鳴海璃生
人気のない廊下で、アリスは今か今かと講義が終わる時間を待っていた。周りに人の気配はなく、この場所にいるのはアリス一人にも拘わらず、どうにも背中がムズムズするような居心地の悪さがある。まるで他人の領域に迷い込んだような、どうにも落ち着かない気分---。
その理由なんて、判りすぎる程に良く判っていた。
アリスが今いるこの場所が、ふだん自分が使っている学部棟とは違う場所だからだ。しかし多忙な友人を確実に捕まえるためには、それを我慢してここにいるしかない。
「あ〜もう、早よ終わらんかな…」
聞こえてくるのは、講義を行っている教授の声。
どこかで鳴いている鳥の声。
ベールを通したような儚さで聞こえてくるそれらが、より一層この場所の静けさを際だたせている。注意して耳を澄ましていると、コチコチという腕時計の秒針の音までが聞こえてくるようだ。
その腕時計に視線を落とす。ゆっくりとした動きではあるが、確実に進んでいる長針は、あと僅かの動きで講義の終了時間に到ることを告げていた。
「15、14、13、12…」
秒針の音に合わせて小声でカウントをとる。
「3、2、1」
ゼロという声に重なって、リンゴーンとチャイムの音が響く。途端、沈黙に支配されていた世界に音が戻ってきた。アリスの目の前の教室からも、ガタガタと威勢のいい音が聞こえてくる。
「よっしゃぁーッ!」
窓枠に置いて、落ちないように背中で支えていた荷物を両手で持ち、それを抱き込むようにして胸の家に抱え込み、焦ってドアへと走る。目の前でガラリと勢い良くドアが開いて、中から吐き出されるような勢いで学生達が飛び出してきた。
その集団のじゃまにならないようドアの傍らに除け、いらいらと足踏みをする。そしてアリスは学生の波が途切れた瞬間を見計らって、中へと飛び込んだ。階段教室の一番後ろに立って、キョロキョロと部屋の中を見回す。
「あっ、おった!」
人混みの中でも目立つ捜し人の姿は、教室の中程よりも少しだけ後ろの、窓際の席にあった。他の学生達とは違い、のんびりとした仕種で机の上の本を鞄の中に放り込んでいる。
「火っ村ぁーーッ!!」
大声で名を呼び、ぶんぶんと千切れるほどに腕を振る。そんなアリスの姿を目に止めた火村は、口許に薄く笑みを刻んだ。
ばたばたと、アリスは階段を駆け下りてくる。そうして自分の傍らに佇んだアリスを見つめ、火村は皮肉気な表情を作った。
「よぉ、アリス。お前、今日さぼってただろ?」
「しょーがないやろ。事情があったんや」
強気の口調で言い訳をしながら、アリスは胸に抱き込んでいた荷物をそっと机の上に置いた。畳んだ蒲団でも入りそうなくらい大きな紙袋に、火村は僅かに眉を上げた。
どう見ても目の前のでかい紙袋は、大学に持ってくるような代物じゃない。
「何だ、こりゃ?」
長身を折り曲げるようにして袋の中を覗き込む火村の頭を、アリスはぺしりと叩いた。
「そんなん、あとで教えたる。それよりっ!」
アリスは火村の鼻先に、ぴしりと人差し指を突きつけた。双眸を眇めた火村は、煩そうにそれを払いのける。
シャツのポケットから煙草を取り出し、ここがまだ教室だったことを思い出す。チッと小さく舌打ちした火村は、潰れかけたキャメルのパッケージを手持ち無沙汰に掌の中で弄ぶ。
「で、何だって?」
「今日やっ!」
「今日…?」
鸚鵡返しの問い掛けに、アリスは大きく頷いた。
「そうや。今日が何の日か、君、覚えてるか?」
宙を見つめ、おざなりな態度で「う〜ん」と唸る。もちろん手の中のキャメルはポーンポーンと空を舞っている。どこからどう好意的に見ても、火村が真剣に考えてないのは明らかで---。
「ちったぁ真面目に考えろやッ!」
