【出戻り営業部編】アブダビ、ドーハへ、そして 待望の帰国

平成23年7月18日


◆ペルシャ湾の場所
12月初めよりバスラとかクエート、これから行きますアブダビとかドーハなんて一体何処にあるんだろう? ロンドン、ニューヨーク、パリなら誰でも大体の見当はつきますが、上記の地名の場所を説明しますと、添付した地図で、一番上の赤丸がバスラで、すぐ下の赤丸がクエート、そしてペルシャ湾をず〜〜と下って右下のアラブ首長国連邦の所の赤丸がアブダビ、最終港のドーハはアブダビの上のカタールと書いてある所の赤丸です。 順番が逆の様ですが、当時は国際線の離発着はドーハの方が便利でしたのでそうなった次第です。
※若い方にはサッカーの「ドーハの悲劇」で有名な場所といえばわかるかな?


◆12月15日
クエート沖待ち
当時バスラ、クエート、アブダビの港は石油ブームで、港湾設備が追いつかず、折角港に着いても、岸壁に接岸できず順番待ちの状態が慢性化していた。 雀新聞の噂話では バスラ港では 接岸した船から降ろされた物資が倉庫に入りきれず岸壁に山積 野ざらしの状態で長期間放置されて、その物資が劣化して使い物にならない状況になっていた。 入港する貨物船は沖待ちであの広い河が一杯で身動き出来ない最悪の状況が続いたある日突然野ざらしになっていた資材から出火して、周辺の物資がほとんど焼けてしまった。 そのお蔭??で船から資材を下ろす場所が出来て沖待ちが大分緩和されたとか・・・この火災の原因は雀たちによれば、バスラの港湾関係者の責任追及をもみ消す為の「計画的放火」であると言われている。

クエートも同じ様な状況で見本市終わった「さくら丸」は直ちに岸壁を離れるよう指示されて、午前4時にはかなり離れた海上で投錨、沖待ちとなった。そんな事で今日は船上での一日となった。 全員でブース周辺の大掃除、展示品の整備等アブダビでの最後の見本市準備を午前中行った。 お昼は食堂からの心遣いで、お弁当が配られ普段は禁止されている甲板での昼食会となった。みんな上半身裸で、部屋から持参したビールやウイスキーを飲んで3時ごろまで宴会?を楽しんだ。 今から思うと当時は実に良く飲んでいたものだと驚く位、でも記憶では誰一人無様な醜態を晒すような酔っ払いはいなかったな。 放歌高吟する奴もいなかったし、他の人に迷惑かける野郎もいなかった。3時頃お開きになった後は洗濯デーとなった。 船底の方に洗濯機があったが、行くのに不便なので殆どの人がバスタブで下着類を洗い船室に紐を張って吊るして乾かした、バスラもクエートも湿度が低いし連日の晴天で2−3時間で乾いてしまう。そんな事をやってるうちに夕食の時間、大勢の仲間の中には、殆ど毎回食事の献立を聞いてきて皆に知らせてまわる面白い野郎がいて、それが今夜はビーフステーキだと知らせてくれたから、 今夜の夕食は全員出席!と相成った次第。

◆12月16日
航海日
今日はクエート港からペルシャ湾を南に約850キロのアブダビへの終日航海日だ。
昨日ブースの仕事はかたずけてしまったので、今日は完全な休日、 快晴で、波も静か、エンジンの音も低く単調な響きを繰り返しているだけ。60日以上も一緒にいると皆な旧知の間柄の関係になって、10時頃より甲板で日光浴? 上半身裸でも暑い位、そして午後は言い合わせたように船尾の大浴場に集まり、浴後は三々五々、それぞれにビール、ウイスキー、ジュースを持ち寄って甲板で酒盛り、こんな光景だけ見たら会社の連中は、どう思うだろうね、 6時ごろペルシャ湾の夕陽の光景、どんな風だったかは画像を見てください。 可笑しな事に あれだけわいわいと騒いでいた連中もこの夕陽の時はみんなシ〜〜ンとして見つめていた。 それぞれに皆故郷の事 家族の事を思い出していたんだろうね。



12月17日
アブダビの美女集団
目が覚めたらアブダビ港の沖に停泊していた。 暫くたったらタグボートが曳航に来たがその船の画像の船員達の服装に注目!

