Snowed us in

鳴海璃生 




 かさりと乾いた音をたてて火村はレポート用紙の最終ページを捲った。無意識の内に空いた左手の人差し指で唇をなぞりながら、ワープロ打ちされた文字の羅列を視線で追う。
 誤字脱字、または気になった箇所に赤ペンでチェックを入れながら文章の終わりの句点まで辿り着くと、書き殴ったような余りきれいとは言い難い文字で評価の点数を書き込んだ。狭いこたつの天板に並べられたレポートの山の一つに閉じたそれを積み重ね、少しだけ背の低くなった別の山から新しいレポートを取り上げた。
 指名とタイトルを確認し、表紙に指を掛ける。が、その動きを一瞬止め、火村は凝り固まったような首筋を2度3度と回した。テスト代わりに提出させたレポートの採点を始めてから、既に3時間余りが経過している。似たり寄ったりの余り出来の良くないレポートに目を通すのにも、いい加減苦痛を感じるようになってきていた。
 こんなことならテストをやった方がまだましだったかも、と思い直してみても、今では後の祭りだ。後悔先に立たずとは、先人も旨いことを言ったものだと、心の中で舌打ちする。
 うんざりしたように小さく息を吐き、潰れかけたキャメルのパッケージに手を伸ばしたところで、見慣れた茶色の頭が視界の端を掠めた。導かれるように視線を落とすと、こたつと一体化した一人と2匹がでろんとのびた餅のように身体を伸ばしている。見あたらない残りの1匹はこたつの中で伸びきっているのが、足に当たる感覚で判った。
 ---ったく。部屋の主と飼い主が仕事しているってのに。
 クスクス、ニャアニャアと異種族間でコミュニケーションを取り合っている呑気な姿に、思わず小さく舌打ちする。まぁ構わないで良い分だけ助かるといえば助かるのだが、自分は仕事をしているのに僅か数10センチ先でくつろがれていると思うと、何だかむかつく気がしないでもない。3匹の猫達はともかく、特にこの推理作家の先生には、だ。
「テスト期間やし閑やろ。遊びに来てやったで」
 そう言って、たこ焼きを片手にアリスが遣ってきたのは二日前。それ以来、レポートの採点をしたりテスト問題のチェックをしている火村の傍らで、酒盛りはするは、昼寝はするは、ゲームはするは---。遅寝遅起きの夜行性は相変わらずで、やりたい放題の手本みたいな時間を過ごしている。
「君は仕事しててええよ。俺は俺で勝手にするし…」
 なんてな台詞を殊勝---なのか?---な表情のしたり顔で言われたって、真実みは限りなくゼロに近い。だったら、少しは遠慮しやがれってんだ。
 だいたい12月を過ぎ1月になれば、大学の先生は閑になるって考えが間違っている。師=坊さんは12月だけ走ってりゃいいのかもしれないが、師=先生は1月だって大忙しなんだ。
 余り骨休めにもならない冬休みが終わって、申し訳程度の講義期間が終われば、あっと言う間に試験期間に突入する。その試験期間だって、学生はテストのある時間だけ大学に顔を出せばいいんだろうが、先生の方はそうはいかない。
 試験を受けている学生達にテスト内容の説明をしたり、監督をしたり。その合間に終了したテストの採点をして、レポートの採点をして---。
 テストの採点といっても、ものは小学生や中学生や高校生みたいな○×式とか問題集みたいなありきたりの物ではなく、全てが文章、論文形式。だからもちろん、それをいちいち読むのだって面倒くさい。中には解読可能な文字を書きやがれ!---ってのもあって、苦労の数は一つや二つじゃ到底足りない。
 そして、毎回毎回必ず数人はいる『美味しい○○の作り方』で解答用紙を埋める奴。ここは家政科じゃないってのに、何でそんなものまで読まされなきゃならないんだ。
 神経ぶち切れそうなのを耐えに耐えて、漸くテストとレポートの採点が終わったと重う間もなく、まるでその瞬間を見計らったかのようにあとに控えているのは、卒論に入学試験に追試に補講---。
