Return to Innocence

鳴海璃生 




「あー、俺はこの時期になるとアメリカに生まれてたら良かったって思うわ」
 ガラスのローテーブルにだらしなく肘をついて金曜洋画劇場を見ていたアリスが、ぽつりと呟いた。アリスが突然脈絡もないことを言い出すのはいつものことなので、火村は馬耳東風とばかりに無視を決め込み、手元の専門書のページを捲る。
 応えが返ってこないことは既に予想済みなのか、それとも長年の経験によるものなのか、アリスは応えの有無を特に気にした風もない。だらりとテーブルに張り付くように身体を伸ばした姿は、ソファに座った火村から見ると、まるで伸びきったスライムか、とろけたお餅を連想させる。
「なぁ、火村もそう思わへん?」
 ぶつぶつと呪文のように独り言を唱えることに飽きたのか、アリスは不意に後ろに陣取っている助教授へと話を振ってきた。だがその問い掛けの言葉とは裏腹に、視線は目の前の画面へと注いだままだ。
 ---やれやれ…。
 遂にお鉢が回ってきたか、と諦めにも似た心境で、火村はアリスが凝視しているテレビ画面へと視線を向けた。朝---といっても、昼に近い時間だったが---起きた時から執拗にチャンネル権を主張していたブラウン管の中では、孤独なお化けと孤独な少女とのささやかな交流を描いた映画がCGを駆使した映像とロマン溢れる情景で繰り広げられている。大人の童話とでも形容できそうなそれは、アリスの好きな監督が制作を手掛けた、一風変わったシンデレラストーリーだった。
 火村にしてみれば単なる作り話以外の何物でもないお伽噺も、夢見る推理作家にはどうやら垂涎の的らしい。だいたいこの世にお化けなんてものが存在すること自体胡散臭いし、新聞の番組案内欄に書いてあった『孤独なお化け』という表現を読んで、火村は鼻で笑ってしまった。
 もし本当にお化けなんてものがいるのなら、それはすべからく孤独なものなんじゃないだろうか。それとも世界のどこかには、陽気なお化けなんてものが存在しているとでもいうのか。もしそうなら、ぜひとも陽気なお化けとやらにご対面してみたいものだと思う。
 ---いや、待てよ。
 どこかひよこを想像させるほわほわの茶色い髪の毛を見つめ、火村は緩く口許に微笑を刻んだ。この好奇心旺盛な推理作家なら、例えお化けになったとしても陽気に明るく、楽しいお化けライフを満喫しそうじゃないか。
 埒もない想像にクスクスと小さく笑っていると、業を煮やしたようなアリスが僅かに声を上げた。名を呼ばれ、声の主へと視線と意識を戻す。視界の先で、むっとしたような表情まアリスが火村を睨みつけていた。
「なに一人でへらへら笑ってるねん。そんなに面白いんか、その専門書」
 ソファの上で胡座をかき、膝の上に置いていた分厚い専門書を、アリスが下からぺしりと叩く。火村は表情を改め、閉じた本を脇に置いた。視線を移したテレビの中では、着飾った子供達がパーティを楽しんでいた。出演している子供達は確か12、3歳ぐらいの設定だったはずなのに、やっていることは世間一般の大人なみだ。アリスが羨ましいと感じるファクターは、画面のそこかしこに蔓延している。
「何だ、アリスはお化け屋敷でパーティでもやりたいのか?」
 からかいを含んだ言葉に、アリスはぷんと頬を膨らませた。
「ちゃうわ。俺がやりたいのはハロウィーンや」
 新聞の内容もアリスの話もいい加減に見たり聞いたりしていたので、はっきりとした映画の内容までは覚えていない。だがアリスの言葉から察するに、どうやらこの映画はハロウィーンを題材に作られているらしい。時節がら誠にタイムリーな内容と番組の選択だといえるが、影響を受けやすい人間をそばに置く身としては、迷惑このうえないことも確かな事実だ。
 ジャック・オ・ランタンや様々に仮装した子供達が「Trick or treat!」と家々を回ることで知られるハロウィーンは、近年日本でもメジャーになりつつある祭りの一つだ。だがその起源は古く、元々は古代ケルト民族の大晦日のお祭りだったサムハイン祭りに由来している。
 ケルト人の元旦は11月1日で、新しい年を迎える前夜、死を司る神サムハインを讃え、来るべき春を祝うため、大晦日にこのサムハイン祭りを行っていたという。ケルト人が11月1日を新年と定めたのは、この日に春が来るという意味ではなく、1年の終わりを秋の収穫が完全に終了した段階においていたためである。こうしてケルト人の隆盛と共にヨーロッパ中に広まっていったサムハイン祭りだが、やがてキリスト教が宗教的支配を広げていく過程の中で『万聖節の前夜祭』として吸収されることになる。
