【出戻り営業部編】台湾初出張
平成21年11月1日


A社長との再会
 昭和50年出戻り営業部で、欧米以外のその他所謂第三地域の担当を命じられて、早速東京・大阪・名古屋の取引先への挨拶回りを始めました。昭和36年当時の私の担当はアイルランド工場への部品発送が中心で、取引先との直接交渉は殆どありませんでしたが、台湾への輸出総代理店の社長をしておられたAさんはよく営業部に来られた関係でお顔だけは知っていました。14年後の営業部で再会しましたのが、このA社長さんで、社長さんの方から、今度から君が担当か、宜しくと言われて恐縮した覚えがあります。当時は何も知りませんでしたがA社長さんは陸軍将校で、広島で原爆火傷を負って負傷入院治療中に終戦を迎えた経歴の持ち主であり、さらに私の卒業した経済学部の先輩である事も判明(A社長さんはとっくに私が後輩である事をご存知でしたが)こんな不思議なご縁で台湾貿易に関しては多いに助けられました。頑固一徹社長でしたが残念ながら2002年9月77歳で他界されてしまった。ご冥福をお祈り致します

圓山大飯店
私が第三地域即ち台湾も担当と決まったらすぐA社長から台湾の取引先への挨拶を兼ねての出張が要望されたが、既述の通りメキシコ行きが優先されて台湾行きは現地取引先の都合もあって12月1日からと決定した。その当時の国鉄(JRでは無い)の労組の鼻息はすこぶる荒くて11月26日からストライキ突入 して何時鉄道運行が再会されるか不明の状態。已む無く前夜から近鉄で大阪入りしてその日は大阪泊。(ストが中止になったのは12月2日だった)
12月2日営業部長と私、A社長の三人,伊丹飛行場を11時離陸、台北に着いたら現地の取引先の皆さんのお出迎え、早速名刺交換となったが、誰が李さん、金さん、陳さんやらさっぱり区別つかず、車で当日のホテルである「圓山大飯店」に到着。
ここは台湾政府高官の定宿とか、日本では想像のつかない「赤」中心のデザインにびっくりした。どんな外観かは画像を見てください。当日の夜は現地の輸入総代理店の社長とそのご家族と我々で初めての私の紹介を兼ねての宴会。現地の社長さんは何度も日本に来て宴会の習慣を熟知しておられたので、和気藹々で終始してとても楽しかった。これを「知らぬが仏」と言うのでありましょう。 翌日からは宴会地獄が始まるんであります。


北投温泉でぶっ倒れた
翌3日、台北地区の販売店への挨拶回りで朝から夕方まで車で走りまわり、その夜はかの有名な「北投温泉」のレストランで販売店社長さんを招待しての宴会開始もう時効ですから良いでしょう、 昭和50年代、台湾はまだ「赤線地帯全盛」の頃で その中でも北投は屈指の赤線地区、現地の社長さん達は宴会終了後初めて来た私に北投の思い出を作ってもらおうとここに場所を決めたらしいのですが・・・・・・ 。

宴会が始まりますと、前夜とはガラリと変わって献杯の応酬、強烈な老酒で乾杯十数人の方が一人ひとり私に献杯、並々と注がれた老酒を全部飲み干さないと相手方に失礼になると聞かされていたので、我慢して飲めない老酒を次々と飲んだ。そこまでは記憶にあるんですが、その後は全く記憶なし。 同行した部長とA社長から 聞いた話ですと、途中で椅子に座り込んで、その後椅子から床にずっこけた!
皆でホテルのベッドに担ぎ込んで寝かされた。妙齢の美女の看護?? とんでもにゃあ 背広着たままネクタイしたまま、靴だけは脱いだ状態で翌朝部長から起こされるまで前後不覚! 目が覚めて部屋を見たら、ギヨッツ 極彩色のギラギラのどう見ても普通の部屋では無かった・・これが北投温泉かと後になって納得したがその時はもう二日酔いでムカムカのムカ、歩くと部屋全体がスポンジの絨毯を踏んでいるように 上下に揺れ動く感じ、有難い事にトランクは閉じたまま背広も着たままなので、そのままふらつく足を踏みしめて台北の駅まで行った。 駅の風景の画像を見てください
真中の茶色のトランクは私のです。


台湾の列車
10時過ぎの台中行き特急「観光号」に乗車。この列車がディーゼルだったかは記憶に無いが台南行き特急と台北行き特急、夫々が「観光号」と「呂光号」と愛称がつけられた列車が走っていた。画像がぼやけて残念ですが車掌がとても美人!でありました。

前夜の酒で二日酔い、水だけ飲んで朝メシ抜きで乗車し二日酔いが醒めてきたら途端に 空腹!台湾の旅を熟知しているA社長さんの勧めで車内販売のお弁当を買いました色々種類がありましたが、是が最高級のお弁当です。丸々一個のゆで玉子がゴロン、牛肉の煮付けと白いのは何だったか忘れましたが、ちゃんと割り箸もついていて味も結構でした。(空腹に不味いものなし・・いえこれは本当に美味しかったんです)


途中で懐かしい現役の蒸気機関車を見ました 記録では昭和57年まで蒸気機関車は使用されていたそうで 終戦時台湾総督府鉄道に残された日本製機関車は200両ほどC−57型が中心だった様で戦後は台湾鉄路管理局と名前の変わった行政府によって運行されたらしい。現役の機関車の画像を二枚見てください