「一体誰が閑だって? そりゃお前のことだろうが」
 如何に自分が忙しい身であるかをくどくど説明して、自棄になったようにそう締めくくったら、アリスはけろんとした表情で「日頃がええ加減なんやから、仕方ないやんか」と宣った。挙げ句、付け加えた台詞が「俺は普段が忙しいから、今ぐらいは閑でもええねん」だと。
 ふざけんな、馬鹿野郎!---ってなもんだが、今は怒鳴りつける時間も惜しい。のほほんと平和そうなアリスの顔を見つめ、あとで覚えてやがれ<とリベンジを固く心に誓ったのは、未だに記憶に新しい。
 ---にしたって、むかつくよな。
 火村の不穏な視線を感じ取ったのか、アリスがひょっこりと頭を上げた。それに倣ったように、アリスと遊んでいた2匹の猫も丸い眸で火村を見つめてきた。注がれる六つの眼差しに、火村は意味もなくコホンと咳払いを一つする。
「何だよ?」
「腹減った」
 ぽつりと呟かれた言葉に同調するように、2匹の猫もニャアと声を揃える。言われてみれば、確かに自分も空腹を感じる。
 レポートの山に埋もれた腕時計を掘り出してみると、時間は当にお昼を回った午後1時。現金なもので、時間が判った途端に空腹の度合いも大きくなった。
「もうこんな時間かよ」
 眉を顰めた言葉に、アリスは「よっこらせ」と掛け声をかけて起きあがった。
「何か適当に作るわ。君は仕事続けとき」
 慣れた足取りで台所へと向かうアリスの背中を見つめ、珍しいこともあるもんだ、と息をつく。これが夕飯なら、多少の不安も覚えるところだ。だが昼飯程度なら例えアリスの腕前でも、まぁそれなりの物が食べられるだろう。
 ---あぁ、そういや…。
 テスト用紙に書かれていた『美味しいカレーの作り方』だの『手間なくできるあったか鍋料理』だの『独り暮らしのための簡単料理』だののコピーを、アリスに持って帰ってきてやれば良かった。そうすれば、一向に上達の兆しをみせないアリスの料理の腕も、少しは向上するかもしれない。
 調子っぱずれなQueenを背中越しに聴きながら、火村は妙に分厚いレポートの表紙を捲った。

◇◇◇

 アリスが作った昼食のうどんを食べて、気分転換代わりにと後片づけは火村がやった。アリスに食事の用意をさせるのはいいが、台所がめちゃくちゃになる---事実シンクの中には、鍋が二つにざるが一つ。菜箸に包丁etc.と、食事の支度に使った調理用品の数々が無造作に放り込まれていた---とうんざりしながら、火村は手際良くそれらを片づけていった。
 食後のコーヒーを両手に部屋へと戻ると、満腹状態の3匹と一人は既にこたつの中でお昼寝に突入していた。
「おい、食事のあとにすぐ寝ると牛になるぞ」
 口にした有り難い先人の言葉も、彼らには馬耳東風。子守歌程度の価値も無いらしい。呑気そうな寝顔を見つめ、火村は小さく溜め息をつく。穏やかな寝顔は、ある意味平和の象徴みたいなもんだ。
 ---まっ、いいか。
 運転している隣りでスヤスヤと寝息を立てられるのと類似的な憤りは感じるが、煩くまとわりつかれて仕事のじゃまをされるよりはずっといい。音をたてないように気をつけながら手にしたマグカップをテーブルの上におき、火村はレポートに向かうべく腰を下ろした。
 とその時、突然部屋の隅からくぐもった音が響いてきた。
 不意をつく電話のコール音は、時として言いようのない不快感を感じさせる。「今から鳴りますよ」と告知してから鳴り始める電話などありはしないのだから、突然鳴り出すのは致し方ない。だがそうと判っていても、その時の気分や状況によっては思わず眉を潜めたくなる時も多々あるものだ。
「う‥ん…」
 電話の音に反応して、アリスが微かに身動ぐ。火村は小さく舌打ちして、本の山の中に埋もれかけた受話器を取り上げた。電話の相手に向かって返事を返す前に、ちらりとアリスの方を振り向く。3匹と一人の穏やかな寝息は相変わらずで、火村は小さく安堵の息をついた。
「お待たせしました、火村です」
