4月13日金曜日

鳴海璃生 




 凝り固まったような首をコキコキと回しながらリビングへと出てくると、見慣れた若白髪混じりの頭が視界の中に飛び込んできた。
 定位置であるソファにだらりと長身を伸ばし、まるで我が家のようにくつろいだ様子でゴジラを見ているのは、京都在住の犯罪学者だ。テーブルの上には黄金色の缶ビールと手作りのつまみ。私が楽しみに取っておいた貰い物のチーズも、ちゃっかりと皿の上に盛られている。
「いつ来たんや?」
 火村を押しやるようにスペースを空け、隣りに腰を下ろしながら訊く。
「2時間前」
 ブラウン管の中のゴジラのアップに見入っている助教授は、視線を動かすことなく簡単に応えを返してきた。それにつられたように、私もテレビへと視線を移す。
 画面一杯に広がるゴジラのアップは、なかなかにラブリーだ。
 ひと切れだけ残ったチーズを口に放り込み、呑みかけのビールを喉に流し込む。苦みと炭酸の爽やかさが五臓六腑に染み渡り、私はハァ〜と満足の息をついた。
 カーテンを開け放したままの窓には、すっかりと宵闇が広がっている。ベランダに四角く切り取られた藍色の空には、どこか艶めかしい春の寝待ち月が輝いていた。妙に興が乗って近来稀にみる快調さでワープロに向かっている内に、辺りはすっかり夜へと時を移動させていたらしい。
 う〜ん…、と大きく伸びをして、二度三度と肩を回す。客とはいえない助教授は放っておいても勝手にやるだろう---実際やってるし---から、私は景気づけのコーヒーでも飲んで再び執筆に戻ることにする。
 何せ明日どころか、数時間先も判らない作家稼業。せっかくお出で下さったミステリーの神様を逃したら、マジで締め切りがやばくなる。年に数回だけ気まぐれに遣ってくるミステリーの神様と、招きもしないのに月に何度となく訪れる犯罪学者じゃ、どっちを大事にするかは明白だ。
「---さて、と」
 ゴジラに夢中の火村を残し、ソファから軽く腰を浮かせる。
「おい」
 ゴジラの鳴き声に混じって、低いバリトンが耳朶に触れた。声のした方向に視線を落とすと、長い足を組んで膝の上に肘をついた火村が、ぼんやりとテレビに眼差しを注いでいた。
「何や?」
 首を傾げ、私は浮かせた腰を再度ソファに落ち着けた。
「原稿いつ終わるんだ?」
 ゴジラから目を離さずに、淡々とした口調で訊いてくる。その様子からは、言葉の内容ほどには私の締め切りに興味があるようには見えなかった。
「う〜ん、そやなぁ…」
 天井を見つめ、現在の進行状況と残りのページを脳裏に写す。今はミステリーの神様も私自身もとっても絶好調だが、はてさて…。
 う〜ん…と唸る私にチラリと視線を走らせ、火村はすぐにゴジラへと視線を戻した。ブラウン管の中では、ゴジラがビルの上に乗っかった銀色の物体に喰われ始めていた。
 単なる宇宙船かと思っていたあれは、実は生物だったのか。うーん、えぐいッ。
 ---いや、そうじゃなくて。原稿…。原稿ねぇ。
 テレビの画面をチラチラと気にしつつ、しかつめらしく表情を引き締める。
「明日の夕方までに終わらせろ」
「------はぁ!?」
 唐突なひと言に、私はまじまじと声の主を見つめた。大胆かつくそ我が儘な台詞をかましてくれた張本人は、そんな素振りを微塵も感じさせないのんびりとした雰囲気だ。
 ---この野郎、自分が今何を言ったか判ってんのか?
 そりゃ確かに締め切りは明々後日だし、今のペースなら火村の言う明日の夕方までの原稿終了も可能だろう。原稿が早く上がる分には、片桐さんだって手放しで喜んでくれるに違いない。
 ああ…、何たる編集孝行、作家の鏡。だがしかしッ!
 締め切りまでまだ十分時間があるのに、何だってそんな無理をしなくちゃいけないんだ。のんびりゆったり無理をせずに、締め切り厳守。締め切りまでギリギリの切羽詰まっている時ならいざ知らず、余裕がある時には目一杯時間を使ってやる。私の信条は、楽できる時は思いっきり楽してやる、だ。
「何で明日の夕方までやねん。締め切りは明々後日やで。そんな無茶、絶対にせぇへんわッ!」
 プイと顔を逸らした私を、火村が双眸を眇めて睨め付ける。
「お前に拒否権はない。いいか、絶対終わらせろよ」
「横暴やッ。そんなん君に決めつけられる覚えはないで。それに、だいたい何で明日の夕方やねん。せめて理由ぐらい言えや」
 詰め寄った私に、火村が白々とした冷たい視線を注ぐ。その眼差しに思わず怯みそうになるが、負けへんぞ。無茶苦茶言うてんのは火村や。
