明日のために

鳴海璃生 




「なぁ、火村。花見連れてってくれへん。ゴールデンウイークあたりに東北の方。そこでなら、君の感謝の気持ちも有り難く受け取る気になるかもしれへん」
 それは、4月の初め。言ったのは、他ならぬアリス自身。
 それからせっせとパンフレットの類を集めては頭を捻り、東北の山奥、よくこんな所を…というぐらい鄙びた温泉と桜の名所をアリスは探し出してきた。
 地球温暖化のせいなのか何なのか、常以上に早い桜前線の北上にやきもきしながら毎日テレビで確認していた桜の開花も、ここ数日の寒気のおかげで、どうやら例年並みに落ち着きそうだ。
『新幹線の予約も宿の予約もバッチリやし、桜も俺達に合わせたみたいに咲いてくれそうや。やっぱこれも、俺の日頃のおこないがええせいやな』
 笑いながら弾んだ声で電話を掛けてきたのは、つい2週間前---。
 そして今日はアリス言うところの、春を惜しみ、桜を追って旅立つ日だった---はずだ。予定では---。

◇◇◇

 既に定位置と化したソファの上でごろんと仰向けになり、目の前に広げていた『ゴルゴ13』を、火村はテーブルの上に放り投げた。気怠げに腕を伸ばし、キャメルのパッケージを手に取り、中から一本煙草を取り出して口にくわえる。カチャリと小さな音がリビングに響き、煙草の先に小さなオレンジの火が点った。
 隣りの書斎の様子を探るように、そっと耳を澄ませてみる。が、先ほどまで一定のリズムで聞こえていたキーを叩く音は、今は微かたりとも聞こえてこない。若白髪の混じった前髪を掻き上げ、火村は天井に向かって溜め息の代わりに紫煙を吐きだした。
「この調子じゃ、予約変更じゃなくてキャンセルだな」
 ぼそりと呟く。少しだけ冷えた空気に余韻を残し、吐息のような声が消えていった。
 事の発端は、10日前にアリスの元へと転がり込んできたショートショートの依頼だった。初めて依頼された出版社でもあり、また原稿用紙15枚で本格ミステリーを、との企画に惹かれて受けた仕事であったが、どうやらそれが失敗の元だったらしい。
 アリスの話に拠れば、いつも通り最初の内はご機嫌な調子で原稿の方も進んでいたそうだ。だがつい調子に乗りすぎて、ハッと気付いた時には依頼のページ数を大幅に越えてしまっていたらしい。
 それから唸ること数日。最初に考えていたアイディアを潔く捨て、別のものを持ってきたはいいが、最後の最後で詰まって、そのまま現在の状況に至ってしまっている。
 アリスらしいといえば、この上もなくアリスらしいのだが、約束を反故にされた身としては、簡単に仕方がないな、と済ませられる問題でもない。しかもそれが今年になって既に4回目ともなれば、火村の機嫌が多少斜め向きであったとしても、それこそ仕方がないことに違いない。
『火村ぁ〜、ごめん。予定一日遅くして』
 疲れた様子も露わな掠れ声で火村の元へとアリスから電話が掛かってきたのが、昨日の午後のことだった。
 土曜日の講義を休講にして、ついでにアリスとの約束通り旅行の用意をして、研究室をあとにしようとしていた火村は、電話の向こうの相手に思いっきり呆れたような溜め息をついてみせた。
 だがそれにリアクションを返す余裕もないのか、一分一秒でも時間が惜しいと言わんばかりに、アリスは用件だけ言うと、さっさと電話を切ってしまった。
 どうせあの様子じゃ、予約の変更もやっていないに違いない。虚しく不通話音の響く受話器を握りしめ、火村は再度大きな溜め息をついた。二度と締め切り前のアリスと約束はしないぞ、と悪態をつきながら旅館の予約を変更する。
 その後、右手に旅行用のバッグ、左手にスーパーの袋を抱え、火村はアリスの部屋へとやってきた。だが火村が部屋の中に入るより先に、チャイムの音を聞いて玄関へと駆け出してきたアリスは、「予約の変更しとってや」と火村の胸に列車のチケットを押しつけて、そのままの勢いで書斎へと取って返した。
 文句の一つも言う間のないアリスの早業に、瞬間呆然とする。が、すぐに気を取り直し、火村は手に持っていた旅行バッグとスーパーの袋を玄関に放り出すと、息つく間もなく、天王寺駅のみどりの窓口へと向かった。
 アリスの言葉に従って列車の予約を一日ずらし、再度アリスの部屋へと戻る。たが今度は何度チャイムを鳴らしても、アリスが出てくる気配は微塵もない。
「…ったく、あの野郎は」
 ぶつぶつと文句を呟きながら合い鍵でドアを開け、中へと入る。玄関には先刻置いたままのバッグとスーパーの袋が、火村が部屋を出た時のままの様子で置きっぱなしになっていた。
「やれやれ…」
 溜め息をつきながら、火村はそれらを抱えてリビングへと向かう。人の気配のないリビングに足を踏みいれると、ぴたりと閉ざされた書斎のドアの向こうから、止まったり動いたりと調子外れなリズムでキーを叩く音が聞こえてきた。
 ---調子がいいのか悪いのか、さっぱり判らねぇな。
 が、とにかく書斎は開かずの間と化してしまっていることだけは、確かなようだ。取り敢えず途中のスーパーで買ってきた食事の材料を片づけておこう、とキッチンに足を踏みいれる。と、そこには洗い物の山。
 シンクにはごっちゃりと、皿だのコーヒーカップだのどんぶりだのが無造作に突っ込まれている。そして傍らのゴミ箱の中には、種々雑多なカップラーメンの器がてんこ盛りになっていた。
「---あの野郎。この借りは、ちょっとやそっとじゃ済まねぇからな」
 聞く相手のいない雑言を口にしながら、キッチンの後片づけと部屋の掃除。ついでに洗濯までやって、結局貴重な金曜日の午後は潰れてしまった。
 アリスに夕飯を運んだついでに、火村は態とらしく書棚から読みかけの『ゴルゴ13』を取りだした。
「残酷な仕打ちは止めんかい」
 オムライスを頬張り、右手のスプーンを振り回しながら抗議するアリスに、火村は嫌味ったらしくフンと鼻で嗤ってみせる。
「何ぬかしてやがる。誰かさんが原稿を終わらせなかったせいで、今日の午後一杯、俺が何をしたか判ってんのか、てめぇ」
 じろりと睨め付けた視線に、アリスが言葉に詰まる。が、すぐに気を取り直し、己の正当性を主張し始めた。
「何やねん。たった一日遅うなったぐらいで、うだうだと…。ほんま心の狭い奴やな、君は。そんな言わんでも、絶対に明日中に終わらせて、明後日には何の憂いもなく出発や」
 しかし、そのアリスの意気込みを笑うように時間は刻一刻と過ぎ、予定を変更した出発日の明日まで、残すところ2時間弱---。完璧に指が止まってしまったらしい今の状態では、明日の出発は85パーセント程度の確率で無理というものだろう。