 幾分押さえた声に応えを返してきたのは、大阪府警捜査一課警部の聞き慣れた声だった。フィールドワークの誘いだろうか、と一瞬身構える。だが大らかな声の主が告げてきたのは事件へのお誘いではなく、以前火村が頼んでいた資料についてだった。
『火村先生が仰っていた資料が全部揃いましたので、もしお時間がお有りでしたらいらっしゃいませんか』
 明るい声での誘いの言葉に、火村は受話器のこちら側で緩く首を傾げた。ついで、こたつの上のレポートへと視線を移す。
 山と積まれたレポートは急ぎではあるが、今日明日に採点する必要があるわけでもない。それに今日なら、頼んだ資料に関係する事件の担当刑事も一課の方に詰めているという。
 それは、火村にとっては魅力的な言葉だった。ただ単に資料を見るのと事件を担当した刑事から話を聴くのとでは、大きな違いがある。
『珍しいことに<今のところ我々が呼び出しを受けるような事件もありませんし、如何ですか?』
「---そうですね。それじゃ、これからお伺いします」
 『お待ちしています』という船曳警部の言葉に小さく頷き、火村は受話器を置いた。
「さて、と…」
 背伸びをするように立ち上がり、昼寝に勤しむアリスへと視線を落とす。呑気な寝顔を見つめながら、起こして連れて行こうかどうしようか、と一瞬迷う。が、フィールドワークというわけでもないし、唯単に資料の閲覧だけの用件に連れて行っても退屈するだけだろう。船曳班の刑事が本部の方に詰めているらしいので、アリスの退屈した様子を見れば森下刑事あたりが適当にアリスの話し相手になるかもしれないが---。
「まっ、せっかく気持ち良く眠ってるのを起こす必要もねぇな」
 暫くの間アリスの寝顔を見つめ逡巡していた火村は、そう結論づけると鴨居に掛けたコートの方へと歩み寄っていった。ポケットの中に車のキーが入ってるのを確認し、チッと小さく舌打ちする。
 愛車のベンツはここ数日暖房の調子が悪く、馴染みの修理屋に入院中だった。2、3日はレポートの採点に掛かりきりで、ベンツの出番はないだろうと、単純に考えてたのが裏目にでた。大学に行く程度なら車がなくても困らないが、さすがに大阪までとなると車無しにでは足の便が悪い。
 ポケットの中でチャリチャリと鍵束を弄んでいた火村は、ごろんと寝返りをうったアリスの顔を見つめニヤリと口許を緩めた。まさに絶妙のタイミングというか、大阪在住の推理作家はおんぼろの青い鳥で京都へと遣ってきていたのだ。
「おい、アリス。車借りるぜ」
 寝顔に向かって低い声で呟き、火村は隣りに掛けられたアリスのコートのポケットからファンにプレゼントされたというマンボウのキーホルダーを取り出した。
 走り書きのようなメモを残し、陽が陰った窓のカーテンを閉める。隣りの部屋から持ってきた毛布をアリスと猫達に掛け、火村はそっと部屋をあとにした。玄関でちょうど買い物から戻ってきた婆ちゃんと出会い、今から大阪まで行って来る旨を告げる。
「有栖川さんも来てはることやし、今夜はおでんでもしましょ」
 婆ちゃんの夕食の誘いに軽く頷き、火村は外へと踏み出した。視界の先には、朝方の晴天が嘘のような灰色の雲が重くたれ込めている。頬を撫でる北風に小さく身を竦め、火村は足早に車へと向かった。

◇◇◇

「さむ…」
 ひんやりとした空気に小さく身を震わせ、アリスはゆっくりと眸を開いた。子供のような仕種で目蓋を擦り眇めるようにして見つめた視界の先には、ダークグレイの闇が広がっている。
 どうやら昼ご飯を食べたあとに、カチャカチャという後片づけの音を聞きながら眠り込んでしまっていたらしい。自分ではそんなに長時間眠っていたつもりもないのだが、部屋の中の様子から察するに結構な時間を昼寝に使ってしまったようだ。
「火村…?」
 肩肘をつきゆっくりと半身を起こし、小声で部屋の主の名を呼んでみる。だが、期待したバリトンの声は返ってはこない。ひんやりと冷えた空気にも灰色に染まった家具にも、アリス以外の人の気配は感じられなかった。
