてきたんだな」
どうやら、そうらしい。偶にやる失敗だが、それで私が何か火村に迷惑をかけたかっていうんだ。ちくしょう、とばかりにリュックの蓋を閉めた私に、低いバリトンの声が降ってくる。
「どうりでこっちに電話が掛かってくるはずだ」
「---電話?」
意味の繋がらない言葉に顔を上げた私の視線の先で、火村はゆっくりと頷いた。
私の部屋を緊急連絡先に指定しているらしい火村先生とは違い、私は火村の下宿を緊急連絡先に登録した覚えはない。なのでいくら考えてみても、私が携帯を持っていないからといって火村に電話をかけてくる人物に思い至らず、私は眉を顰めた。そんな私の姿を見つめながら、火村はやれやれとばかりに口を開く。
「片桐さんだよ。お前、ファックスで原稿送ったんだって?」
「あっ!」
友人付き合いをしている二つ年下の担当編集者の、人の良さそうな顔を脳裏に描き、私はポンと胸の前で手を打った。そう言われてみれば部屋を出てくる前にファックスで、片桐宛に昨日できたばかりのエッセイを送ってきたんだった。
「良かった、無事届いたんやな」
私の言葉に、火村が呆れたようにフンと鼻を鳴らした。何となくバカにされたような来がして、私は男前の容貌を上目遣いに睨みつけた。
「おい、アリス。お前、陶磁器と歳時記を間違えるような人間が、この世にいると思うか?」
突然の、これまた何の脈絡もない問いかけに、私は惚けたようにその問いを発した人物を凝視した。どう好意的にみても、最高学府の助教授が口にするような質問じゃない。だいたい親父ギャグとしても、最低ラインを軽く突破してる。もしかして暑さで頭がやられてんのか、こいつ。
「何やねん、それ。そりゃ確かに頭の一文字が違うだけやけど、洒落にしても寒すぎるんやないのか?」
「まぁな。だがな、アリス。この話にはもっと寒くなるような続きがあるんだぜ」
「はぁ…?」
いくら暑い中を歩いてきて身体が火照ってるとはいえ、これ以上うすら寒い洒落なんて効きたくもない。同じ涼しくなるのなら、そんなものより冷えた麦茶でもご馳走して頂きたいものだ。そう言いかけた時、嫌な予感が背筋を通り抜けた。
---ちょーっと待てっ! 昨日の晩に俺が書いたエッセイって、確か陶磁器に関係するもんやなかったっけか。
「片桐さんがな---」
低い火村の声に、私は恐る恐るというように視線を泳がせた。口許に質の悪い笑みを浮かべた火村が、面白そうな色を宿した眼差しで見下ろしてくる。できるなら、その先は聞きたくない。何となくだが、真夏のホラー以上に寒い結末が、私を待ち構えている気がするのだ。
「電話の向こうで、すっげぇ慌ててたぜ。お前、片桐さんにとんでもねぇ原稿をファックスしたんだってな」
ああ、やっぱり。
私は頭を抱え込んで、廊下に突っ伏した。頭上からそんな私に追い討ちをかけるかのように、うんざりしたようなでかい溜め息が降り注いできた。
「一体どこをどうすりゃ、そんな惚けた間違いができるんだ?」
火村の言葉に、今度は私が溜め息を吐いた。どこをどうすれば、と言われても、あの時は---。
「せやって片桐さんから電話貰うた時、何やしらんけどめっちゃ電話の調子が悪かったんや。すごい雑音が入ってて、言葉が聞き取りにくうて…」
しかも間が悪いことに、目の前のテレビでは野球中継をやっていた。九回裏ツーアウト満塁。一発逆転の大チャンスで、そのうえ次は四番バッターという最高の見せ場で、我が阪神タイガースが攻撃中だったのだ。こんな時間まで仕事やなんてたいへんやなぁ…、と電話の向こうの片桐に同情しつつ、片手に缶ビールを持った私の神経の半分以上はテレビへと向かっていた。
ああ、もう最悪や。
「故郷の歳時記で、夏の風物詩について書くんだってな。陶磁器よりは、お前に向いてる分野じゃねぇのか?」
「どういう意味やねん?」
「季節ごとのイベント大好き人間だろうが…」
確かに火村の言う通り、私は季節ごとのイベントを大切にしている人間だ。しかしそれにのっかる火村だって、私と似たようなもんじゃないか。それにしても---。
片桐からの電話を受けた時に、陶磁器のエッセイだなんて、へんだな、と私も思ったのだ。推理作家にそんなもん語らせてどないすんねん、と思いつつも、必死で書いたのに---。しかもあのエッセイを書くために、私は散々な苦労をしたのだ。
