振風寮の写真
平成24年9月24日


1:振風寮の写真
 昭和25年当時 カメラを持っている学生はゼロであった。 当時写真と言う物は、冠婚葬祭、記念行事 節目の時に写真館でしゃっちょこばって、緊張のガチガチで撮るか、写真館の主人が 現場まで出張して、でかい蛇腹カメラに黒布を被せてシャッターを押して撮影するのが普通であった。だから当時の日常生活を撮った写真は、殆どありません。今回偶然にも昭和25年当時の振風寮を撮影した写真を入手しましたので、見てください。 撮影者は不明です。

 全体像で、よくわからないかも知れませんが、畑の真中に5棟の木造建物があります。向かって右から 北寮、4寮 3寮 2寮、そして一番左が南寮です。 

二枚目の写真は振風寮の入り口で、寮の看板が右側に見えています。


手前から南寮 2寮・・と続いていますが、この外観から見ても如何に「オンボロ寮」であったかがお分かりでしょう。戦時中海軍工廠で働く工員の宿舎として使われ、豊川大空襲の時には、爆死した方々の遺体置き場に使われていたとの風評もありました。 夏暖房が良く効き、冬はすきま風冷房が名物であったこの寮も昭和30年代には取り壊されたと聞きました。

2:振風寮の場所
  昭和25年当時は、名古屋からは、名鉄線国府で豊川線に乗り換え、 飯田線からは豊川で豊川線に乗り換えて、いずれも 「おかざきこうしまえ」で下車して、ちいさな灌漑用水の小川沿いに寮や校舎まで約10分の距離。 なぜ「おかざきこうしまえ」かと言いますと当時の岡崎高等師範学校が爆撃で校舎が焼失して、昭和20年12月にこの豊川に移転して、経緯は不明ですがその頃から駅名が「おかざきこうしまえ」になったそうです。 写真の左側の電車が停まっているのが当時の駅で数人の学生がいます。右側の写真は駅から国府の方向を見た所で、我々の時代でも朝晩以外はこの単線は一時間に一本程度の電車がノンビリと走っていました。 


 勿論現在ではこの駅名はありません、60年も経ちますと当時を知る面影は全く無いそうですが先輩が苦労して調査された結果、現在の豊川線諏訪町駅の西方向の代田(ダイタ)町にあります文化会館や代田小学校付近が振風寮と名大豊川分校の跡とわかりました。 懐かしい寮と校舎は、もう今は記憶の中にあるだけです



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