鳴海璃生
長いようで短いゴールデンウィークも終わりの、五月六日。身体がすっかり休み仕様にだれてしまった男二人は、夕食も適当に済ませ、冷えた缶ビールを気怠げに傾けていた。
サラリーマンとは違い、ある程度時間が自由になる職業に就いているこの部屋の主にとっては、ゴールデンウィークも平日も余り変わりがない。だが長身をソファに伸ばし、きつい香りのする煙草をくゆらす助教授には、明日から時間に仕切られた通常の生活が戻ってくるのだ。もっとも、学生もだれきっているだろう休み明けの講義を執り行うかどうかは、遣る気に溢れているとは言い難い助教授の胸先三寸で決定される。
二人でいるというのに、特にこれといった話をするわけでもない。それぞれが好き勝手に振る舞っている部屋の中には、どこか凪いだような空気が満ちていた。だがそれは決して不愉快なものではなく、どちからといえば二人の膚に心地よく馴染む空気だった。
部屋の中に満ちる音は、テレビから流れてくる聞き慣れたアナウンサーの声。カチコチと時を刻む秒針の音。そして長い指先から繰り出される、紙を捲る時の乾いた音だけだ。
静かにゆっくりと、だが確実に時間だけが流れていく。
カチンと硬質な音をたてて、この部屋の主、有栖川有栖は空になった缶ビールをガラスのテーブルの上に置いた。もちろん視線は、目の前のテレビ画面から外さないままだ。
「なぁ…」
眠気を誘うようなのんびりとした口調で、傍らに座る助教授に声を掛ける。応えの代わりに、カサリとページを捲る乾いた音が鼓膜を震わせた。だがそんな無精な態度に気を悪くする風もなく、アリスは続く言葉を紡ぐ。
「もしこれが最後の晩餐やって時に、君やったら何を食べたいって思う?」
「はぁ…、何だって?」
唐突な問いかけに、火村は膝の上に広げた分厚い専門書から視線を上げることなく返事を返した。
こんな風に何の脈絡もない問い掛けを突然繰り出してくることは、アリスにとっては日常茶飯な出来事だった。そういう時のあしらい方も、既に十年以上に渡る付き合いから、経験として火村の身体の中に染みついている。相手をするかしないかはその時の気分次第だが、今日は余りまともに相手をする気のないことが、口調の端々から滲み出ていた。
「ん〜、せやから、最後の晩餐に君は何を喰いたいって訊いてるんや」
そのどこか投げやりな口調に気付きながらも、アリスは怯むことなく同じ質問を繰り返す。こちらも経験から、火村の気分の妙を掴んでいる。押すか引くかの駆け引きは、その一線を読み間違えない限り、二人にとっては遊びや戯れと同義語なのだ。
やれやれとばかりに小さく溜め息を零し、火村は難解な英単語の並ぶ書面から視線を上げた。膝の上に肩肘をついて、顎を支えた前屈みの姿勢でテレビ画面に見入る姿に、さらりと軽い視線を走らせる。ついで、真っ直ぐな眼差しの先を辿った。
視線の先では、平日の夜には馴染みとなっているアナウンサーが、老舗の様相を呈した座敷で、巷では大物と評せられる女性演歌歌手と向かい合っている。
---ふ〜ん、なるほど…。
真剣とは言い難いぽやんとした表情で、テレビ画面を見つめる推理作家の横顔に視線を戻す。どうやらアリスは、ブラウン管の中で繰り広げられる対談を見て、唐突に先刻の質問を口にしたらしい。
単純といえば、単純。だが本を読むのにもそろそろ一段落をつけたい犯罪学者にとっては、その唐突な質問の相手をすることも吝かではなかった。特に図ったわけでもないだろうが、無意識の内に繰り出されるアリスのこの絶妙なタイミングは、火村にとっては心地よい以外の何物でもなかった。
