黄金週間ミステリーツアー

鳴海璃生 




 暖かい春の陽射しが差し込むリビングで、私はぱらりぱらりと雑誌のページを捲っていた。そろそろテレビのニュースでは、色分けした桜前線を書き込んだ日本地図が、世間の話題を賑わせ始めている。
 春真っ盛り。桜の季節はもう目の前に迫っていた。
 ソファの上に胡座をかき、真剣な表情で膝の上に広げた雑誌を睨みつける。
 テーブルの上にはコーヒーの入ったマグカップ。その横には何冊も積み上げられた旅行雑誌。ソファの空いた場所にも、付箋をつけた雑誌が数冊転がっている。フローリングの床の上にはパック旅行のチラシ。それらは全て、私が昨日一日かけて書店ゃ旅行会社を駆けずり回って集めてきたものだ。
 その中でもひと際目を引くのは、でかでかと大きなポイントで書かれた『ゴールデンウイーク』の文字。
 民族大移動の楽しい楽しいバケーション。
 誰もが心待ちにしている黄金週間の予定をたてるために、私は運動不足の身体に鞭打ちながら、足を棒にして大阪の街を歩き回ったのだ。
 観光地や街中に溢れる人混みとは相反するように、私のゴールデンウイークは毎年毎年原稿との格闘の日々だった。何せ時間の都合のつく自由業。何も人で溢れかえるこの時期に出掛けなくてもいいじゃないか。そう思って、毎年この時期は仕事に励んでいた。
 だがしかし、今年のゴールデンウイークは違う。世の中のカレンダーに合わせて、思いっきり遊んでやるのだ。
 人様が楽しく遊んでいる時に一人仕事をしているのは、やっぱり精神衛生上良くない。そう思い直した私は、今年のゴールデンウイークをとことん遊ぶことに決めた。
 もちろんそのための原稿の締め切り調整も、しっかりやった。残るは、遊びに行く場所を決めるだけだ。
「う〜ん…。ええとこ一杯あるし、行きたいとこも山ほどやし。悩むわ」
 買い込んだ旅行雑誌を次々に開き、ページを捲りながら頭を捻る。
 とその時、不意にチェストの上の電話が鳴りだした。膝の上にあった雑誌を傍らに放り投げて、電話機へと向かう。受話器の向こうから聞こえてきた声は、京都在住の犯罪学者のものだった。
『よぉ、アリス』
 いやに機嫌の良さそうなバリトンの声に、少しだけ身構える。長年の経験から、こういう時の火村には注意が必要だと学んでいる。
「何や、どうかしたんか?」
『お前、今年のゴールデンウイークはどうするんだ。いつも通り、また原稿漬けになるつもりなのかよ?』
 余りのタイミングの良さに、私は息を飲んだ。もしかして、この先生には超能力でも備わっているのだろうか。それとも、野生の勘てやつか。
「いや。今年は君を誘うてどこか行こう、って思っとったんやけど…」
 伺いをたてるように、少しだけ語尾が小さくな。
 火村のことだ。きっと「俺は、んなもんには行かねぇぞ」とか「冗談じゃねぇ」とか言うに決まってる。だが、ここが腕の見せ所。火村と付き合ってきた10数年の経験は、確実に私をレベルアップさせている。
『ふ〜ん、そうか。そりゃ、ちょうどいい。だったら、行き先は俺が決めていいか』
「はっ?」
 間抜けた返事を返した私は、焦って言葉を継いだ。
「そりゃ構へんけど。---どうしたん? 何か悪いもんでも食べたんか、君」
『随分な台詞だな。偶には俺だって、人並みのゴールデンウイークを楽しみたいんだよ。じゃ、構わねえんだな?』
 らしくない台詞が、とてつもなく不気味だ。
 だが不気味でもけったいでも、このさい何でもいい。もしエイリアンに身体を乗っ取られていたり、脳味噌に黴が生えていたりするのなら、ゴールデンウイークが終わるまでは、ぜひともその状態を保っていてほしいものだ。
「もちろんや。で、どこ行くん?」
『それは秘密だ。その方が、当日までの楽しみがあっていいだろ。---そうだな、一つヒントをやるなら有名な観光地ってとこだ』
 そういう場所は人手が多そうでイヤだな、と思う。だが、ここで余計なことを言って火村の機嫌を損なうわけにはいかない。悔いのないゴールデンウイークを過ごすためには、それなりの傾向と対策が必要なのだ。
「ん〜、判った。やったら、俺どうしたらいいん?」
『5月3日の朝、家に来いよ。予め言っておくが、いつもみたいに締め切りが間に合わなくてパス、なんてのは無しだぞ』
「もちろんや、まかしとけッ!」
 威勢良く返事をして電話を切った。
 以心伝心。春の珍事。いや、持つべきものはやっぱり有り難いご友人様だ。

