【出戻り営業部編】巡航見本市の出張
羽田からボンベイまで
平成22年2月14日


◆前書
1976年(昭和51年)10月20日より年末まで出張して中近東:東欧などを歴訪して来た記事と写真をこれから日記風に書いていきますが、これには裏話があります。
今までの既述にはそれなりの参考資料や記録がありましたが今回は、出張の日々の記録が日記に詳細に残されており、又訪問した国からの出した私の手紙や家族からの手紙が1冊のファイルに分類されてきちんと保管されておりました。 その分類されていた資料の写真を御覧下さい。


ですから、これからの既述はこれらの資料に基ずいて書いて行きます。参考写真は、日本からフィルム持参で、アサヒぺんの76枚撮りのカメラを使用しましたが、30年以上経ちますと、カラー写真のはずが、色褪せた写真になっていました。

j◆いよいよ出発
1976年(昭和51年)10月20日(水) 雨降り 「東京行き」
これから年末までの出張だが、例のごとく出発ギリギリ迄会社で仕事をやってから、夕方一旦帰宅して大型トランクを持って(当時のトランクには現在の様な車輪は無かったので)ヒーヒーいいながら名古屋駅の階段をあがって6時過ぎの新幹線に飛び乗って東京へ。
品川駅前のパシフィックホテルに入り9時にやっと夕食(車内で弁当買い損ねた)ホテルの部屋から品川駅が目の前(現在とどの位違っているでしょうね?)


10月21日(木)晴 「出発だ」
6時起床 7時半の空港行きのバスに乗る。朝食は7時半からなので空きっ腹抱えての乗車。朝早かったので順調に走行して羽田には8時到着。 30分遅れて10時に離陸した。 機上から富士山がくっきりと見え、知多半島上空を通過したらもう下降して大阪伊丹空港に45分後に着陸。 昭和51年の伊丹空港周辺の風景も今では全く変わっているでしょう。


此処から団体客が登場して満席となり12時に先ずマニラに向かって出発した。
離陸後暫くしたら機内アナウンスで櫻島が噴煙を上げていますとの事で全員窓に鼻押し付けその様子をみた。いささかピンボケ写真ですが矢印が桜島の噴煙です。


◆トイレでチップを要求されたマニラ空港
ここからマニラに向かって南下、3時40分にマニラ空港着陸、ここで一時間の給油と整備でその間に空港内のトイレに行ったら、入り口に番人みたいなおばちゃんがいて、チップを出せと言われたのにはびっくり!! 
たかが小便するだけで10セントだ、そんなら「屁」一発では5セントで デッケイ方なら20セント、とるんだろうか 聞いてみりゃ良かったな・・・で結局無視、無視、で払わず悠々と戻ってきました・・・でも少々後味わるかったな。
5時過ぎやっと夕食! 朝ホテルで食べられず、大阪空港でも機会を逃して空腹そのものでこの夕食はうまかった!! 空腹に不味いものなしだ。マニラからタイのバンコックに飛びここでJALとはお別れしてベルギー航空SABENAに乗換えとなる。

