【出戻り営業部編】はじめての海外出張
平成21年9月13日


輸出営業部の雰囲気
 昭和50年の6月から輸出営業部の営業課長として赴任したが、既述の様にその時の営業部は全員新進気鋭のメンバーばかりで部長を中心にして世界中を飛び回って海外出張は国内出張となんら変わらずの雰囲気で、まだ海外経験のないのはこの新米古狸課長だけであった。
赴任早々から大阪東京を中心にした輸出商社への挨拶回りに追われると同時に欧米以外の各国への輸出の現状把握等で毎日が戦争状態、朝7時過ぎ出社して、入ってきた海外からのTELEXを斜め読みし商社からの引合内容のチェックや決済書類に目を通しているともう夜7−8時になっていた。時には昼飯を食い損ねて女子職員にこっそり「パン」を買って来て貰い炊事場で5分間で飲み込む。もちろん、この当時はコンビニなんて便利なものは無かったので、こんな事は日常茶飯事であった。 そのお蔭でパン食が平気になり、昼飯抜きでも我慢出来る訓練?が出来たと思っている 。そんなこんなであっという間に7月8月が過ぎていったある日、部長から突然メキシコへの出張命令が出た。当時の資料をみると、中南米の市場は部長と課員が一緒になって市場開拓されてその結果将来の有望輸出市場である事が確認されて、中南米に対する
輸出も順調に実績が挙がってきた。所が好事魔多しで貿易関税等日本からの輸出を制限、不可能にするような規制が作られた、このまま放置すると折角開拓した市場を失う事になるので現地に組み立て工場を作って主要部品と指導員をこちらから送ろうとの計画が進められた。それも時間との競争ですぐ手を打つ必要があった。偶然にしてはうますぎる話だが、営業部は海外出張に日本航空を頻繁に使用していた、その見返り? としてメキシコまでの無料航空券が営業部に届けられた。後は誰を派遣するかだけ。
メキシコ出張の目的

この営業部で海外経験の無いのは私だけで部長も武者修行の意味で私に出張を命ぜられたのだと理解したが、その内容を聞いてびっくり仰天! 
現在取引中の相手と工場建設についての打ち合わせ
建設に対して相手の信用状態のチェック
をしてこいとの内容。 
確かに物見遊山でない事はわかっていたが、工場建設の知識は 全くないし、第一その取引先の社長に会った事も無い。勿論スペイン語なんてゼロの状態、古狸かもしれないが、メキシコではすぐ「化けの皮」がはがれる、えらいこっちゃ! 廻りの経験豊かな課員は、この新米古狸課長どうするか、お手並み拝見との立場でみている、そうなるとこっちも半分やけくそで、 ハイわかりました、行ってきます。 さあそれからが大変だった、工場建設なんてチンプンカンプン、しかしここで資材部で 方々で油売って作った人脈が大活躍、技術部に行ってそこの課長にかくかくしかじかで 助けてくれと言ったら、すぐ工場建設に関するベテランを紹介してくれて、彼から貴重なアドバイスを一杯貰う事が出来た。 思いがけぬ接点で建設の事は目鼻がついたが肝心の相手については企業内容どころか顔すら知らない有様、そこで東京の日本側代理店の社長を訪問して御願いしたら懇切丁寧にメキシコ側の情報を全てと言って良い位教えて頂いた。この社長は後年体調を崩されて引退されたが今日までずっと交流が続いています。 社長からメキシコの社長の写真を一枚頂いた。初めての外国の空港で会った事もない人とうまく合流出来るか、お楽しみ!の筋書きです。

さあ出発
昭和50年(1975)の9月17日、定刻どおり会社に出て午前中会議や書類チェックで 終わり2時の新幹線で東京経由羽田に向かった。 空港チェックインするまで同僚のA君が迷子防止の為名古屋から付き添ってきてくれたがこれは大助かり! 広い羽田空港の中でメキシコ行きはどのゲートから出るのか、出国手続き全て彼が教えてくれたのでウロウロせずに済んだ。日本航空#012に搭乗勿論エコノミーの端っこであります。


18:30定刻通り離陸、そこから太平洋を横断して8時間後バンクーバーに着陸、給油とエンジン整備で90分空港の中をうろうろするだけ、しかし初めて見たバンクーバー空港のだだっぴろい事! これに較べると羽田なんかまるで箱庭空港の感じだ。 再搭乗するのにテクテク飛行機までしっかりと歩かされた。そんな風景の写真が残っていましたので見てください現地時間11:10離陸して一路南へ南へと飛び5時間か6時間後メキシコ時間18:45に着陸。 本当にロングロングフライトでした。

蛇足:日本航空の事
昭和50年代から60年代なかば頃まで、日本航空は世界一のエアラインであった。残念ながら既に過去形) 当時の客室乗務員(スチュワーデス)は、全員がピカピカの 美人ばかりで若い女性の憧れの的でありました。 長い飛行時間で食事も腹一杯読書も飽きた、寝るのもどうか、そんな時に残されたのは美人の彼女達を眺めて楽しむ (不心得者だなんて言わないで下さい) その頃のスチュワーデス達は本当に美人揃いで他のエアーラインより群を抜いてトップクラスでありました。日本航空は世界の航空機の
中で最も墜落事故の少ない安全No:1の航空会社と評価されて、我々ものるならJALと決めていましたが 安全と同時に「目の保養」も出来た事も選択の理由のひとつです。当時の彼女達は立居振る舞いから話す言葉まで実によく訓練されていて、現在の乗務員 とは隔世の感があります。 現在は乗務員だけでなく会社そのものも破産会社に近くフラグシップの旗が恥ずかしくなる変わり様で悲しくなる位残念です。