「るせぇな。今コーヒーを淹れてきてやるから、てめぇはとっととワープロの前に戻れ」
 冷たく言い切った火村は、すくっとソファから立ち上がった。空になったビール缶を手に、大股にキッチンへと向かう。唖然とした様子でダイニングへと向かう背中を見つめていた私は、ハタと我に返り、ついでドサリと乱暴にソファに背を預けた。
「何やねん、あいつ…」
 足を組み、ふんぞり返るように胸の前で腕を組む。
「誰がお前の言う通りになんて動くかい。俺はのんびりゆっくりコーヒーを飲んで、風呂入って、今日はもうとっとと寝たるッ!」
 あっかんべー、と火村の背中に向かって舌を出し、私はソファにのんびりと身体を伸ばした。テレビ画面の中では映画が大団円を迎え、ゴジラがゆったりとした足取りで海へと還ってゆく。
 くっそぉー! 火村のくだらん言い分に付き合っている内に、せっかくのクライマックスを見逃してしまった。久々のゴジラだったのに…。畜生、勿体ないことをした。
 各地の自衛隊やビルの名前が流れるエンディングロールを見つめ、私はテーブルの上のリモコンを手に取った。適当にチャンネルを変えながら、キョロキョロと今朝の朝刊を探す。
 テーブルの脇のラックの中に乱雑に折り畳まれた新聞を見つけ、私はリモコンをソファの上に放り投げた。テーブルを乗り越えるようにラックの方へと身体を伸ばす。
 自分では朝刊も夕刊も取ってきた覚えがないから、きっと火村がここを訪れた時にでも持ってきてくれたのだろう。少しくたびれたような新聞は、きっと主である私よりも先に火村がこれを読んだ確たる証拠だ。
「俺ってば、今日はめっちゃ真面目に仕事に励んでたんやな。新聞も見てへんわ」
 よっこらせとソファに落ち着き、私は新聞を広げた。一面ではなく最後のテレビ欄から目を通して行くのは、一番のお目当ては最後に残しておくという私の癖によるものだ。もちろんこの場合の私のお目当ては一面のトップ記事ではなく、二面・三面の下段に載っている書籍の広告だ。
「さて、何か面白いのやっとるかな…」
 チラリと壁の時計に目を走らせ、新聞へと視線を戻す。最初に目に飛び込んで来たのは、欄外に太文字で印刷された今日の日付だった。
「13日の金曜日? うつわぁー、めっちゃ縁起わりぃ」
 ケラケラと笑いながら、テレビ欄に視線を落とす。---とその時、ふと何かが頭の隅を掠めた。
 ---13日!?
 あー、しまった!
 締め切りに気を取られてすっかり忘れていたが、明後日15日は火村の誕生日じゃないか。
「あちゃぁー、しまった」
 新聞の陰からチラリとダイニングの方を伺い見る。カウンターの向こうに、黒とも見紛う濃紺のシャツが垣間見える。どことなく不機嫌な様子も、火村らしくない無茶な言い分も、すっかり納得がいってしまった。
「あ〜、ドジったわ」
 罰の悪さにポリポリと痒くもない頭を掻く。手にしていた新聞をソファの上に放り投げ、私は足音を忍ばせるようにキッチンへと向かった。
「あー、あのなぁ…」
「コーヒーならもうすぐ入るぜ」
 言い淀む私に、火村が背を向けたまま声を掛ける。私は曖昧に返事を返し、コホンと小さく咳払いをした。今さらこんなことで照れるような年齢ではないが、自分に落ち度があるのが判っているだけに言い出し難いったらない。
 ---ええいッ! 男は度胸や。
 ごくりと息を飲み込み、私は覚悟を決めた。
「あのなぁ、原稿---。明日の昼までには、絶対終わらせるわ」
 視線を泳がせながら早口にそう告げる。
 ケトルから立ち上る湯気に、ふわりと空気が緩む。くるりと振り向いた火村がシステムキッチンに寄りかかり、どこか気障にも見える仕種でクイクイと指を折る。招き寄せられるように私はカウンターを回り込んで、火村のそばへと歩み寄った。
 途端、少し伸びた前髪を軽く引かれ、掠めるように薄い唇が私のそれに触れた。息を詰め反射的に身を引いた私に向かって、火村がニヤリと口許に笑みを刻む。
「夕飯の買い出しまでに仕上げたら、夕飯のメニューはお前の好物を作ってやるぜ」
 僅かにからかいを含んだバリトンの声。
「それやったら明後日の夕飯とバースデイケーキは、俺の奢りや」
 今日初めて間近に見た火村に向かって、私はにっこりと微笑んだ。


End/2001.04.13




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