◆乗り換え騒動
簡単に乗り換えと書いたが、初めての空港の一人旅、降りたもののさてベルギー航空9時発、一体何処に行けばよいのか案内表も見当たらず、空港職員に聞いたらバスに乗れ、へ〜? お互いの片言英語で双方困り抜いていたら丁度通りかかったスチューワデスが助け舟を出してくれてバス停までつれて行ってくれて、バスの運ちゃんに、この日本人を何処何処で降ろしてくれてと頼んでくれた。 そのスチュワーデスが美人だったかどうか記憶に無いのが残念無念! やっと目的のベルギー空港のカウンターで搭乗手続きをしたら、この姉ちゃんは
オシかツンボか、しゃべったら損すると言った態度で最初から最後まで物一つ言わず、すげー姉ちゃんがいた。搭乗手続が終わったてほっとしたら、別の職員が来て紙切れをくれてあそこに見えているコーヒーショップに行けと教えてくれた。早速行ってその紙切れを出したらなんとそれは軽食の無料サービス券だった。 こりゃたまげたねえ。 あの無愛想な姉ちゃんがいるかと思うと右往左往している私の様な外人に無料サービス券をくれる姉ちゃんもいる。世の中千差万別、  コーヒーショップで出されたのは オレンジジュース 鶏肉フライ 煮豆、それとバサバサのご飯、折角出してくれたんだが、どうにも不味くて箸が いやフォークが前に出ない、半分以上残した、 カチカチに凍ったアイスクリームもあったが、香料が強くて何ともいえぬ味! 未練タップリだったが残してきた。
さて搭乗待合室に戻ってみると、大勢の客がいたが、チンプンカンプンのアナウンスの後ぞろぞろと皆な搭乗口の方に行く、これがSN274便かどうかさっぱりわからず、こうなると一人旅は強いものだ、 乗客に私の搭乗券をみせてYES? or NO?と聞きまくってその答えがNOなら又席に戻って次のアナウンスを待つ・・・ほんとうに神経がチリチリ、これが国際空港かよと悪態ついても、ただ待つだけ。羽田を出てからもう12時間だ。やっと9時過ぎに搭乗出来てほっとした。この経験は貴重だった、この旅で方々のローカル空港に行った時、何時出るかわからない飛行機を待つと言ったケースが何回もあったがこの経験から何とか切り抜けてきた。 何事も経験ですなあ〜。

◆ラオス難民と同乗
バンコックで散々苦労してやっと搭乗出来て機内後部のエコノミー席に着いて、ふっと 周りを見たら、後部席は殆どが子供達と赤ちゃんを抱いた若い母親とおぼしき連中で占領されていた。子供達は明らかに支給された小奇麗な服を着ていたが、一見して栄養不良である事がわかったし、さらに機内では全員が素足だった。 もっと驚いたのは座席に薬缶を持ち込んで、喉が渇いたらしい子供が直接口をつけて飲んでいる姿だった。 スチュワーデスに聞いたら、この連中はラオス難民で何処かに監禁状態置かれていてやっと救出されてこれからベルギーの保護地域に行くとの事。水もろくに飲ませてもらっていないので、誰も信用せずに薬缶を持ち込んだと言う。確かに見ていると支給された食事の残りは自分の袋に入れていた。 年齢は5−6歳位だが 殆どしゃべらずこれから彼らの運命はどうなるんだろう、両親兄弟から引き離されてばらばらにされて見知らぬ外国での不安な生活を想像すると涙がでそうだった。 さらに一緒にいた16−20歳位の女性達10人以上いたかなあ、彼女達の将来も保証されているわけじゃない。 全員で5−60人位だったが前途暗澹夜間飛行の薄暗い照明の中で薄い毛布にくるまって寝ている姿は何とも悲しい姿だった。
昔1893年にはラオスはフランスの植民地であったが1947年にラオス王国とっして独立した。しかし王国政府と反政府軍との対立権力争いで内紛がたえず1975年に王政が廃止になりここではじめてラオス人民民主主義共和国が発足したがお定まりの内部紛争で行政はマヒ状態となり経済は疲弊して多くの難民が国外に逃げ出した。 1976年はまだその悲惨な状態が続いている状態で国際赤十字がその救済に乗り出していた。 私の乗ったベルギー航空もその救済に力を貸したのだと思うが、現実にその難民の姿を見ると全くやりきれなくなる。

◆殺虫剤での洗礼を浴びたボンベイ
10月22日(金)
日本時間の真夜中の午前2時インドのボンベイに到着、機内にインドの検疫官らしき数人が入ってきていきなり手にしたスプレー缶を左右に振って消毒??開始した。 機内の乗客からは一斉に苦情の声が挙がったが、全く無表情で義務的に、天上に向かって噴射を後部席までやってさっさと退散した。ありゃ何だろうと聞いたら「殺虫剤」だそうで それを乗客のいる所で平然と噴射させる神経には参りました。お国が違うと色々あるもんです。
これで次はやっとギリシャ:アテネ到着となります。 羽田を出てから24時間以上かかっての到着、 まだ45歳の若さだったからエコノミー席で頑張れたのだといま思います。