最愛の母の死について
平成22年1月23日


仕事のことを中心にふりかえってきたが、昭和51年の4月に68歳で膵臓癌で他界した母のことを触れておきたい。亡くなるまでの経緯を簡単であるが、まとめてみることにした。こういう記事は不適切かもしれないが、やはりしっかり残しておきたいと思い書くことにした。


◆発病
昭和45,6年頃から血圧が高いとの事で、某診療所で定期的に診断を受けていたが、処方された薬の種類の多い事に驚いた。 それを母はきちんと指示通り服用していたが、昭和49年初めより体調不良を訴えて精密検査の結果は「癌」であると診断された。
この診療所では入院設備がないから、某大病院に行くようにとの指示があったので、早速その病院に
行って入院を御願いしたら「満室、空きベッドなし」とあっさり断られた。診療所の医師にその旨を話したが、「そうですか」で冷淡そのもの。困り果てて知人に相談したら、「医師に謝礼を払って紹介状を書いてもらう事。次に病院の方にも何がしかの物を包んで御願いに行く事をしなければ駄目だ」と教えられた。 勿論之は当時の話で現在の事ではありませんので誤解しないで下さい。早速その様に準備してその病院に行って御願いしたら、「ベッドが空き次第連絡する」との返事で、安心してその連絡を待っていたが、なしのつぶて。たまりかねて、高校時代の同級生で同じ名古屋大学に入り振風寮でも同室で過ごしたY君がM病院の外科部長をしている事を思い出して彼に連絡したら即座に検査して病状を確認するから入院せよとの段取りをしてくれた。地獄で仏とは、まさにこのことを言うのだろうね。

j◆入院と手術
早速49年の9月2日に入院して精密検査の結果、9月17日に彼が中心になって執刀手術となった。 2時に手術室に入り待機していたら、3時半に彼が手術着のまま出てきて「残念ながら膵臓癌で既に方々に転移して見込みなし。 長くても年末までであろう」との結果を説明してくれた。 この段階で真相は母には勿論母の兄弟姉妹や親類にも一切伏せて、胃潰瘍らしいで押し通す事に決心した。

◆奇跡の治療
手術後彼からこのままだと確実に癌が転移して年末まで保たないかも。しかし今ドイツから抗癌剤としての新薬が出てきた。この新薬を使用してみたいとの相談があった。このままでは年末なんだから、駄目でもともとだと了解して早速彼がこの新薬の投入を開始したら、順調に体力回復して10月5日に一晩だが帰宅を許された程病状が良くなり10月29日に退院できる所まで回復。彼もこの新薬の効果に驚いて、学会の事例報告に使いたいと喜んでいた。このお蔭で昭和50年のお正月は自宅で家族全員でお祝い出来たし、その後も彼の定期検診を受けて昭和50年の一年間は、自宅で元気に過ごす事が出来、5月には母の郷里の信州伊那谷へ車で行き兄弟姉妹や親類と1週間ほど過ごして帰宅した位。
ただ私の心中ではこれが最期の日々になるだろうと覚悟はしていたが、その後の様子を見ていると『膵臓癌」なんて誤診じゃないかと錯覚させる位治療効果が続いて家族全員と平穏な日々を過ごす事が出来た。

◆再発入院  他界
しかしその間にも執念深い癌は密かに転移を続けていて、昭和51年に入ると段々食欲が無くなり、体調不良を訴える日々が増えてきた。 病院の彼に相談の結果2月中旬に再入院して様子を見る事にしたが、彼からは「覚悟する様に」と教えられた。そして遂に4月24日朝68歳の生涯を終えて他界した。
25日の葬儀の日、庭の八重桜が満開であった事を覚えている。もう今から34年も昔の事だが、同級生のY医師の治療効果で三ヶ月が一年以上も永らえる事が出来た事、当時まだ5歳だった息子を抱えて朝から夜まで私と交代するまで頑張ってくれた家内、病名を最期まで胃潰瘍だとして頑張りぬいてくれた
事等々思い出せば本当に多くの方のお助けを頂いたと感謝の念で一杯です