アリスは、空に浮いたキャメルを横合いからかすめ取った。
「そうは言ってもなぁ…。---今日は何日だっけ?」
「26日や。4月26日っ! この日にちを聞いても判らんのか、薄情者!!」
大声で怒鳴ったアリスに、火村が笑った。
「何だ、その最後の薄情者ってのは。わけ判んねぇぞ」
「あーもうッ! 君に期待した俺がアホやった。ええか、教えたるから耳の穴かっぽじいて、よぉ聞いとけやッ!」
地団駄を踏みそうな雰囲気のアリスは、スゥーと大きく息を吸い込んだ。
「4月26日。今日は俺の21歳の誕生日やッ!」
「ああ…」
気負いこんだアリスとは裏腹に、火村は気の抜けたような返事を返す。膨らんだ風船のような気持ちが、シュルシュルと音をたてて萎んでいった。ペタリと椅子に腰を下ろし、アリスは机にペシャンと張り付く。
「ほんま、君なんかに期待した俺がアホやったわ」
さっきまでの元気の良さが嘘のように形を潜め、アリスはすっかりへこんでしまった。窓から差し込んでくる陽の光に、アリスの茶色がかった髪がさらりと輝く。口許に柔らかな苦笑を刻み、火村はくしゃりとアリスの髪を撫でた。
「悪かった。本気で忘れてたわけじゃないから、機嫌直せよ」
「嘘や。そう言いながら、きっとまたすぐ忘れるんや」
「今度は絶対忘れねぇって…」
「ほんまにほんまか?」
「ああ、ほんまにほんまや」
アリスの口調を真似て、火村は応えを返す。指の間をサラサラと零れる髪の毛が、ピクリと小さく揺れた。
「それやったら---」
アリスの頭をポンポンと軽く叩き、火村が言葉の先を促す。それが合図だったかのように、アリスがばりと身体を起こした。
「おい、アリ…」
「それやったら、お誕生パーティーしよう!」
「はぁ?」
唐突なアリスの言葉に、火村がらしくもない真抜けた声を出した。だがそれを気に止めた風もなく、アリスはウキウキと弾むような口調で言葉を続けた。
「場所は君の部屋でええわ。ケーキは、おかんが作ってくれたやつを持ってきた。えらいでかいから、ラッシュの電車には乗れんし、歩くのにも苦労したわ。そんで---」
「おい」
火村の低い声に、機関銃のようなアリスの言葉が一瞬止まる。きょとんとした表情で火村を見つめ、アリスは再び話し始めた。
「食事のメニューは俺が決めるから、君が作ってな。あっ! もちろん君の奢りやで。君のことやから、どうせプレゼントなんて用意してへんやろ。やから、その代わりな。それで勘弁したるわ。酒は---」
「おい、アリスっ!」
苛々した口調で、火村は声を上げた。見上げてくるアリスを、じろりと険悪な視線で睨みつける。
「なに勝手に決めてんだよ。冗談じゃねぇぞ!」
怒気を孕んだ声にも、アリスに怯む様子はない。
「やって…」
「何だよ? 言いたいことがあるんなら、言ってみろ。どうせたいした事じゃねぇんだろうが」
「ちゃうわ。たいした理由なんやッ! ---やって、おかんが家で火村の分と一緒にお誕生会するって言うんやもん」
「はぁ〜?」
アリスの突拍子もない言葉に、火村の腹の中の怒りも一瞬にして霧散する。
今日がアリスの誕生日で、おふくろさんがお誕生会を開くというのは判る。アリスの母親には何度か会ったことがあるが、確かにそういうことをやりそうなキャラクターだ、と認識している。
それは、まぁいいとして、一体何でそこに自分の名前が入ってくるんだ。
続く言葉が見いだせないという火村の様子に、アリスは切々と己の窮状を語った。
「夕飯喰うてた時に、そろそろ俺の誕生日やなぁ…って話が出たん。そんで、そん時についポロッと君の誕生日が15日やって言うてしもたんや」
言葉の隙間を縫って、チラリチラリとアリスは火村の様子を伺う。火村は憮然とした表情で、アリスの話を聴いていた。