◇◇◇

「こんなことならさっさと予定をキャンセルして、家でゴロゴロしていた方が得策だったかな」
 ぼそりと呟いた時、微かな音と共に開かずの扉と化していたアリスの書斎のドアが細く開いた。その音に、ゆっくりと火村が身体を起こす。ソファの背もたれ越しに覗いてみると、中からぼんやりとした様子のアリスが出てきた。
 既に徹夜も二日目を数えたアリスの様子は、すっかり彷徨えるゾンビのごとし、だ。魂が身体から抜け出て、風船のようにフワフワと頭の上で漂っている様子さえ見える気がする。
「おい、アリス」
 呼びかけた火村の声に返事も返さず、うすぼんやりとした様子でアリスは洗面所へと向かう。頭が半分眠っているのか、一連の行動はどう見ても無意識の行動のようだ。
「チッ」
 舌打ちをし、火村はぼさぼさの前髪を乱暴に掻き上げながらキッチンへと向かった。洗面所から聞こえる水音を耳にしながら、手早く二人分のインスタントコーヒーを作る。
 両手に持ったカップをテーブルの上に置いたところで、ぼんやりとしたままのアリスがリビングへと入ってきた。まるで操られた人形のように書斎へと向かうアリスの腕を取り、火村は強引にソファへと座らせた。睡眠不足で魂浮遊状態のアリスは、火村に為されるまま、おとなしくソファに腰を下ろした。
「おい、アリス」
 呼びかける声に、ゆっくりと視線を巡らせる。だが、その視界の内に火村の姿を写しているとは思えなかった。いやそれどころか、目を開けていても、果たして起きているのかどうかさえ怪しい。
 呼び掛けに何の反応も返さないアリスの様子に一つ溜め息をつき、火村はアリスの目の前で両手を打ち鳴らした。その音に、漸くアリスが我に返る。
「火村…?」
 ぼんやりとした問い掛けに、火村は口許に苦笑を刻んだ。
「漸く起きたか。コーヒー淹れてやったから、飲めよ」
 テーブルの上で湯気をたてるコーヒーに、アリスがゆっくりと手を伸ばす。コクリと喉を鳴らし、ひと口熱いコーヒーを啜ると、眠っていた脳味噌も漸く動き出したらしい。緩く頭を左右に振り、ほっと小さく息をつく。
 その様子を目を眇めて見つめていた火村は、取りだしたキャメルを口にくわえ、天井に向かって紫煙を吐き出した。
「明日からの予定は、キャンセルだからな」
 ぼそりと呟かれた言葉の意味を上手く捕らえることができずに、アリスが僅かに頭を傾げた。口にしたコーヒーの熱がゆっくりと身体に染み渡っていくように、火村の言葉がアリスの中に染みこんでいく。
「な、何でや。何でキャンセルなんてするんやッ。今日中に絶対終わらせるって、俺言うたやろ」
 ガチャンと派手な音をたてて、アリスがカップをテーブルの上に置く。その反動で零れたコーヒーが、テーブルの上に黒い小さな水溜まりを作った。
 ソファに両手をつき、隣りに座る火村の方へとアリスは身体ごと向き直った。眉を寄せたその表情に、火村は口許に小さく笑みを刻んだ。つけたばかりの煙草の火を灰皿で揉み消し、アリスの前髪に触れる。
「こういう状態で時間に追われて書いて、それでお前、満足のいくものができるのか?」
 火村らしくない柔らかな問い掛けに、アリスは唇を噛んだ。そんなことは火村に言われなくても、自分自身が一番良く判っていることだ。
 応えを返さないアリスの髪を、火村がゆっくりと梳く。
「締め切りに余裕の無い時なら、それも仕方ねぇかもしれないさ。だが、今は違うだろ。締め切りはゴールデンウイーク明けだって、お前言ってたじゃねぇか」
「でも…」
 アリスが口惜しそうに唇を噛む。強情をはる子供のような表情に、火村は口許の笑みを深くした。噛み締めた唇を解くように、火村の親指が触れる。
