【出戻り営業部編】新任課長として着任
平成21年9月13日


輸出を取り巻く環境の変化
 思い出話4で書きました様に昭和36年に突然社長から資材部行きを命令され、あっちでヘマ、こっちでポカをやりながら、それでも何とか廻りの皆なに助けられて10年以上の経験を積む事が出来ました。と同時に目立たぬよう、ばれぬ様に息抜き方法を上手に使える様になったベテランで昭和50年(1975)を迎えました。

ドルショック  
 その頃の輸出営業部は昭和36年の私の居た営業部とは全く様変わりして、当時主任だったAさんが営業部長として、部下は全員大卒の新進気鋭のバリバリばかりで社内でも注目されていた部門に発展していた。
昭和46年の8月当時のニクソン大統領が発表したドル:金交換停止の経済処置は所謂「ドルショック」として世界中を震撼させ、円も360円から一挙に260円台の円高に激変した。 この円高による輸出目減り、さらにそれに伴う予想利益激減の穴埋めをするため、販売価格の値上げと同時に全ての購入品目の価格見直しがあって、資材部も取引先にかなりの無理を御願いした覚えがあるが、ドルショックの嵐をまともに受けた当時の輸出営業部の方は本当に苦労されただろうと想像した。

オイルショック
 このドルショックの嵐が収まる前に、昭和48年の10月アラブ諸国の原油問題から今度は「オイルショック」の第二波が押し寄せてきた。 一部経済界とマスコミの策謀で「物資不足」が煽り立てられて、庶民はあらゆる物を手当たり次第買占めする行動に出て、店頭から一時は殆どの物資が消え失せてしまった現象が発生。記憶に残っているのは、10月にはその冬の工場暖房に使用する燃料を工場地下タンクに満杯にしなければならなかったが、大手石油業界は値上がり必至とみて末端の販売店にタンクローリーを回さず在庫を温存したので、末端の販売店の在庫はあっという間にカッラッポ! 在庫を持っていた店で、この時とばかり値上げしてしこたま儲けたとの話も聞いたが、有難い事に当時の取引先はそんな事は決してしなかったが、在庫の無いのには本当に往生した。 しかし10年以上資材部で仕事していると、色々な情報があっちこっちから伝わってくるもので、会社のトラックにドラム缶を積んで、某所に行ってそこのタンクから手回しポンプでドラム缶に補給して工場に戻り今度はそのドラム缶から工場の地下タンクにまた手回しポンプで給油する作業を何度やった事か、有難い事に当時の資材部の現場メンバーは実にまとまっていて、燃料が手に入るぞと電話が鳴った途端に手空きのものがすぐトラックに乗って頂きに行く、現場での作業終了間際に公衆電話より工場着の予定時間の知らせが入る、待機していたメンバーが今度は交代してトラックのドラム缶から地下タンクに給油をする、それが殆どが夕方に取りに行って地下タンクに給するのは夜8−9時頃と相場が決まっていた。この手回しポンプは一見楽そうだがやってみると、その重たい事と時間が掛かる事、翌日は肩が相当痛んだが、若手が私がやりますと言って率先して作業をやってくれて私は大助かりだった。 こんな作業の繰り返しを年末までやって、何とか工場の暖房を稼動させて現場の皆に寒い思いをさせなかった記憶が今でも鮮明に残っている。このオイルショックで、トイレットペーパーを一年分を一挙に買い込み、その処置に困って又もとの店に買い取ってくれと泣き込んだ人がいたとか、風評に踊らされた庶民こそいい面の皮だった。

輸出の販路拡大
このオイルショックは、単に物資不足という「流行性はしか」と違って、原材料の価格に大きな影響を与えて当時輸出の主力市場であった欧米への輸出が激減する現象が発生した。 そこで営業部としては未開拓市場であった中近東、東南アジア 南米諸国への積極的開拓を計画して、営業部長が先頭にたって各国を行脚して、輸出拡大の橋頭堡作りに奔走された結果欧米での不振をカバーして200億円以上の売上げを達成。そこで今後の輸出拡大のために 営業部を欧米以外を中心とする輸出営業課ほか製品別の三課の四つに再編成して、米国 欧州とそれ以外の市場の三本柱で運営する決定が為された。真偽の程は不明だが後日聞いた所によると、製品三つの部門の責任者は生え抜きの営業部のメンバーの中から選ばれて問題なし、ところが輸出営業課は、これから海の物とも山の物とも分からない未開拓の市場を狙わなければならない、さらに国内の大手商社とも交渉してその商社が利権を所有している国に対する輸出商談もしなければならない、 所謂「千畳敷きのOOOOをぶら下げている古狸」でなければ駄目だろう、ああそれなら昔営業に居たH君は今資材部の古狸でのうのうとしているから、あいつを引っ張ろう、 知らぬは本人だけ!
昭和50年4月某日、営業部長自ら私の所に来られて、H君 5月末から営業部に来て貰う事に決めたからとの話で、嫌も応も無く一件落着、チ〜〜ンでお仕舞。私がゴチャゴチャ言う前に資材部長や関係者には全て根回し済みでありました。 兵隊は辛いものですな、糸の切れた凧みたいに何処に飛ばされて行くのかさっぱりわかりましぇ〜〜ん。

新任課長が受けた”氷の微笑”の歓迎
今までの思い出話の中で販売会社より製造への異動やその後の異動について書きましたが、共通して言えるのは、殆どの方が、暖かく迎えてくれて、不慣れな仕事もこっそりと裏から支えて頂きました。 そんな事で今度の輸出営業課への異動も昭和36年の主任さんが現在の営業部長であり、その当時の仲間もいる事だしと気楽トンボで異動しましたら、これがとんでもない誤解、思い込みでした。当時の営業部員は全員大卒で英語はもとより、ドイツ語フランス語スペイン語中国語からアラビア語まで堪能な連中ばかり、英語なら多分英検一級かTOEIC800点以上で、日常会話に外国語が飛び交うのは当たり前で、国際電話も国内電話みたいに意思疎通が出来る、将に俺はエリート中のエリートだという強烈な雰囲気が充満していた。さらに生え抜きの課員の仲には、輸出営業課長は私がと密かに自負しておられた方も居た、そこへ昔居たかも知れないが、他所から来た古狸がいきなり課長として来たのだから、心中穏やかならざる課員もいた筈で赴任早々机の上に横文字ばかりの書類をドッサと置いて

  「課長、決裁願います」。
   「明日XX商社で商談です」


とその日から強烈なお迎えを頂いた。
まさにお手並み拝見致しますの「氷の微笑」で迎えられたのには本当に魂消た。今までの家族的な暖かい雰囲気を期待していただけに、この落差は大きかった。え? それでどうしたかって?答えは簡単。決済書類は 読んで理解出来次第決済する。急ぐのなら内容の説明を先にしなさい。商談?経緯もわからない商談には出席しない。出席必要なら事前に経緯説明しなさい。とぼけて放り出して置いたら渋々説明に来た。やっぱり俺は古狸であると自覚したね。しかしこの氷の微笑の経験は後日大いに役立った。年功序列で肩書きがくっついて来て、私が新人や異動の連中を迎える立場になった時、受け入れ部門の長や部員に絶対に「氷の微笑」で迎えるなと具体的に指示する事が出来た。生え抜きで一度も異動の経験が無い人には分かり辛いだろうが、一度でも異動を経験した人はその移動先の受け入れ態勢次第で大きな影響を受けた経験があると思います。