1976年12月5日 ◆一流ホテルのアンバサダーホテル(?) 昨夜泊まった「アンバサダーホテル」。ガイドブックではバグダット市内では一流と書いてあったがたしかに、写真の通り外観は一流らしく見える。・・・が実態はこの表通りに面した部屋は全て政府関係か銀行関係専用らしく 私の様なただの泊り客は裏側のヘボイ部屋があてがわれる。 ![]() 泊まった214号室は窓が無く、シャワーのみでおまけにベッドが傾いているときたもんだ。 床はタイル?張りで昔絨毯であったとおぼしき敷物が敷いてあるだけ。これでもこのホテルに泊まれただけでも良かったと思わざるをえない位 他のホテルはひどいと後から聞かされた。 ◆朝食タイム さて朝7時過ぎ朝食は、インスタントコーヒーとオレンジジュース、平べったくて丸くて薄くて味のないパン(之は帰国してからナンという種類のパンとわかった)、勿論バタージャムはないし 卵ベーコン等一切無 選択の余地無しであった。之しかないのだから なんとか味気の無いパンを無理やり流し込んで 8時過ぎ商談に出発。 ◆明日来い!(なんだとー!!) 目的の公団事務所に行ったら、もう廊下から受付まで、人人で一杯、その人々をかき分けて受付で申告して二階の待合室で待っていた。 数人の先客がいたが、9時になっても 10時になっても、音沙汰なし。 先客の内4人が、腹を立てて帰っていった 。私も帰りたかったが、もう少し辛抱しようと、待合室で座禅の心境! 12時前やっと秘書が来た、やれやれと思ったら「今日は終了 明日9時に来い」それだけ言って 消えた。 某商社の方から この公団は常識が通用しないからその覚悟で行く事と聞いていたが、最初からこんなにひどいとは思わなかった。 ◆時間つぶし 散々待たされて 挙句の果てが「明日来い」で終わった、ここが先進国だったら他に気晴らしする場所もあるだろうが 砂漠のど真中ではなんともならぬ。 仕方なく 一流ホテルに戻ったが、蒸し暑い部屋で仕事やる気全くなし、明日まで時間だけはたっぷりあるので、トランクから 溜まった下着類の洗濯を開始、洗面台には何故か 石鹸が3個も並べてある、硬水のせいか 泡立ち悪く半分やけくそで洗濯をして部屋に持参のロープ張って そこに洗濯物をぶら下げた。見事な光景で、写真とっておくべきだったが後の祭り。 洗濯終わった 今度は自分の体を綺麗にしようとシャワー浴びたら一向に熱い湯が出ず最後までぬるい湯だった。 ◆ルームサービス 今日はとうとう昼飯食い損なった! 部屋で洗濯やったせいか夕方腹が減ったが訳わからん食堂でへんてこな物たべるよりはと思ってフロントにルームサービスの夕食を聞いたら、 ビーフサンドだけだと言う。飲み物はコーヒー駄目、ジュース駄目、コーラならOKと言うので2本頼んだ。6時半 7時 一向に持ってこない フロントに電話しても「すぐ行きます」の返事だけ 8時とうとうたまりかねて下に降りかけたら ボーイがノコノコ持ってきた。ちゃんとコーラも2本持ってきてくれたが肝心のビーフサンドは朝食にたべた平べったいパンの間に薄い肉片が挟んであるだけでがっくり。何故かボーイは頼みもせぬ熱い湯の入ったコップも持ってきてくれた。多分日本人は部屋で何か熱い湯を使って独自の食べ物を作って食べているらしいと言う噂が広がっているので(カップラーメンか?)気をきかせて持って来てくれたんだろう。スッキパラに不味いもの無し!やっとこれで生き返った感じ。10時頃この湯ざましを飲んだら飛び上がった!なんともいえぬ鼻をつく匂いとコップの底に白い沈殿物・・・多分ホテルの真向かいに流れているチグリス川の水を汲んできたんじゃなかろうか、そう思いたくなるような湯ざましだった。 ◆商談出来ず 12月6日。朝食は昨日と全く同じ! あの平べったいパンは半分も食べられなかった。早々にホテルを出て 公団の事務所に8時半、一番乗りで待合室に入って相手を待っていたら 今度は9時過ぎに会うことが出来た。 時間は30分だけと言うので早速仕事の話を始めたら、隣の部屋から秘書?が書類を持ってきて署名を要望、その間はこちらは沈黙、 署名が終わったので、さてと話を再開しようとしたら、いきなり入ってきた人とおしゃべり、 いい加減腹が立ったので、黙って顔見ていたら、やっと 私を見て提出した見積価格から15%値引きしろと 高飛車に言い出してきた。