「アリス…。桜は今年だけじゃねぇだろ。今年がだめでも、来年また行けばいいじゃねぇか」
「そやけど…」
 視線を落としたアリスが、それでも素直に頷くことはできない、とばかりに言葉を濁す。
「温泉に行きたいんなら、いつだってまた付き合ってやるさ」
「ゴールデンウイークが最後やもん。その後なんて、暑うて温泉なんて入る気せぇへん」
「だったら、秋だろうが冬だろうが、お前の好きな時期に付き合ってやるよ」
 火村の言葉を計るように、アリスが沈黙する。が、数瞬のあと、アリスは罰が悪そうな上目遣いで火村へと視線を上げた。
「ほんまに…?」
「約束する。なんなら、指切りでもするか」
「いらんわ、そんなん。それよか、秋に温泉付きの紅葉狩りツアーで冬は雪見酒ツアーやで」
 アリスの言葉に、火村が呆れたように眦を上げた。
「おい、アリス。多くなってねぇか?」
「だって君、いつだってまた付き合ってやるって言うたやないか」
 にっこりと微笑むアリスに、火村が態とらしい程に盛大な溜め息をついてみせる。
「相っ変わらず、お前はいい根性をしてるよ」
「一応誉め言葉として受け取っとくわ。俺は寛大やからな」
 さばさばした表情でそう言ったアリスは、安心したような欠伸と共に身体を伸ばす。
「やったら、締め切りまでまだ時間があるから、俺、もう寝よ。火村、コーヒーありがとな」
 冷めたコーヒーがまだ残っているカップを手に取り、立ち上がったアリスの腕を、火村が強引に引き戻した。どさりと大きな音をたて、アリスがソファに尻餅をつく。
「何すんねん。危ないやないか」
 怒鳴ったアリスを一蹴し、火村はゆっくりと双眸を眇めた。
「おい、アリス」
「な、何やねん?」
 低いバリトンの声に、アリスはごくりと息を飲んだ。アリスの腕を掴んだ火村は、その掌にゆっくりと自分の唇を寄せた。
「ひ、火村ッ」
 ひっくり返った声音に、火村がニヤリと質の良くない笑みを作る。
「別に俺はお前みたいに拘らねぇから、感謝の気持ちはここで表してくれてもいいんだぜ」
「な、何言うて…」
「ああ、そう言えば…。確か原稿が終わらなかったら、俺の言うことを何でも聴くってのもあったよな」
「どアホ。それは、この間の花見の時のことやないか」
「その時限りだと言った覚えはないぜ」
 しれっと言い募る火村に、アリスが言葉に詰まる。余計なことを言ったと臍を噛んでも、今さらあとの祭りだ。
「お、俺、原稿あるし、二日ぐらい徹夜で寝てへんし…」
 恐る恐るというように、己の腕を掴んだ火村の指を外す。火村の抵抗がないことを見て取り、ゆっくりと後退りしながらソファの背へと回り込んだ。
「ほなら、おやすみ」
 へへっと作り笑いを浮かべながら、リビングから出ようとしたアリスの背を火村のバリトンの声が追いかけてきた。凍り付いたように、アリスが戸口で足を止める。
「休みはまだ三日もあるしな。俺は気が長い方だから、ゆっくり待ってやるよ。ああ、但し利子はしっかり払って貰うからな」
「煩いわ。君、もう京都に帰ってもええで」
 バタンと勢い良くリビングと廊下を仕切るガラスの扉を閉め、足を踏みならしてアリスは寝室へと向かった。
 後に取り残された火村は、喉の奥で小さく笑う。やがてごろんとソファに横になり、テーブルの上に置きっぱなしにしていた『ゴルゴ13』を再度手に取った。


End/2001.05.04




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