膝に置いた本を閉じ、ソファの空いた場所に投げ置く。カチリと高い金属音を響かせて、新しい煙草に火を灯した。深呼吸するようにフゥ〜と大きく紫煙を吸い込み、火村は伸ばした足をゆったりと組み替えた。
「そうだな…」
眇めた視線を宙に彷徨わせる。そして空っぽの肺の中にニコチンが染み渡る速度で、灰色の脳細胞を活性化させた。
「---お前は、何が喰いたい?」
答ではなくエコーのように跳ね返ってきた質問に、アリスはテレビ画面から隣りに座る犯罪学者に視線を移した。
「何やねん。質問に質問で返すなって、君が言うたんやで」
眉を寄せ、じろりと睨みつけるように真っ直ぐな視線を火村へと向ける。それに小さく肩を竦め、火村は口角を僅かに上げた。
「まっ、いいじゃねぇか」
ほら、答は---と、軽くアリスの肘をこずく。何だか納得できないという表情で火村を軽く睨み、アリスは「う〜ん…」と唸りながら胸の前で腕を組んだ。
「好きな食べ物やったら、色々あるんやけど…」
オムライス、海老フライ、お好み焼き、ラーメン---と、指折り数えながら、アリスは頭の中に浮かぶメニューを次々と口の端に上らせていった。歌うようなリズムで紡がれるそれらを右から左に聞き流し、火村は長くなった灰をガラスの灰皿の中に落とした。
「最後にそれだけ喰おうなんて、図々しすぎるぜ」
苦笑と共に呟かれた言葉に、アリスは軽く首を竦めた。改めて言われなくても、最後って時にそれだけ喰えるとは自分だって思っちゃいない。単にちょっと口に出しただけじゃないか---とは、心の中での抗議に留めた。
「だいたい好物イコール最後の晩餐のってのは、あんまり答えないないんじゃねぇか」
淡々とした口調で語りながら、火村は顎でテレビ画面の対談を指し示した。つられたように視線をブラウン管に戻し、アリスは大物演歌歌手の言葉に耳を傾けた。
『もしこれが最後という時には、何が食べたいと思いますか?』
アナウンサーが真剣な、だがどこか軽い口調で問い掛ける。ゲストの女性は、にこやかに微笑んだ。
『さつまいもかしら』
大晦日の国民的番組で、何度もトリを勤めた大物演歌歌手には不似合いな答が、紅に彩られた唇から漏れる。早速アナウンサーは、その理由を訊ねた。どこか憂いを含んだ眼差しが、何かを懐かしむように宙を彷徨う。
「ほらな」
アリスに向かって、火村は気障ったらしいウインクを送る。それを横目に眺め、アリスは鼻に皺を寄せた。
確かに火村が言った通り、ブラウン管の中の演歌歌手が口にした答えは、飽食の時代に相応しくない食べ物の名前だった。アナウンサーが訊ねた理由を改めて聴かずとも、それが彼女の好物ではないことは明白だ。
「まぁな…。今まで出てきた人達も、自分の好物を挙げた人は殆どおらんかったわ」
普段はさぞや高級料理を口にしているだろうと想像されるゲスト達も、皆「おにぎり」だとか「お茶漬け」だとか、極有り触れた料理の名前を口にしていた。それらは彼らの好物ではなく、思い出と直結しているメニューに他ならなかった。
「---で、」火村が、端正な口許にニヤリと笑みを刻む。「お前は、最後の晩餐には何を食べたい?」
余り質の良くない笑み浮かべた助教授から、アリスは視線を外した。ブラウン管に視線を合わせる。既に還暦を越えた演歌歌手はまるで少女のような表情で、懐かしくて、どこか切ない思い出を懐かしむような口振りで語っていた。
ぼんやりとその様子を見つめ、アリスはそっと思い出のビデオを回す。
---最後の晩餐に食べたい物かぁ…。