 万聖節とはキリスト教全ての聖人を記念するという祝日であり、アングロ・サクソン語で『聖人』を意味する『Hallow』を用いた『Hallowmas』と呼ばれている。そして10月31日はその前夜祭、つまりイブであることから『All Hallows Even』(Evenは古語)と呼ばれていた。だが時の流れの中でそれが訛り、またAllも取れて、現在の『Halloween』になったと言われている。
 またハロウィーンと切っても切れないカボチャのランタンの起源は、日本の迎え火のようなものだったらしい。ケルト人は霊魂の不滅を信じていたため、死の神サムハインを祀るこの日、死者が家に帰ってくると考えていた。そのための目印として、家々にランタンを置いたのだという。
 同時にこの日の晩だけは、闇の中をうろつく悪い霊を追い払うことができると信じられていて(そうでないと、先祖の霊は帰って来ることができない)、そこからさまざまな仮装をして練り歩くという風習も生まれたようだ。アメリカにこの祭りを持ち込んだのは、ケルト文化の多く残るアイルランド系の移民であり、ランタンの素材がカボチャになったのは、この風習がアメリカに渡ってからのことと考えられている。
 アメリカの文化に影響を受けやすい日本においては、今やハロウィーンといえばカボチャのランタンと仮装した子供達が街中を練り歩く「Trick or treat!」の行列を思い起こす。だが実際はそれぞれの国において、その祝われ方も過ごし方も微妙に異なっているのだ。例えばフランスではハロウィーンという祭り自体が存在せず、Toussaintと呼ばれる11月1日の万聖節に日本のお盆のように家族揃って墓参りに行くだけである。
 勢い込んだアリスの言葉に、火村は喉の奥で小さく笑った。確か去年も似たようなことを言って、最高傑作と自画自賛するジャック・オ・ランタンを作っていたはずだ。その後あのジャック・オ・ランタンがどうなったのか、行方の程は定かではない。だが、それに乗じて得をした思い出だけは未だに記憶に新しい。
「ええよなぁ…。ほんまに楽しそうやわ。何で日本では大々的にハロウィーンをやらんのやろ」
 テレビに視線を戻したアリスが、画面の中の仮装パーティを眺めながらうっとりとした口調で呟いた。古い造りのお化け屋敷。思い思いの恰好に仮装した子供達。そのどれもこれもがアリスの好奇心をくすぐっているのは、一目瞭然だった。見下ろすようにアリスとテレビに流れる映像を交互に見つめ、火村は小さく息を吐いた。
「そりゃ、日本でやったらハロウィーンじゃなく、ゲゲゲの鬼太郎になっちまうからじゃねぇのか」
「ゲゲゲの鬼太郎ぉ〜?」
 テレビに見入っていたアリスが、思わず裏返ったような声を上げる。頭の中では、鳴り響くBGMに合わせ、目玉親父やぬりかべや一反木綿などの馴染みのメンバーが墓場での運動会を繰り広げ出す。刈り取られた水田の畦道を、破れた提灯(当然これも妖怪だ)を手にした妖怪達が一列に並んで歩く姿は、確かにノスタルジックな情緒を誘い、日本版ハロウィーンといえないこともない。だが素直にそうと納得するには、絶対に何かがどこかで間違っている。
「君、頼むから夢を壊すようなことを言わんといてくれ」
 力が抜けたように呟いたアリスに、火村がふんと鼻を鳴らした。
「失礼な奴だな。大きく纏めりゃ、鬼太郎だってりっぱなお化けじゃねぇか」
 火村に言われずとも、アリスだってその程度のことは納得している。だがアリスと火村の互いの言い分の中では、根本的な何かが完璧にズレ捲っている。
「俺は墓場での運動会やなくて、ハロウィーンがやりたいんやッ!」
 拳を握りしめ力説したアリスに、火村はやれやれというように嘆息した。どだい街の造りも建物の外観も、日本とアメリカじゃ大きく違うのだから、どう力んでみてもアリスの夢見るハロウィーンになどなりっこない。せいぜいできるのは、表面上の形だけを真似た疑似ハロウィーンだ。
「そこまで言うんなら、当日大学にでも行ったらどうだ?」
「大学?」
 火村の言葉に、アリスは僅かに首を傾げた。
「大学って、英都のことか?」
「そうだ。確かお祭りクラブが毎年やってなかったか? 俺のささやかな記憶に間違いがなければ、学生ん時はお前も参加していたと思うが…」
 どこかからかいと嫌味を感じさせる言葉を聞き流し、アリスは記憶の奥底を探った。そう言われてみれば、確かにそんな気がなきにしもあらずだ。
「---ああ、そうやったわ。思い出した。国際文化研究会がそんなんやってたわ」
 『国際文化研究会』などという堅苦しい正式名称を持つ同好会は、世界中至る所の祭りを掘り起こし拾い集めては、傍迷惑な程にそれを実行していた。そのため大学構内では『お祭りクラブ』として名を馳せていた、ある意味大学1のお遊びクラブである。
