【出戻り営業部編】バクダットの思い出

平成22年9月15日


1976年 12月4日

テヘラン空港からバグダット空港へ
午後3時過ぎ テヘランの取引先と別れてテヘラン空港に4時到着。 真っ黒なチャドをかぶった現地の人で空港は一杯。搭乗券を受け取るのに我先にカウンターに押しかけて大混乱、警備員が来るまで、酷い騒ぎだった。私もやっと搭乗券を貰って待合室に入ったが、なんと時間表は全く無くアナウンスも現地の言葉だけで、アナウンスがある度に現地の人はわっと駆け出していく。 不安でたまらず受付に行って搭乗時間を聞いても通ぜず身振り手まねでやっと時間を聞き出したが、5時と聞いていた出発は7時らしい? それからは全神経を集中させてアナウンスを聞き、 6時過ぎに・・・・・なんとかかんとか「バグダット」と言う事だけ聞き取れたので税関に行ったらカバンを開けて包装紙で包んであるものは全部破られて中身をチェックした。 取引先の方から頂いたお土産品も全て一つ一つ調べた。余程暇なんだろう。 勿論破った包装紙はそのままだ。

やっと通関終わって、さて搭乗となったら機内は大混乱・・・早い者勝ちで先に登場した連中が勝手に席に着いてあとから来た人と席位置で論争が始まっていた。 スチュワードが来て散々説得してやっと収まったが、ひどいものだった。こんなひどい統制のとれていない乗客はここだけだろうと思ったら、もっとひどいのが次に控えていた。バグダット空港に夜の9時到着、ここでもカバンの中身を徹底的に調べた。テヘランで破られた包装紙はここで完全に紙屑状態になった。多分ここで税関に5ヂナール(5000円)位そっと握らせたらすぐOKとなるだろうが、ばかばかしくなって、勝手に検査やれと見ていただけ。現地通貨両替銀行は普通は空港内にあるのだが、それがない、散々聞きまくって空港の外にある事がわかってそこまで重いトランクを持っていって両替して、今度はタクシーに乗ろうとしたら、予約券を買って来いという、またさんざんウロウロしまくってホテルの名前を言って料金先払いで予約券なる物をもらって、タクシー乗り場で順番待ち!こう書くと単純だが、重いトランクを持って、あっちこっち歩き回り聞きまくりで本当に疲れた。やっと乗ったタクシーは米国製で20年以上前の車、窓の開閉は出来ずエアコンは故障?らしい、運ちゃんは英語は出来ず予約券のホテル名みて、ただ黙々と真っ暗な道路を走るだけ。 一体何処に連れて行かれるのか少々不安になった頃、車が止まって運ちゃんが指差して一言 「ホテル」。 よくみたらそこが予約したホテルでほっとしたね。

現地では一流の「アンバサダーホテル」だが、部屋はひで〜〜ものだった。 夜の11過ぎにチェックインしたのだから 部屋も適当にあてがっておけ・・・オソマツなベッドにシャワーだけ、電球も部屋のは切れて点灯せず洗面所だけやに明るい照明が点いていた。すぐフロントに電話してルームサービスでビールを頼み持ってきたボーイにタバコ一箱と100円ライターをやって、電球の取替えを頼んだら、ニコニコで10分もたたぬ内に来てすぐ取り替えてくれた。 部屋はひどかったがルームサービスで持ってきてくれたビールはガンガンに冷えていて、これは美味しかった!

イラクの政情
イラクと聞くとすぐフセイン独裁政治と連想されるのだが、私が訪問した当時は、フセインはまだ大統領ではなかった。昭和43年(1968年)にイラクのバース党が無血革命に成功して、豊富な石油資源から得た外貨を積極的に産業と農業に投資をして、イラクの経済状況は好転、 昭和45年(1970年)のイラク北部のクルド族内乱をバース党の幹部だったサダムフセインが鎮圧して、ここから彼は権力闘争の階段を順調に登り始めた。だから私が訪問した昭和51年(1976年)当時はフセインの独裁恐怖政治は始まっておらず、一般は好景気の恩恵を楽しんでいた?時代だった。 その後1979年にフセインが大統領に就任してから急速に政情が悪化して1980年にイランーイラク戦争勃発、1990年クエート侵攻があり2003年国連によるイラク戦争が勃発して2006年フセイン大統領が処刑された。振り返ってみれば私が訪問した時は私にとってもイラク国民にとっても最高の時ではなかったかと思います

バグダットの街
タクシーで商談相手の事務所に行く途中、面白い彫像を見ました。 幸い運ちゃんが英語をしゃべれるので聞いたら あの像は「アリババと47人の盗賊」の中に出てくる油壷の場面だ」と教えてくれました。タクシーの中からのスナップで鮮明ではありませんが、油壺の上でアリババに忠実な女性が壷の中に盗賊がいるよと知らせている状況がわかります。27年後のイラク戦争で、この夢のある彫像はどうなったでしょうね。


チグリス:ユーフラテス河
バグダットの街の真中を流れている文明発症の母なる河と称されている有名な河も、こうして目の前に見ると
単なる泥の河でしかりませんでした。 でも子供達は一向におかまいなしで、素っ裸でこの泥河に飛び込んで
遊んでいました 写真に見える橋も2003年のイラク戦争の時には真っ先に爆撃されて破壊されたでしょう。


工場の連中
イラク公団の煮ても焼いても食えないお役人との商談の後、日本に研修に来たイラクの二人に会うために工場に出かけていった。予定では工場は既に稼動直前の筈だったが、行ってみて驚いた! 広大な敷地にバラック建の貧弱な事務所があるだけ。そこの一角に縫製技術者?のたまり場があった。日本人なんか見たことないと言う連中が集まってきたのでその写真を見てください。


左側二人が研修に来た二人でここでは主任技師でありました。 彼らに縫製工場の流れ作業の様子を説明したが、信じられない様子で、主任技師の二人もこれからの指導に苦労するだろうと同情した。でもここの良い所は 駄目な時にはすべて「インシャラ〜〜・・神の思し召しである」の一言で終わる所だろう。


イラクの紙幣
偶然余った紙幣を持ち帰りました。 上が1ディナール(当時の価値で1000円) したがその半分の500円札です なんと書いてあるかさっぱりですが、 数字だけは商談の時に必要でしたので一生懸命覚えました。 
発音? 駄目です、 それこそ「インシャラー」であります。 今この紙幣が流通しているかは全く不明。