「婆ちゃんとこにでもいるんかいな」
 ふわぁと大きな欠伸を零し、アリスは伸びをしながら起きあがった。テーブルの上には、なみなみと注がれたマグカップが二つ。火村がぶつぶつと文句を唱えながら採点をしていたレポートは、眠る前に見た時のままの状態でテーブルの端に積まれている。そして---。
「何や、これ?」
 灰色の闇の中で目を凝らすようにして、ぽつんと置かれたメモの文字を見る。見慣れた字で書かれたそれには、<大阪府警に行って来る。車借りた>の素っ気ない文章。慌てていたのか、それとも面倒くさかったのか、走り書きのような文字は判読可能のギリギリ限界というところだ。
「何や、フィールドワークなんか。やったら俺も起こせばいいのに…」
 いつの間にか掛けられていた毛布にくるまるようにして、ブツブツと文句を零す。その声に反応したのか、アリスの隣りで眠っていた3匹の猫が煩そうに半目を開けた。
「ああ、ごめん。起こしてもうた? でももうそろそろ夕飯やから、ちようどええよな」
 さて夕飯はどうしようか、と頭を捻った時、階下から婆ちゃんの声が聞こえてきた。ピクリと耳を動かした猫達が、一目散にドアへと向かう。ドアの前で「開けろ」とでも言うようにニャアニャアと合唱する3匹に苦笑を漏らし、アリスはゆっくりと立ち上がった。
「何、婆ちゃん? 何か用?」
 トタタタタと軽い足取りで階段を下りていく猫達に続き、階段の手摺り越しにひょっこりと顔を覗かせる。そのアリスに向かって、婆ちゃんは柔らかな微笑みを返してきた。
「そろそろお夕飯にせぇへん?」
「えっ。もしかして婆ちゃん、夕飯作ってくれたん?」
 思いがけない夕飯のお誘いに、アリスが満面の笑みを作る。その様子を、婆ちゃんはニコニコと笑って見つめた。その表情は店子の友人に対するというよりは、まるで息子か孫にでも向かっているかのように柔和な表情だ。
「今日は寒うおすから、おでんにしましたんや。火村さんも一緒にと思うたんやけど、遅うなるから先に食べておいてって、さっき連絡貰いましたわ」
「あいつ、婆ちゃんのとこに連絡入れてきたん?」
 階段を下りながら、アリスが呆れたような表情を作った。自分が部屋にいることは判っているのだから、わざわざ婆ちゃんの手を煩わさなくてもいいのに、と思う。
「有栖川さんはまだ寝てるやろうから…、って言うてはりましたえ」
 コロコロと笑う婆ちゃんに、アリスは罰が悪そうに頭を掻いた。まさしく火村の言うとおり。たった今まで眠っていたのだから、反論の仕様もない。
 エヘヘと照れたような笑いを零しながら、猫達のあとを追い婆ちゃんと一緒に居間へと入る。中央に設けられたこたつには、沸々と湯気をたてる鍋が置かれている。ふわりと暖かい空気に包まれ、アリスはうっとりと微笑んだ。
 婆ちゃんと3匹の猫と共に、暖かい料理の数々に舌鼓をうつ。今日は冷えるから、と婆ちゃんがつけてくれた熱燗は、冷えた身体をゆっくりと溶かしていくかのようだ。
 近況や年末に火村と行った東京での様子を面白可笑しく話ながらの食事は、久し振りに家族の暖かさを感じるものだった。ニコニコと楽しそうにアリスの話を聴く婆ちゃんの様子に、箸の動きと一緒に話も弾む。時折なかなか帰ってこない火村のことが頭の片隅を掠めていったが、子供でもないし、早々心配する必要もないだろう。
 もうこれ以上御飯の一粒も入らないというぐらいに腹に詰め込み、お茶を飲みながら話していると、古い柱時計がボーンボーンと時を経た重々しい音で時を告げた。楽しい時間に時の流れも忘れていたが、柱時計の報せる時間は既に午後10時。すっかり満腹でお腹をポコンと膨らませた猫達は、満足げな表情でこたつ布団にくるまっている。
「火村さんの分は上に持っていってたらええわ」
「ありがと。---ご馳走様でした。めっちゃ美味しかったわ」