人生に於ける最後の最後。明日は、いやもう数時間後には大切な人や、この世界に別れを告げるというその最期の時に、一体自分は何を食べたいと思うのだろう。
思い出す作業が不必要なほど、好きな食べ物は色々ある。だがきっと最後のその時には、それらの何一つとして頭の中には浮かばないに違いない。それと明言できる程の力強さではなく、漠然とそう思う。
「俺は、もう決まってるぜ」
穏やかなバリトンが鼓膜を震わせた。びくり、と小さく身を震わせ、アリスは声の主へと視線を移した。迷いのない真っ直ぐな眼差しが、アリスへと注がれる。闇色の瞳に映る己の姿に、アリスをはこくりと小さく息を飲んだ。
「---何を食べるんや?」
掠れたような声を、乾いた喉の奥から絞り出す。火村は挑発するような笑みでニヤリと笑う。
「お前は?」
詠うようなバリトンの響きに、アリスは質問に質問で返された腹立ちも忘れた。誘うように詠うように、火村のバリトンが何度も何度も鼓膜を震わせる。
「俺は…」
ゆっくりと目蓋を閉じる。
目の前に広がる青い空。天国から降り注ぐような、暖かくて柔らかな光。ぼさぼさの髪の毛。皺くちゃの白いシャツ。
懐かしくて、泣きたくなるほど愛しい風景---。
『その続きはどうなるんだ?』
時の向こうから、懐かしいバリトンが囁く。
そっと、時の流れを上るようにゆっくりと瞳を開く。懐かしい風景が、微睡むように光の中に溶けていく。視界の中に、かけがえのない現実が映る。
「俺、最後の晩餐に何食べたいか決めたわ」
ふわりと、アリスは笑った。その笑みに双眸を細め、火村は短くなった煙草を灰皿の中で揉み潰す。馴染んだ香りが、ツンと鼻腔を擽った。
「へぇ…。じゃ、声を揃えて一緒に言うか?」
火村が片頬を歪めるようにして、ニヤリと笑う。
「ええで」
アリスも口許に強気の笑みを刻んだ。
せーの。
「学食のカレー」
言った途端に、アリスがブフッと吹き出した。腹を押さえるようにしてケラケラと笑う姿を、火村は憮然と眺める。
「おい---」
「ちょ…ちょお待って…」
苦しい---と、呻きながら、アリスは目尻に浮かんだ涙を指で拭う。ハァハァと深呼吸を繰り返して、何とか笑いを納めようとする。が、アリスのなけなしの努力はなかなか功を奏さない。
「おい、てめぇには情緒ってもんがねぇのかよ」
眇めた眸でアリスの様子を眺めていた火村は、低く唸った。
「もちろん、ある。でも、君が最後の晩餐に学食のカレーやなんて、あまりに…」
上半身を折り曲げるようにして、アリスはソファに倒れ込んだ。それをひと睨みして、火村は徐にアリスの腕をぐいっと力任せに引いた。
「うわっ!」
ジェットコースターに乗ったような、一瞬の早さでアリスは火村の腕の中に抱き込まれた。何だ、と思う間もなく、力強い腕に背中を抱きしめられる。囲い込むように胸の中に抱き込まれ、アリスは漸く己の失態に気付いた。
「ちょおっ、火村…」
もぞもぞと身体を捩り、何とか柔らかな檻の中から抜け出ようと試みる。だが力を込めているわけでもないのに、アリスを囲う火村の腕は緩まない。
「だったら、俺らしい台詞を言ってやろうか」
耳朶に触れる程の近さで、低いバリトンが鼓膜を震わせた。背中を甘い疼きが走る。
「アリス。だったら、お前が---」
毒を含んだバリトンに、アリスは思わず目を瞑った。
遥か未来の、時の向こうにいつか来る最後の晩餐。
その時も、視界の中に、指に触れるその場所に、今と同じ君がいる。
End/2002.05.07
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