10時から何故か一般公開日、 着いた岸壁は街から6キロも離れた場所で、交通機関は車しかない、誰も来ないだろうと思っていたら、なんと6000人もの入場者とか、聞けば殆どの人が「日本?」 それは何処にある? そんな位知られていないのと、レベルの高い雑貨から家庭用品まで用意してあるとの噂が広まっていて好奇心一杯の人が押し寄せたらしい。この一般公開は3時で終了。 その後4時から「女性特別時間」として7時まで開場された。 今迄の見本市会場でこんな女性だけの時間帯を作ったのは此処が初めてだがその理由は不明、 ま理由はともかく「アランビアンナイトの美女集団」の乗船を皆心待ちにしていた!! 4時それぞれのブースでみんな期待と好奇心一杯で待っていたら、来た来た、来た! セミヌードの八頭身のすらりとした美女集団・・・・・・と想像していたら、なんと殆どの女性が頭から白い布かぶって目だけ出ている、それはそれで良いのだが 魂消たのは、つけてきた香水の強烈な匂い、 香水ってものは ほのかに漂ってきて、あれ?と思わず振り向かせる位の香りで良いのに、全員が夫々の好みの香水を「浴びて」来たので狭い船内はもう「悪臭」であった。 香水も種類の違うものが集まると「悪臭」になるとは知らなかった! 目だけしか見えないのだから美女かブスか不明、ばあさんか若いのかも不明、我々は殆どがこの悪臭にやられて 美女だろうとブスだろうともうどうでも良いから早く出て行って欲しい気分!さらに言葉が全く通じない、 先方がベールの下で何を言っているのか、全くわからないが、兎に角態度からカタログや無料サンプルを要求しているのがわかったのでそれを用意しようとしていたら、集団で押し入ってきてひったくるようにして、持って行った。 皆でやれば怖くない!女性の集団の恐ろしさを身をもって体験しました。他のブースでは陳列棚の見本まで持って行かれたとか、7時半警備員に押し出されるようにして美女集団は下船、まさに台風一過、残ったのは散乱しているカタログ類や彼女達の置き土産の「強烈香水ガス」・・・9時の夕食の時はこの美女集団の話で持ちきりだった。

◆12月18日
アブダビでの見本市は、全く変則的で 今日の午前中が報道関係者招待で、午後は3時過ぎからアブダビの商工会議所役員や政府、金融関係者等の特別招待日となっていて我々は午後これらの人々に対する説明実演を5時まで行った。特別な質問も無く、ただす〜〜っと通り過ぎていくだけで、拍子抜け。 多分彼等の狙いは5時過ぎから始まる日本側主催の歓迎パーティーの夕食会だろうと雀達のもっぱらの噂だった。 とにかく来場したのは400人と言うから さだめし大変なパーティーになっただろと思います。 勿論女性は一人もおりませんでした。私は現地の取引先社長と一緒に下船してアブダビの街の店で商談をしたが、この街は緑が全く無く、

画像の建物は外装だけでまだ建築中、その向うの外れはもう砂漠で外に出て暫くすると体全体に細かい砂埃が一杯ついている状態で住み心地が良いとはお世辞にも言えなかった。船に乗る前に岸壁で 体を叩いたら、細かい砂埃が風に舞って行った。 本当に大変な所です。

◆12月19日 見本市終了
アブダビでのビジネスデー、 なんと見本市最後の日がビジネスデーでありました。11時過ぎに予め招待しておいた現地の取引先と昼食を一緒にしようと船内の食堂に案内したら、なんと「菜食主義」である事がわかり往生しました。 予定していた献立を食堂に頼んで急遽変更してもらって事無きを得ましたが、そんなら初めから、そう言ってくれよと恨んでも後の祭り、そんな冷汗をかいた一幕がありました。全体的に今日は閑散として、先日の美女集団や おえらい様集団とは全く違った、此処では新しく商談や取引開始に到るような経済基盤が無いのかもしれない。5時過ぎ終了。 今日で10月半ばより始まった見本市も終わった。 感無量!

部屋に戻ったら家内からの手紙がベッドに配達されていた。 早速開封して懐かしい様子を楽しんだ、同封されていた息子の絵の画像を見てください。之は家族でレストランに行って食事をしている風景だそうです。 家内が色々と細かく解説をつけてくれましたので良くわかりましたが、之を御覧の皆様 内容おわかりになりましたか?