 台所へと向かう婆ちゃんの背に「おやすみ」と軽く挨拶を口にしたあと、アリスは婆ちゃんが小降りの土鍋に移してくれたおでんを手に火村の部屋へと戻っていった。こたつの中に潜り込んだ桃を残した2匹の猫達が、トテトテと軽い足取りでアリスのあとに付いてくる。
 ドアを開けると同時に、ウリとコォは一直線にこたつへと向かう。催促するようにニャアと鳴く2匹に笑いながら、アリスは部屋の電気を点け、こたつの電源を入れた。手にしていた土鍋を台所に置き、部屋へと戻ってきた時には、ウリ達の姿はこたつの中へと消えていた。
「よっこらせ」
 年寄り臭い言葉を口にしながら、こたつの中に足を伸ばす。爪先に当たる柔らかい感触に小さく笑みを零しながら、アリスはほっと小さく息をついた。風呂に入ろうか、それとももう暫く火村を待ってようか…と逡巡した時、部屋の電話が突然自己主張を始めた。
 焦ったようにキョロキョロと部屋の中を眺め回し、音の元を探す。机の前に積み上げられた本の山の中からその音が聞こえてくることに気づき、アリスは慌てて音のする場所へと這っていった。
「隠してるんかいな。---はいはい、今出るって」
 乱暴に本の山を崩し、アリスは目的物から受話器を取り上げた。
「はい、ひむ---」
『俺だ』
 返事を遮るように、聞き慣れたバリトンの声が受話器越しに響いてきた。その声に、アリスは呆れたように小さく息を吐く。
「何が俺や、や。君、一体何してんねん? そんなに面倒くさいフィールドワークなんか?」
 少々声が尖るのは、ご愛敬ってもんだ。何せ置いてきぼりにされた---しかも勝手に車も使われているし---のだから、愛想を振りまいてやる必要など微塵も感じない。
『残念ながらフィールドワークじゃねぇよ』
 口調でアリスの機嫌の位置を微妙に察した火村が、苦笑と共に応えを返す。
『船曳警部に、頼んでいた資料が揃ったって連絡貰ったんだよ』
「何や、そうなんか」
 気が抜けたようなアリスの声に、火村の苦笑が鮮明になる。口調一つとっても判りやすい奴だと、火村は口許の笑みを深くした。
「たかだか資料見せて貰うだけなのに、何こんな遅うなってんねん。いつまで待っても帰ってけぇへんから、婆ちゃんのおでん全部喰うてもうたで」
 ふざけたようなアリスの言葉に、火村はやれやれと溜め息をついた。自分だとて、まさかこんなことになろうとは思ってなかったのだ。しかもアリスの口調から顧みるに、アリスは今現在の状況にまるで気づいてないらしい。全く呑気な奴だと呆れると同時に、そののんびりさにどこか尊敬にも似た念が湧く。
「まさかとは思うけど、もしかしてまだ府警におるん?」
『いや、もう府警の方での用事は終わった』
「やったら呑気に電話なんてしてへんで、とっとと帰ってこいや」
 少しだけ声を上げたアリスに、火村は受話器の向こうで小さく肩を竦めた。こんな状況でなければ、自分だとて帰りたいのだ。
『おい、アリス』
「何や?」
 低い呼びかけに、アリスが幾分怒ったような口調で返事を返してくる。それを気にした風もなく、火村は言葉を続けた。
『お前、テレビ見てねぇだろ』
「テレビ?」
 へんなことを言うと首を傾げながらも、アリスは火村の言葉に律儀に返事を返した。
「そんなん見てへん。ついさっきまで、婆ちゃんと御飯食べてたもん」
『だと思ったぜ。だったら、ちょっと外見てみろよ』
 意味不明な火村の言葉に眉を寄せながら、アリスは受話器を畳の上に置いた。本の山を避けるように窓に近づき、言われた通りにカーテンを開け外を見る。その瞬間、アリスの口から驚愕に満ちた声が上がった。
 窓の外にあったのは、闇の中に白く浮き上がった景色。庭の植木にも木戸の屋根にも、そして門の向こうの道にも清冽な白い雪が積もっていた。それも、うっすらなんて軽いものじゃない。どう少なく見積もっても20センチ以上はあるという大雪だ。しかも藍色の空からは、ぼたんのような大きな雪の欠片がひっきりなしに舞い降りてきている。
 朝はあんなに天気が良かったのに、一体何時の間にこんなことになったんだ?
