66年ぶりの再会

平成23年10月1日


■はじめに
思い出話の中で書きました様に 昭和20年6月に信州に疎開して以来、池田小学校の同期には 平成7年(1995)の9月 胡谷さんと51年ぶりに神戸で再会して池田小学校から まだ震災の瓦礫の山だった池田上町まで歩いたが彼も転々として小学校同期の消息は殆ど皆無の状態だった。 再会を約して別れたが平成14年の10月急逝してしまった。そんな事で小学校の同期で消息の分かっているのは一人も居なくなり平成18年を迎えた この年の6月 神戸のHさんより突然メールを頂き、彼から同期の消息を教えて頂いた。詳細はブログに書きましたが その時に教えて頂いたKさんに連絡しましたら 平成20年12月彼から電話があり、御互い元気な内に再会しようと約束した次第。、消息が分かるまでは、わかったらすぐに飛んで行って再会なんて思っていましたが、こうして消息がわかってしまいますと、何だか気が抜けてずるずるとそのままになっていました。所が昔々の「紅顔可憐な秀才少年」も歳を重ねてきますと一人また一人と旅立っていかれる人数が増えて来て、明日はお前だ!と言われても可笑しく無い「80歳」になりました。 生来の超楽天のうてんきの私も、自分で動けるうちに再会しようとやっと重い腰を上げました次第です。

■再会
Kさんは 小学校4.5.6年と一緒の組で、神戸三中でも2年生まで一緒の組でした 。自宅も私の家の近くで、御互いよく行き来して遊んだものです。 昭和20年の6月の 神戸大空襲の時、当時私と彼の住んでいた池田上町は山手にあり、典型的な住宅街で工場など一つも無かったんですが、ばら撒かれた爆弾が私の家とその周辺に落ちてひどい目に会いましたが彼の家は幸い無事でしたが、三中も焼けてもう目茶目茶、ですから彼とのお別れも無く信州に疎開。 彼は三中から早稲田に入り大手広告関係の会社で活躍、途中で 何がどうなったか不明ですが、今日現在の彼はなんと教会の牧師さんでした。 牧師さんなんて私には全く縁がなく 若し彼が黒い法衣をまとい十字架片手に「アーメン」なんて出てきたらどうしようかと案じていましたが、再会の瞬間にその心配は吹っ飛びました。 66年のタイムラグもおお、お前 Hじゃないか、元気そうだな」  その一言で終わりです。教会の中で彼と奥さん三人で色々と、小学校時代や彼の苦労話を聞く事が出来ました、同期の消息はあまり聞けませんでしたが、再会出来たと言う事だけで大満足です。 私の胸の中にくすぶっていた「同期との再会」の思いもこれで幕を引く事が出来ました。

■神様へのお礼
彼も奥さんも牧師の資格をもっておられて現在の場所に落ち着くまで色々と各地で伝道牧師として苦労された様子ですが、有難い事に旧交を暖めている時には一切宗教的な話はありませんでした。 お別れする時に 私が今日こうして再会出来たことは神様仏様のお導きで感謝していますと申しましたら、 奥様から教会の奥の
十字架に向かって、感謝の言葉を捧げられましたが、その言葉の一つ一つは覚えていませんが、信じるものは違っても、感謝する気持は同じだと胸の奥が熱くなりました。宗教にはあまり関心はありませんが、今日の様な雰囲気で聞きますと、神様を信じるのも悪くないなあ・・・すみません 罰当たりな言葉ですが  そんな気がしました。次は何時会えるか、御互い、又近いうちに会おうと言って別れましたが、之が一期一会の最期になるかわかりませんが、今日こうして再会出来た事は本当に嬉しく思いました。 
彼ならきっと最後に言うでしょうね {ア〜〜メン」って。