「そしたらおかんが、俺の誕生日と一緒に君の誕生日もやろうって言い出したんや。ほら、おかんてめっちゃ君のファンやないか。そりゃもう、呆れるぐらい張り切ってもうて…」
アリスの言葉に、火村はハァ〜と息をついた。
「それでお前、俺を隠れ蓑に逃げて来たんだな」
「あったり前やないか。ええ年齢して、冗談やないわッ!」
「でもお前、俺には誕生日誕生日ってしつこく言ってたよな、確か…」
「友達同士はええねん。お家でお誕生会って、小学生とちゃうねんで!」
拳を振り回してのアリスの主張に、火村は喉の奥で笑った。
まさにあの親にして、この子あり---。
その時のアリスと母親の漫才のようなやりとりさえ、目の前に浮かんでくる気がする。
「なぁ、火村ぁ。ええやろ? おかんを振り切って来たから、君に見捨てられたら、俺、夕飯喰いはぐれるねん」
ぐいぐいとシャツの袖を引くアリスに、火村は薄い笑みを零した。
「夕飯の材料代と酒代を割り勘にするなら、場所は提供してやるぜ」
火村の言葉に、アリスはコクコクと頷いた。今日は自分の誕生日なのに…、とは思うが、夕食を喰いはぐれることに比べれば、割り勘など安いものである。
「---で、これ、おばさんが作ったのかよ」
袋の中を覗き、火村は呆れたような笑みを零した。袋の中には、大の男の手にも余りそうな、大きな箱が鎮座ましましている。
「一体何人分のケーキなんだよ…」
箱のサイズから察するに、下宿の住人や大家の婆ちゃんにお裾分けしたとしても、まだ余りそうな大きさだ。
「さぁ、知らん。おかんに渡されただけで、中見てへんもん。---あっ! そうや」
アリスが傍らに置いたリュックをごそごそと探り、中から一葉の封筒を取り出した。
「これ、おかんから火村にやって…」
渡されたそれは、何の変哲もない白い洋形の封筒だった。裏表をひっくり返してみて、火村は封を切った。
切り口から中を覗いてみると、手紙が1枚と紙片のようなものが何枚も入っている。
「何だ、こりゃ?」
「さぁ、知らんわ。おかんに、火村君に渡してって言われただけで、他は何も訊いてへんもん」
どこかふてたような口調のアリスを横目に見つめ、火村は注意深い仕種で中身を机の上に空けた。パラパラと零れ落ちた長方形の紙片には、『お好み焼き』だの『シチュー』だのと、数種類の食事メニューが書かれている。なかには、『お好みセット』なんて物まである。
「何やねん、これ?」
カードをトランプのように机の上に並べながら、ぽつりとアリスが呟く。とその時、頭の上からプッと火村が吹き出す声が聞こえてきた。
「何? どうかしたん?」
「これ、俺への誕生日プレゼントだってさ。有栖川家でのお食事券だそうだ。手紙に、いつでも遊びに来てねって、書いてあるぜ」
火村がヒラヒラとアリスの頭の上で手紙を振る。唖然とそれを見つめていたアリスの身体から、ゆっくりと力が抜けていった。
「…なに考えてんねん」
アリスは再びぱたりと机に張り付いた。机の上に並んでいたお食事券が、その衝撃にふわりと空に舞い上がった。◇◇◇ 火村の部屋に戻り、まず最初にケーキの箱を開ける。
箱の中には、直径15センチはあろうかという丸いケーキが二つ。
チョコレートケーキには『お誕生日おめでとう! 英生くん』。そして生クリームのケーキには『お誕生日おめでとう! 有栖』の文字が、でかでかとデコレーションされていた。
「な…何やねん、これはーーっ!!」
狭い部屋に響いたアリスの大声に、火村は弾けるように笑い出したEnd/2001.04.26
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