【出戻り営業部編】盗難騒ぎ顛末記(メキシコにて)
平成21年9月26日


部品の盗難
  現地での組立工場の建設が終わって、日本側から技術指導員が行き現地採用の従業員に対しての技術指導が開始され、双方の努力の結果予想以上に早く技術習得レベルがあがって、テスト組立も順調に進み、これなら量産体制もOKとの見極めが付いたので、日本側より大量の組立部品や冶工具がメキシコ側に発送された。 現地での通関も終わって工場に部品が搬入されて、さて組立開始、その段階で通関の時にはあった部品の一部がゴッソリと紛失しているのが発見された。その部品もネジ類とかクランク軸とか、全く一般では需要の無い部品で犯人は手当たり次第盗んだ可能性があった。工場内では組立ラインが停止しているので一体どうしてだ、何故だと現地警察も介入して大騒ぎやったがらちあかず。
現地からのSOSで,取敢えず紛失部品を航空便で送った。所がその後の便でも部品が紛失するケースが続発したが、部品は意外な所から発見されたとの連絡が来た。世界各国の繁華街には不思議な位「泥棒市場」と称するゲテモノ探しにはうってつけの市場があるが、メキシコ市内にもそれが存在した。ある日従業員の一人が泥棒市場を見物していたら、紛失した部品がそのまま未開封で売りに出ているのを発見、すぐ警察と共同して物を差し押さえたが犯人逮捕には到らなかった。そんな事件後泥棒市場には紛失した部品は出なくなったが、盗難は小規模ながら続いていたらしい。ある時外部の人間からこの部品を買ってほしいと売り込みがあった。 それを見たら盗まれた部品ではないか !即座に取り押さえられたが、尋問の結果、従業員が盗んで、それを外部の人間に委託して売って、その収益を分配していたらしい。 だが肝心の盗んだ部品が特殊用途で汎用性が無く泥棒市場でも買い手が無くて、そのうちに売り手の者が他の者にその販売を依頼すると行った二重三重のルートが出来たらしい。その内の一人が盗まれた物と知らずに、こんな部品は最近新しく出来たあの工場に売り込みに行けば買ってくれるかも、と来たのが運のつき。 そこから芋蔓式に犯人全員が逮捕されて一件落着となったが、他所の会社でも何でも良いから金になる物を盗んで売る、それがばれてもともと、至極当然の様に犯行が行われている事を聞いて愕然とした。 貧富のさの大きすぎる事が原因でしょうね。

私は通訳ではありません!ときつい一言のおかげで・・・
メキシコでの社長との会話は英語で行われたが、6月に営業部に行って三ヶ月で英語が 上達するはずが無い、自分自身の英語力のレベルは充分承知しているので、一計を案じて、日本を出る時にポケットサイズのテープ式録音機を購入して、重要な会議の時は社長の了解を得て録音して、ホテルに戻ってから、それを何度も聞きなおして、内容の 理解に努めたが如何せんそれも限界があった、文章を読むのと違って微妙な発音の違いは聞き取れなかったし、単語力不足の私には意味不明の単語も多々出てきて
それをノートに書いて翌日、社長に質問、確認の繰り返しを毎回やった。 今から思うと社長もよく我慢して付き合ってくれたものと感謝。 だが今後の契約の事になると弁護士も入って専門用語の連発で何とも理解出来なかった。そこで社長に御願いしてその部分を録音機に入れてもらった。社長は嫌な顔もせず、吹き込んでくれた。帰りの機内でテープを何度と無く聴いてみたが半分も理解出来無かった。帰国後出社して、報告した時に、部長は語学力抜群との噂だったので、契約については このテープを聴いてくださいとやったら、「役員会に提出するから日本語で纏める様に」と あっさりと一蹴されて、がっくり!部下の中に某外語大学をトップで卒業したと言われる秀才がいたので、このテープを聴いて翻訳を手伝って欲しいと頼んだら、即座に私は通訳ではありませんと手厳しい返事が返ってきた。正直言ってあの時は本当に困った。私が余程困った顔していたんだろう、部下の一人が「どうされましたか」と 聞いてきたので「実情」を話したら、私で良かったらお手伝いしますと耳を疑う返事。 早速別室に閉じこもってテープを聞きながら翻訳開始、日本語にどう翻訳すれば良いか 分からぬ言葉は、隣に国際特許関係の達人がいたので彼を引っ張ってきて教えて貰って何とか「日本語」に翻訳出来た。その間何日かかったか記憶が無いが相当時間彼に助けてもらった覚えがある。後々彼とは中近東での出張の時に同行してもらって輸出拡大の成果をあげるに多大の貢献をしてもらった。この時に痛感したのは、腹が立ったが原因は私の語学力不足であった。

それからは 当時流行していたイヤーホンで通勤途中でもきける英会話テープを利用して電車の中や 車の中で聞いたのと、NHKのラジオ英語テキストの中級上級の二冊とビジネス会話の 三冊を定期購読して、自宅でタイマー録音して早く帰宅できた時は夕食後、出来なかった時は日曜日に纏めて聞くといった駆け足勉強をおっぱじめた。習うより慣れろの諺通り 繰り返し繰り返しやってるうちに少しずつ聞けるようになって、一年後の中近東方面の一人旅の時はなんとか日常会話は不自由なく出来るようになった。私は通訳ではないと断られた時は本当に「こんちくしょ」とむかっぱら立てたが、あの時に彼が引き受けてくれたら、そのまま他力本願で私の語学力は進歩しなかっただろう。 今から思うと、よくぞ断ってくれた、お蔭でやる気になったと逆に感謝しなければならないとすら思うようになった次第です。でもこの英語の基礎を作ってくださったのは、神戸三中のエアーシッポン先生と飯田高校のウラサ先生のお蔭であり30年、40年経っても忘れる事が出来ません。 先生 有難う御座います・・・・今頃何をぬかすか、遅すぎるわ・・・すんませ〜〜ん。