ここに来るまでに何度もテレックスで交渉して最終見積として提出したのをまたもや 値引きせよとは! こっちも頭に来てかっかしたものだから下手な英語で まくしたてたら声が大きかったんだろう、隣から秘書が出てきて、 明日もう一度来いと言う。 こっちは今日が最終と思っているから 明日は日本に帰るから来ない。 この商談は保留にすると捨て台詞を残して10時すぎこの事務所を出てホテルに戻った。ホテルに戻ったら 電気製品の商談に来ていた某物産のA氏にあったので、一緒にコーヒー飲みながら状況を聞いたら、経験豊なA氏より、真正面からの交渉は殆ど成立しない、 先ず秘書に日本製品のお土産を渡す、 その次に秘書から商談相手の担当者が欲しがっている日本製品を聞き出して持参する。 それから商談を開始すると成功率は高いよと教えてもらった。 既にA氏は昨年から実行し、某商事も同じ様な手口を使って契約を成立させているよとも教えられた。 後日談だが、この教訓は次の年の交渉に活かして多いに成果をあげたが、この事がとんでもない悲劇に発展した事を次の機会に書きます。 ◆街のお菓子屋 A氏との話の後 街の散策に出てみた。 ホテル周辺から少し離れると煉瓦と泥?で作った家が並びその外観を見ただけで生活レベルがわかる感じだった。 子供達も大勢遊んでいたが殆どが素足で着ているものも 本当にひどい物だった。 ゆっくりと歩いていて、少し疲れたので大きな木のそばで一休みして ふっと見たら小さな駄菓子やがあった。 見るとも無く見ていたらキャンディの様な物が見えたのでその店に行って覗いたらへんてこな外人が来たってんで、あっという間に人だかり。万国共通のジェスチャーでキャンディーを指差して、指を二本おったてて数を示したら すぐわかってくれて出してくれた。 問題は金額だ、 高くは無いだろうと思って小銭入れを目の前に広げて、ここから代金分とって欲しいと身振りで示したら、回りの人達が一斉に何かしゃべりだした。 店主が私の差し出した小銭入れから、硬貨を二三枚取り出して、取り囲んだ人に見せたら周りから多分OKと言うつぶやき?が聞こえて店主もにっこりしてくれた。 どうも廻りの野次馬は 店主が見慣れぬ外人からごまかして取りはしないかと監視していたんじゃなかったかなと思ったので 現地の言葉で有難うと言って歩き出して振り返ったら 野次馬さん達が皆な手を振ってくれた。 なんだかとっても嬉しい気分でホテルに戻ったがそのキャンディがうまかったかその事が記憶に無いのが残念。 あの小さな駄菓子屋や人の良い野次馬さん達も今度の 戦争で吹っ飛んでしまったか気がかりです。 ◆12月7日 バグダット最後の日 6時起床、相変わらず蒸し暑い、部屋の中では誰もいないので上半身裸でいるが、ボーイ達は寒い寒いと言っている。こちらは暑いと言ったら、本気にしてくれなかった。 確かに7月は平均気温40度と言うから25度では寒いんだろうね。お煎餅の様なパンとインスタントコーヒーの朝飯にも馴れた。 9時現地の工場に行って、日本に研修に来ていたM氏とA氏に会って仕事上の話を聞く。応接室とか会議室ではなく 食堂?の様な場所で二人と話をしていると、いつの間にか大勢集まってきて我々の周りを取り囲んでいる・・・よほど暇なんだろうね・・幸か不幸か 英語が分かる人がM氏 A氏以外にいないので、彼等から色々しゃべりかけてくれるが、さっぱりわからない、M氏A氏より その都度アラビア語から英語に翻訳してくれて今度は 私の返事を英語からアラビア語に翻訳・・・我々三人の話の筈が、こんな状態で全く纏まらずに時間切れ! 私はイライラしたが M氏A氏共に意に介せず まさに「インシャラ〜ア・・・神様の思し召し」でありました。 ホテルに戻って コーヒーと固いビスケット?の昼食後 部屋でレポートの作成、今なら パソコンから瞬時に情報伝達出きるが 当時はそんな便利なものは無し!ファックスも無し、 国際電話は 何時通じるか不明、結局昔ながらの手紙形式となるが コピー機も無いので 薄いレポート用紙の下に一枚一枚カーボン紙をはさんでコピーをとらねばならず、本当に不便だった。夕食は、毎回おなじみの「ビーフサンド」、今夜は最後だからビールを頼んだらこれが 全部輸入ビールだった。 銘柄は忘れたが、ガンガンに冷えていて美味しかった事だけは覚えている。 ◆さらば、バグダット 12月8日。午前5時ホテルチェックアウト、 4泊食事込みで32000円、あの設備と部屋で一泊8千円は高いなあと思ったが、後で聞いたら他のホテルはもっと酷かったそうだ。さあ これから空港に行って、南のバスラまで飛ぶぞ・・所がこれが複雑怪奇な手順であった。 先ずホテルから国内線のムセルナ空港に行く。ホテルから車で15分、空港の受付開始は6時、 あっという間に乗客で一杯。此処では無制限?発行の搭乗券を貰って、今度は此処からバスに乗って国際線のバグダット空港に行く。ムセルナ空港で預けてた荷物が届くのを待って、それを持って通関検査、実にノンビリした検査の後待合室で待機、現地の空港事情に詳しい人から聞いた話だと、此処では搭乗券の発行は搭乗を保証する物ではなく、飛行機の切符代金の代わりしかない、だからマゴマゴすると搭乗出来ない事がある・・・そんな馬鹿なと思っていたら待合室はもう乗客で一杯、搭乗案内が出た途端に現地の人が一斉に走り出した!こりゃ話の通りだ、私も搭乗口まで走った走った! 入り口ではもう半分暴力優先で力の強いものが我先に機内に入って席の確保、運よく私も押される様にして機内に入り席を確保できてほっとした。120人乗りB737はあっという間に満席で入り口では口論発生、7時半出発がそのため8時になってしまった。 多分乗れなかった人もいるんじゃないだろうか。 離陸後すぐコーヒーとケーキが出て、朝メシ抜きだったので美味しくいただいた。 最初からバグダット空港で搭乗手続きをすれば良いのに、どうしてこんな馬鹿みたいやり方をするのか今でも意味不明。 砂漠の上を飛んでバスラ空港に着陸、 周辺は全く戦時体制、方々に高射砲があり 警備するするのは全て機関銃を携帯している軍人ばかりだ。 機内で写真撮影したら即逮捕されるから撮影どころかカメラも見えないようにカバンに入れる様再三警告されたのでこの現状の写真が撮れなかったのは残念だった。さてバスラに着陸した、全員降りたらバスに乗せられて約60キロも離れた小型機専用空港に連れていかれて そこで預けた荷物を引き取って、解放された。 本当に解放されたという感じがぴったりだった、 この空港の前からタクシーに乗って、今来た道をまた走行、全くの時間とお金の無駄としか言い様がないがこれがこの国の慣習だからと諦めるより仕方なかった。 画像はバグダットのホテルからムセルナ空港へ行く途中の風景でタクシーの中から撮りました。 街を離れたらすぐこんな風景の家ばかりでした。 ![]() ◆さくら丸に乗船 空港からバスラの港のアッシャーピアーまでタクシーでどの位走ったか、道路はとても整備されていて立派、聞けば之は全て戦争に備えての軍隊や物資輸送を確実にする為の整備だそうだ。 11時前さくら丸に乗船、そこで懐かしい顔と再会出来て早速船の食堂で昼飯を兼ねて無事の再会を祝して乾杯となった。今日は新聞社関係の日で我々ペースケには用のない日、だからもう皆な集まってワイワイガヤガヤの大騒ぎの午後となった。 それぞれがバグダットでの経験を話してくれたが、部屋食事 清潔度等本当に信じられない程ひどいホテルが多く、私の泊まったホテルは文句を言っちゃ申し訳ないレベルだった。 部屋に戻ったら家内からの手紙が配達されていて、之を読んだら緊張感が一辺に抜けて3時ごろよりベッドで寝てしまった。 夕食は、バグダットから大勢が乗船したので、純日本食が出た。、当時の日記には 献立は白米の飯 お吸い物 かれいの干物焼き お刺身 茄子煮物 沢庵 梅干と豪華版! 11月26日に船を離れてからたったの2週間だったが、久し振りの日本食は有難かった。 みんな同じ気持だったと思います。食事済んだら何故か私の部屋に皆な集まって、酒盛りの始まり、誰かが持参したウイスキーとチーズクラッカーやチョコレートを肴に他愛の無い話でとうとう午前1時迄しゃべった。 酒盛りのお仕舞はウイスキーを3本カラッポにしたら其れを期に自然解散となった次第。 私だけでなく皆なバグダットでは、往生したらしいね。 1976年のイラクのお話しでした。 Gooleで1976年 イラクで検索すると以下のようなサイトがヒットしました。 ご紹介させていただきます。 http://www.niigata-ogawaya.co.jp/dousoukai/ina-015.htm |