◇◇◇

 いよいよ明日からは、嬉しい楽しいゴールデンウイークの連休。という5月2日---いや、とっくの昔に日付は変わってしまっているから、もう今日か。
 久々に遠出する旅行に胸を弾ませ、安らかな眠りを享受しているはずの私は、あろうことかワープロの前で青くなって、唸っていた。既に貫徹二日目。気力も体力も、ぼろぼろってな状態だ。
 だがこういう状態に陥ったのは、決して私の締め切り調整に失敗があったわけでも、齟齬をきたしたわけでもない。全ては、時の巡り合わせ。不運な偶然が重なると、世の中何が起こるか判らないものではないか。事実は小説より奇なり---ではなくて、要するに小説の最後の詰めができあがらない。
「あー、もうどないしよ。そろそろお天道様が顔を出す時間やないか」
 やけくそのように怒鳴ってみても、事態は何も変わらない。ディスプレイの中の文章は一行も進まないのに、時間だけは刻一刻と過ぎていく。
 悪夢のようなこの状況。それは、細いラインで繋がれた一本の電話から始まったのだ。
 ゴールデンウイークまで、指折り数えて一週間という4月22日。東国におわします担当編集者、片桐光雄氏が申し訳なさそうに一本の電話を寄越してきた。
 5月末に発行予定のミステリー雑誌に短編を掲載する予定の作家が、何と交通事故で入院してしまったというのだ。右上腕部及び鎖骨骨折の全治二ヶ月。怪我自体は大事に至らないものの、当然原稿などできようはずもない。
 最初は「ふんふん」と世間話程度に片桐の言葉を聴いていた私は、だんだんと話の流れがやばい方向に転がりだしてきたことに気が付いた。だが、その時には既に時遅し。片桐がぽっかり空いてしまった30ページの埋め合わせをぜひぜひ頼みたいと、受話器の向こうで平身低頭のお願い攻撃を始めてしまったのだ。
 私としては「ちょっと待って下さい」と言いたいところなのだが、日頃かけている迷惑の数々を思い起こすと、無下に断ることもできない。斯くして、「最終締め切りぎりぎりの、ゴールデンウイーク明けまで待ちますから」のひと言を最後に、私の運命は決定した。
 あぁ…、この人の良い性格が憎い。
「あかんッ、タイムリミットや」
 時計の針は午前八時。先日確認のために掛かってきた電話では、これといって火村からの時間の指定はなかった。だがいい加減で出掛けないと、これからの予定に行き詰まりが出てしまうことは必至だ。
「こうなったらワープロ抱えていくしかないな」
 掛かってきた電話の中で火村にしっかりと釘を刺された身としては、今さら旅行の中止を言い出すわけにはいかない。ワープロ同伴の仕事持ち込みでも、一体何とと言われることか---。ちらりと考えただけでも、頭痛がしてくる。
 だが旅行を中止にするよりは、きっと---たぶん---火村の機嫌の位置も少しはましに違いない。それを切に願いながら、私はワープロと旅行鞄を両手に提げて、ごみ箱のような部屋をあとにした。
 谷町線で天満橋まで行き、そこで京阪の急行に乗り換えた。
 電車の揺れが心地良い。だが、もしここで眠ってしまったら絶対に起きれない、とふんだ私は、くっつきそうになる目蓋を必死にこじ開けて、出町柳までの約一時間を耐えに耐えた。
 これじゃまるで拷問か我慢大会だ、と己の不遇を嘆きつつ、ようやっとの思いで北白川の火村の下宿に辿り着いた時には、既に動く生ゴミか屍状態だった。
「こんにちはぁ〜」
 廊下の奥に向かって力無い声で挨拶をして、私はどさりと玄関口に座り込んだ。背中越しに、奥の居間から人の気配が近づいてくる。
「よぉ、アリス。早かったじゃねぇか」
