寮祭とストームの思い出

平成24年9月24日


◆寮祭(11月3日)
グランドでのバカ騒ぎ
大昔、中学卒業後は、第1高等学校から第8高校までの、いわゆるナンバースクールと地方色豊な高等学校に進学するのが夢だった。これらの憧れの高等学校に進学した先輩が夏休み、正月休み等に夫々の出身地に帰省した時、中学在校生がこの先輩を取り囲んで高校生活を聞くのが恒例であった。 その集まりを通じて、憧れの高校の寮歌も覚え、独特の雰囲気も何となく分かってきた。残念ながら、教育制度改革によって、この高等学校は廃止になってしまったが、寮祭とかストームとかは、昭和20年代の半ばまでその習慣が新制大学に引き継がれていた。 振風寮でもこの寮祭が昭和25年11月3日の祭日に行われた。既述した様に当時記録写真など撮りたくてもカメラ自体が無いので、寮祭の記録はこの二枚の仮装行列だけしかない。





現在の寮祭と根本的に違うのは、まず見物客は寮生だけ。昭和25年当時は、先ず肝心の「クイモノ」が配給制で不足! 廻りは畑とたんぼだけ、ちかくに女子高や短大など何も無し、だから広い運動場で250人から300人近い寮生が、寮ごとに別れて、珍妙な恰好をしてワッショイワッショと走り廻るのを近所のお百姓さん達が呆れ顔で 見つめていた。 それに何か作ろうとしてもその材料が無い、あるのはたんぼの隅に捨ててある廃材や 寮の風呂で燃やす薪代わりの、廃屋の木材位。そんな物をかき集めて何とか目的の物を作り上げるのだ か ら 今で言えばリサイクルの模範みたいなも の。 とは言うものの、それには自ずから限界があるので、グランドでのバカ騒ぎは午後からで、午前中は集会所を利用しての各寮対抗の「演劇コンクール」が行われた。

◆演劇コンクール
演劇なんて、やった事が無い、経験したのは、せいぜい学芸会程度の連中ばかりだった筈が、やはり300人近い寮生がいると、 色々 な達人がいるもので、我々の北寮に文学 部のA君がいて、彼が演劇の題目から各自の台詞、ふりつけを全部指導してくれた。 
彼が右向けと言ったら、ハイ、 そこに座れと言われたら ハイ、そんな事で日頃はすぐ反抗的態度をとる連中も黙って彼の指導に 従 って練習した、 北寮の出し物は阿木翁助氏 の物だった、(題は忘れた)  A君の熱心な指導のお陰で我々北寮は 第2位を獲 得して賞品の酒一升を獲得! これが一番嬉しかったな。参考までに私も出演者の一人でした。  (大根役者だった!)終了後出演者だけでなく、野次馬も加わって、飲んだ(なめた)酒のうまかった事は今でも記憶に残っている。

◆特別食
午前の演劇が終わると、雀の涙の寮の昼飯を食べてから、グランドで仮装行列大会・・・夕方終わったら使った材料をグランドの真中に集めて火をつけて、万歳三唱して、火の廻りを隊列組んで又ワッショワッショの駆け回り。バカでなけりゃこんな事出来ません寮祭の最大?の楽しみは、夕食だった。 普通は煮詰まった味噌汁と茹で秋刀魚焦げ目つきと雑穀メシなんだが、この日だけは食堂の皆さんが乏しい材料を使って散らし寿司もどきを作って出してくれた。どんな材料を使ったかもう忘れたが、こんなうまいメシ が あるかと、みんな大喜びでパクついたもの だった。 寮の食堂では酒は禁止されていたので、お茶で気炎を挙げていたなあ。

◆ストーム
この言葉の意味をお分かりの方は、多分立派な末期高齢者であると確信します。 ストーム(storm)嵐 の意味ですが、旧制高校のストームとは 寮に入った新入生の手荒い歓迎会の別名です。 4月入寮後のマゴマゴウロウロも一段落した頃、南寮のワル連中が密かにストームを計画している事が伝わってきた。北寮の伊那谷の三匹の猿は先輩からストームのなんたるかを充分に聞いていた。だから、我々も迎撃戦をやろうと、話を持ちかけたら、ストームって何ですかと全く知らないのが半数位いてがっくりしたが、知っている野郎は「よし やるぞやるぞ」と大張り切り! ここでも中心は伊那谷の3匹の猿だった。

◆迎撃戦開始
ストームの鉄則は、器物損壊はご法度(破損するとその修理代負担となる) 入り口で大声でストーム推参の仁義を切る怪我をさせないようにする。 これさえ守れば後は何をしようとやりたい放題! 5月の夜9時か10時ごろ 南寮の連中が北寮の入り口で「只今よりストーム推参!」と大音声と同時にゲタバキのまま階段を駆け上がり廊下を踏み鳴らして来る、戦時中の安普請の寮だから寮全体が揺れる感じがして、ストームを知らん連中は、目ぱちくりしているだけ、20人以上の集団が暴風の如く廊下を飛び跳ねるんだから大変な騒ぎ、勢いあまった連中が廊下から部屋に飛び込んで、万年床の上を踏みつけていく、布団の中で寝ぼけていて踏みつけられた野郎もいたなあ、そんな連中を黙って通しては北寮の名折れじゃあと伊那谷の3匹が中心になって彼等を向かえ撃つ、 たらいに水をはり、そこに「歯磨き粉」・・・当時は「粉」でした・・・を全部ぶち込んで溶かして、先ず階段の上で待ち受ける、 入り口で南寮の代表が仁義を切って階段を登り始めたら 上からたらいの水を連中の頭上にぶっ掛ける! これが戦国時代だったら、ぶっかけるのは「黄金水」だっただろうね。歯磨き粉を溶かした水を頭から被った連中がどんな姿になるか想像して下さい。この洗礼はコレだけではありません、たらいの水は要所要所の部屋に置いてあるので、通過する連中に部屋の中からぶっ掛ける、そして最後は階段を下りていく連中の背後から、タップリとこの特製歯磨き粉水をぶっかける!!

◆戦い済んで、
連中が通過した後は、部屋も廊下も階段もその歯磨き粉水で悲惨な結果になっていたが、誰も文句言わなかったな、 ただ困ったのはその後暫くの間は歯磨き粉が無くて 2寮や3寮の連中から借りねばならなかった事だった。 迎え撃った我々も上半身裸でやったがそれでも全身濡れネズミの状態で、この嵐が去った後は 普段だったらもうとっくに火を落としている筈の寮の風呂が特別に沸かしてあるので、全員で入りに行き、南寮の連中とも風呂で御互いの蛮勇を賞賛しあう一幕。こんな風呂の中の文字通り「裸の付き合い」で、これから後は「おーす」の挨拶で一度に親近感が増したから不思議なものです。お前等 一体何をやってるんだ バカかと言われれば、その通りですとしか返事の仕様がありません。 同じ寮にいるといっても東海北陸信越から関西関東とそれこそ全国から集まった「見も知らぬ」連中が、このストームを機に一気にみんな親しくなって寮生の絆が強くなってきたのです。
卒業後もう六十年程経ちますが、学部を問わず当時振風寮にいた連中は一様にこのストームを懐かしく覚えていて、北寮で一緒に歯磨き粉水をぶっかけた野郎とはいまでも親交が続いています。



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