 特に「本学がキリスト教大学であるからには、キリスト教の祭りは徹底して行わなければならない」との理念を大上段に掲げ、ハロウィーンには毎年有志を募り、学祭の準備に忙しい構内を派手な仮装で練り歩いていた。そして学祭期間中にも拘わらず出校している教授や講師達の研究室に赴いては「Trick or treat!」の決まり文句を口にして、話の判る教授や講師達にお菓子を貰ったり悪戯を仕掛けたりしていたものだ。
 今にして思えば迷惑千万、とんでもないクラブではある。だ、斯く言う私も大学3年の時にそのお祭り騒ぎに参加して、話の判る教授達からお菓子を貰った覚えがあるため、彼らの行動をむやみに非難できない。また恒例の学祭前日の前夜祭が彼らの仮装のおかげで異様に盛り上がっていたのも、異論を唱えることのできない事実だ。しかしそれが未だに途切れもせずに続いているとは…。我が母校ながらその大らかな気風と度量の深さに感服せざるをえない。
「はーっきり思い出したわ。かわいいアリスのウサギの仮装をしてた俺に、どこぞの変態がセクハラ紛いの行為をしやがった時やな」
「今思い出しても、あの尻は触り心地が良かったよなぁ…」
 演技過剰な仕種でうっとりと呟く火村に、アリスは顔を顰めた。あれは今思い出しても、最低最悪のハロウィーンの思い出だ。教授達に貰ったお菓子を火村にも分けてやろうと図書館に赴いたご親切様な私を裏庭に連れ込み、こいつは好き放題に私の着ぐるみの尻を触りやがったのだ。お触りバーやエロビデオじゃあるまいし、楽しそうに尻を撫でられて嬉しがる奴が、一体どこにいるっていうんだ。いやそれ以前に、着ぐるみのウサギの尻をみて欲情する火村のスイッチの変態性が、私にはとんと理解できない。
 しかも一つ思い出したら、連鎖反応のように不快な事実が次々とアリスを襲ってきた。近場でいえば、去年のハロウィーン。せっかく作った大傑作のジャック・オ・ランタン---大阪中を探し回ってゲットしたオレンジ色の生かぼちゃ製だ---を愛でる間もなく、「お菓子が無いなら悪戯だな」とか何とか、さも当然のような言い種に押し切られてしまった。あれよあれよと言う間にベッドに連れ込まれた後の一連の行為は、絶対に悪戯じゃなくセクハラだったと自負している。毎年とは言わずとも、事あるごとに万聖節イブに爛れた関係を享受していたんじゃ、聖人様だってせつない気分に陥る違いない。
 ---今年はバック・トゥ・原点や。
 仮装をして街中を練り歩いたりパーティをやったりするのは無理でも、せめてジャック・オ・ランタンを飾って、カボチャのお菓子ぐらいは食べて、ハロウィーン気分を満喫したいではないか。いや、火村に余計な隙を見せないためにも、それ以上は謹んでご遠慮申し上げることにしよう。
「そうだな、ハロウィーンやるのも結構いいかもな」
 アリスが固い決心を心の中で唱えていた時、不埒な言葉が耳に飛び込んできた。恐る恐るというように声の主に視線を上げると、にやりと火村が質の悪い笑みを口許に刻む。
「仮装がやりたいんなら、俺が適当なやつを調達してきてやるよ」
 親切ごかした申し出に顔を顰め、アリスはふるふると頭を左右に振った。ここで下手に頷いたら、今年のハロウィーンは坂を転げ落ちて、聖人様に申し開きができない結果に陥ること請け合いだ。
「いらんわ。君にまかせたら、仮装やなくてコスプレさせられそうな気がするわ」
 言葉の意味は似たようなものでも、仮装とコスプレじゃ雲泥の差がある。変態性欲をライフワークの一つに掲げ持つ助教授ならいざ知らず、理性と常識を兼ね備えた推理作家には、その二つの間に横たわる広くて深い河を渡ることなど到底できはしない。
「去年作ったジャック・オ・ランタンがクローゼットの中に転がっとると思うから、それとかぼちゃのお菓子で十分や」
「何だよ。せっかく人がハロウィーン気分を満喫させてやろうと思ってるってのに、張り合いのない奴だな」
 ニヤニヤと不埒な笑みを表情に張り付けた言葉には、ほんの1ミクロンの説得力もない。ハロウィーンは確かに魅力的だが、それでも助教授の変態性欲に付き合ってやる程の価値は、ウイルスの大きさ程度も見いだせない。
「いやいや、君の料理の腕だけで十分ハロウィーン気分は満喫できるわ」
「ちぇっ、仕様がねぇな」
 渋々というようにアリスの言葉に同意した助教授は、ハロウィーン当日に思う存分料理の腕前を披露してくれた。かぼちゃのお味噌汁に始まり、朝昼晩とカボチャ一色のフルコース。但しそのどれもこれもが和風の料理だったのが、果たして火村の嫌がらせなのか、それとも単に彼の料理のレパートリーのせいなのかをアリスは未だに確かめることができない。


End/2000.10.31




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