 唖然とした表情で窓の外の景色を見つめるアリスの耳朶を、受話器から響いてくる火村の低い声が掠めた。
「火村ッ! 一体なんやねん、これっ」
 畳の上に置いた受話器を取り上げ、思いっきり送話口に向かって声を上げる。それに応えるように、受話器の向こうからはクックッと小さな笑い声が響いてきた。
『つまりこういうわけで、帰りたくても帰れねぇんだよ。高速通行止めになってるし、電車も間引き運転か不通だ。それにお前、チェーンなんて持ってねぇだろうが…』
 府警を出た途端の大雪にびっくりした火村は、慌ててトランクを開けチェーンを探した。だがトランクの中にあるのは、何の役に立つのか首を傾げる物ばかり。肝心のチェーンの姿は、どこにも見あたらなかった。
 仕様がないのでノロノロ運転で何とか夕陽丘まで辿り着く間にも雪は益々酷くなり、あっと言う間に高速は通行止め。それじゃと思った電車も時間を待つことなく、間引き運転や不通になってしまった。
「やって、チェーンなんて必要ないもん」
 ぽつりと呟いたアリスに、火村は小さく息を吐いた。雪山や北国に行くわけでもないし、確かに通常の大阪の気候であればチェーンは必要ない。だがだからと言ってチェーンを車に積んでいないというのは、大問題じゃないか?
 もっとも運転音痴を自認するアリスが、雪の日に車を運転するような無謀を働くとは到底思えないのだが---。
『まっ、そりゃそうだな。とにかくそういう訳で今日は帰れねぇから、お前んちに泊まる』
「判った。冷蔵庫空っぽやけど、冷凍食品とカップラーメンはあるから…」
『お前んちの食糧事情に期待しゃいねぇよ』
 笑いながら、火村は電話を切った。不通和音が鼓膜を振るわせるのを確かめ、アリスは受話器を置いた。こたつ布団から頭を出したコォが問い掛けるように、小さく鳴く。
「火村、今日は帰ってこれへんねんて」
 苦笑しながらコォに向かって話し掛ける。こたつに足を突っ込み小さく息を吐くと、シンシンと降り積もる雪の音さえ聞こえてくるようだ。
「---もう寝ようかな」
 宵っ張りのアリスにとっては、まだ寝るには早い時間だ。だが火村が帰ってこないのなら、起きて彼の帰りを待つ必要もない。それに一人でぼんやりと時間を過ごすのは、何となく時間の無駄のような気がした。風呂にもまだ入ってないが、何だかそれも面倒な気がする。
 下に降り風呂の仕度をしていた婆ちゃんに、雪で火村が帰れない旨と風呂に入らず眠る旨を告げて、アリスは火村の部屋へと戻ってきた。置きっぱなしのパジャマに着替え、こたつの中から2匹の猫を抱え出す。部屋の電気を消し冷たい蒲団の中に潜り込むと、ウリとコォが両脇から身を寄せてきた。
 柔らかな温もりを両腕に抱き、ほっと息をつく。雪の夜はいつも以上に静けさが際だつが、今日はまるで静寂が鼓膜をピリピリと打つように感じられる。空気の色さえ変えるようなシンとした静けさに、アリスは小さく苦笑した。
「何かへんな感じやなぁ…」
 火村の部屋に泊まったことは数え切れないほどだが、主のいない部屋で一人眠るのは今日が初めてのような気がする。それを寂しいと感じる年齢でもないが、どこか奇妙な違和感は拭えない。
「君らも俺もいてへんから、火村は寂しく独り寝やな」
 今ここにいない主の代わりとでもいうように身を寄せてくる2匹の猫に、そっと呟く。掛け布団の中に潜り込むように身体をずらすと、馴染んだ匂いが鼻孔を掠めた。
「おやすみ、火村」
 静寂を壊さないように、そっと囁く。どこか懐かしさと安寧をもたらすキャメルの香りに包まれ、アリスはゆっくりと目を閉じた。


End/2001.02.09




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