 てっきり婆ちゃんが出てくるものと思い込んでいた私は、聞こえてきたバリトンの声に、ぱったりと廊下に倒れ込んだ。仰向けの姿勢のまま声の主を見上げると、人を旅行に誘った火村先生は、よれよれのシャツとジーンズで私を見下ろしていた。足下には、お供のように茶虎のウリが控えている。
「そんなとこで寝てないで、まぁ上がれよ」
 そう言って、火村は居間の方へと踵を返した。よろよろと立ち上がった私は、荷物を玄関に置いたまま、瓜太郎にせっつかれるようにして居間へと向かった。
 中に入ると、中央の座卓で火村がのんびりとお茶を口にしている。ずかずかと大股に火村の方に歩み寄っていき、私は腰に手を当てた恰好で火村を上から見下ろした。
「おい、君。何こんなとこでゆったりくつろいでるねん。旅行は一体どうなったんや?」
 寝不足で機嫌の悪い私は、険を含んだ声音で火村を問いつめる。
「もう来てるじゃねぇか」
 素っ気なくそう応えた火村は、私の方を見つめニヤリと口許に笑みを刻んだ。
「俺が決めた旅行の行き先は、ここだ」
 予想もしなかった言葉に一瞬頭の中が真っ白になり、ついでフツフツと怒りがこみ上げてきた。
「ふざけんなや。君、電話で、有名な観光地って言うてたやないか」
「当たってるだろ。京都は日本でも一、二位を争う観光地だ」
 既に生活の場と化しているので時々忘れてしまうが、確かに火村の言う通り、京都は日本でも一、二位を争う観光地だった。
 ---何や、通り過ぎてきた銀閣寺の辺りに、やたらめったら人が多かったのは、そういうわけか。
 と、安直に納得している場合じゃない。
「あのなぁ…」
「婆ちゃんが、娘さんの家族と一緒に温泉に行ってるんだ」
 火村のバリトンが、勢い込んだ私の気勢を削ぐ。
「こいつらの世話もあるし、家を空けるわけにはいかねぇんだよ」
 縁側で日向ぼっこをする真ん丸い塊に視線を走らる。陽の光を一杯に吸い込んだ毛並みは、ほこほこと膨らんだ毛玉のようだ。ハァ〜と小さく息を吐き、私は糸が切れた操り人形のように、火村の隣りにぺたりと座り込んだ。
「やったら、こんな回りくどいことせんで、最初からそう言えばええやん」
「ちょっと楽しめただろ?」
 にやりと笑った火村に、私は渋面を作った。確かに、一週間前までは楽しませて頂きましたとも---。
「冗談やないで、ほんま…」
 力無く呟く。ここに着くまでにフル活用した気力も体力も根性も、きれいさっぱり、あっさりと尽き果てた。頭の中は空洞状態。意識も身体もフワフワユラユラして、回っている地球の動きさえ妙にリアルに感じる。
 ここまで我慢に我慢を重ねて、何とかごまかして続けてきた睡魔が一気に押し寄せてきた。紗をかけたような世界が、私から少しずつ遠くなっていく。
「---あぁ、もうダメや。限界や」
 ぱったりと倒れ込み、私は頭を火村の膝の上に置いた。見下ろしてくる火村の目許が、僅かに和む。
「どうしたんだよ?」
「片桐さんから急な仕事の依頼が入って、ここ一週間まともに寝てないんや。俺、暫く寝るから、適当な時間になったら起こして。それから原稿の続きやるわ」
「しょうがねぇな」
 苦笑と共に呟かれた言葉とは裏腹に、髪を梳く指先は優しい。まるで子守歌のようなその感触が心地よくて、私はゆっくりと目蓋を閉じた。意識が穏やかに眠りの淵へと滑り込んでいく。
 目が覚めたら原稿をやって、火村の御飯を食べて、そしてそれから---。
 私達のゴールデンウイークは、まだ始まったばかりだった。


End/2001.05.02




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