火村に『雑学データベース』と評されているぐらいだから、それなりの興味はある方だが、早々陶磁器に造詣が深いというわけでもない。だからそういう物がやたらと詳しい友人に連絡をとって話を聞いたり、実家の母親にまで電話をして色々と教えを請うたのだ。そこまで苦労して、それでも書けずにワープロのディスプレイを見つめて数日間頭を抱え込んでいたというのに---。
---ちくしょう、俺の苦労をどうしてくれるんや。
廊下に突っ伏したまま動かない私に業を煮やしたのか、火村が溜め息と共に訊いてきた。
「…で、どうするんだ? 帰るのか? それとも片桐さんに詫びの電話を入れるか?」
火村の言葉に、私はがばりと勢い良く頭を上げた。こんなアホな洒落まがいの勘違いを晒したまま、ここで諦めたりなんかした日には、私の関西人としてのプライドはめちゃめちゃだ。こうなったら何が何でも今日中に掻き上げて、片桐の元に新しい原稿を送ってやる。
「マンションには帰らへん。ここで書く。ワープロ貸せ」
やけくそのように力強く言い切った私に、火村は小さく頭を振った。だがやれやれという表情とは裏腹に、私を止める言葉はひと言も発せられなかった。
「しょーがねぇな。だったら下にワープロ持ってきてやるから、居間でやれよ。二階は暑いからな。涼しい方を譲ってやる」
火村の言葉に、私は問い掛けるように首を傾げた。涼しい場所を譲って貰えるのはありがたいが、いくら今は留守にしているとはいえ、それじゃ婆ちゃんの迷惑になるんじゃないだろうか。そんな私の疑問を見越したように、火村はニヤリと笑みを作った。
「心配しなくても、婆ちゃんは娘さんの所に行って、週末まで帰ってこねぇよ。だからお前が二、三日締め切りを遅らせても、何も問題はねぇよ」
「アホ。夕飯までには終わらせたるわ」
ワープロを取りに二階へと上がる火村の背に声をかけ、私はリュックを手に廊下の奥の居間へと向かった。。◇◇◇ 「花火やってるぜ」
火村の声に、私はゆっくりと顔を上げた。
窓際で煙草をくゆらす火村は上半身裸のまま、だらしなくボタンをはずしたジーンズをはいている。部屋の電気は消したままなので、外から見えるわけじゃないし、素っ裸のままよりはいいか、と思いつつも、私は緩く眉を顰めた。何せやることやった後なのだから、もう少し気を遣ってもらいたいものだ。
のそりと起き上がった私は手近にあったタオルケットを頭から被り、のそのそと這って火村のそばに近づいていった。開け放した窓から吹きこむ風はひんやりと心地よいが、タオルケットを被るほど涼しいという状態じゃない。だが躯のあちこちに赤い痕を残した状態じゃ、火村のように裸のまんまで窓に近寄るなんて真似ができるわけない。
書き残した原稿は、前夜あれほど苦しんだのが嘘のように、僅か四時間足らずでできあがってしまった。そして火村手作りの夕食を食べたあと、何故かそのまま蒲団の中へと雪崩れ込み、現在の状況に到っているという次第だ。
「何や、花火なんか一個もやってへんやないか」
藍色の空を見上げ文句を唱える私に、火村は笑いながら顎をしゃくってみせた。それにつられるように視線を落とすと、家の前の道で、小学生らしい数人の子供が花火に興じていた。
「あっ、ほんまや。まだ夏休みってわけでもないのに、ずいぶん優雅やな」
私の言葉に、火村が喉の奥で笑う。口に出さなくても、言いたいことなんて判っている。そう言う私だって似たような者だ、と言いたいに違いない。
「なぁ…」
呼び掛けに応える代わりに、火村は私の髪を梳く。鼻孔を擽るキャメルの香りにホッとするような安心感を感じ、私は火村に寄りかかった。
「今日の原稿終わったら、俺しばらく閑やねん。せやから---」
言いかけた言葉を察したように、火村が言葉を継ぐ。
「明後日は山鉾巡行だからな。どうせまた出てくるんだろ。だったら、それまでいろよ」
火村の言葉に、私はうっとりと微笑んだ。パチパチと弾けるような花火の音が宵闇に響き、闇の中に艶やかな花が咲く。暑い京都の夏は、まだ始まったばかりだった。End/2001.08.08
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