明日はドーハへの航海日、そして21日はドーハから飛ぶんだと思ったら、もう一度に 気が抜けてナンもする気なし、同室のFさんも、ポッケ〜、夕食後大浴場に行ってから何となく集まってビールで乾杯して、みんな早々に11時には船室に戻って寝てしまったらしい。みんなもう帰国の事で頭一杯の様子だったなあ。

◆12月20日
アブダビから最終港ドーハへ
朝8時過ぎ、見本市終了のさくら丸は岸壁を離れて 沖待ちの状態、すぐドーハに出港すればと思うが色々事情があるようで、船が出港したのはなんと午後3時だった。明日のドーハでは特別招待日で一般は無いので、実演説明は最小限度で良いように小間の整理整頓を午前中行い、残った色々の資料の梱包をして船倉に搬入。午後は今度は自分達の部屋の大掃除と個人の持ち物の整理開始、 60日以上もいると、どうしてこんなに溜まるかと思う位色々雑多な小物が溜まっていて、その処分に一苦労。 夕方までに殆ど処分して梱包してこれも船倉の指定場所に搬入した。 我々が下船後これらの荷物は全て指定場所まで送ってくれるので大助かり!
明日の夕方には皆なお別れになるので、今夜は盛大なさよならパーティとなった。
場所は毎回私の部屋で、今夜も同じ、サア最後だと言うので今まで大事に保管してきたサントリーのウイスキーを誰かが持参、 之はあっという間にカラ!次は免税で買ってきたジョニクロが3本 これを数人が部屋の床に車座になって回し飲み大会。他の部屋でも同じ状態で、大宴会! 10時ごろになると隣の部屋から飲んでくれと
ウイスキーの差入れもあったりして、本当にみんなよく飲んだ。 私はもうとっくにダウンして寝てしまったが、夜中ふと目を覚ましてみたら床の上に3−4人がごろねの状態、暑いので風邪引く心配はないが、空き部屋から勝手に毛布を引っ張り出して彼等にかけても、ピックともしなかった。 多分午前3時か4時頃か 船はもうドーハの沖に停泊しているらしい。

◆12月21日 ドーハ そして帰国へ
7時過ぎ、床に転がっている野郎を蹴っ飛ばしておきろ! 二日酔いそのものの顔で夫々の部屋に戻っていった。 10時接岸、岸壁の隣に日本郵船の「山重丸」が投錨していた。

久し振りの日本船、船尾の日の丸がとても印象的だった。 少々ピンボケですが画像を見てください。  此処では11時から2時まで、ドーハの政府関係者の特別招待日なので、彼等が下船するまでのお付き合いで楽な日程だった。

3時過ぎ とうとう全てが終了した。 記念に「ひげ面」の画像をお目にかけます。

このドーハの町は砂漠の端に、セメントで無理やり港湾設備を作った様な所で、石油ブームが無かったら、小さな漁村であっただろう、甲板から見た港の風景と上空を飛ぶ旅客機の左側がドーハ国際空港です。 画像を御覧下さい.


下船の時間もあるので早めの夕食を兼ねたお別れパーティ、夕べあれだけ飲んだせいか、飲んだのはこの船でそのまま横浜に帰る見本市職員の人だけで、殆どがお茶で済ませていた。このドーハから帰国するのは約40人ほどで皆な揃って8時に、さくら丸とお別れして9時に空港待合室に入った。 ここででの出国審査 税関検査は全く正常で今迄の酷さが信じられない位だった。 予定では23時搭乗であったが、何故か延々と待たされて結局搭乗できたのは22日の午前2時!! やっぱり中近東だった。

◆12月22日 帰国
ドーハ空港を離陸したのは、午前2時、此処から南周りでインドのボンベイ、タイのバンコック、さらに香港で最終給油整備して羽田に着陸したのは日本時間で夕方7時でした。 羽田で通関して荷物引き取って外に出たらもう9時近くで、名古屋には帰れませんので出発と同じ品川のホテルに10頃宿泊しました。 もう20時間も狭いエコノミー席に座り、3回か4回位機内の食事を食べて来たのですから、本当にクタクタでその夜はどう過ごしたのか記録無しでした。

◆12月23日
息子に逃げられた!
ホテルで朝食後早速新幹線で名古屋に11時に着きました。 予め家には名駅到着時刻を連絡してありましたので、家内と息子が迎えに来てくれました。 65日ぶりの再会! 定めし感動的な出迎えであろうと想像されましたが、改札口で息子と対面、飛びついてくるかと思いきや、なんとなんと息子は半べそかいて、家内の後ろに逃げて隠れてしまいました。  なんともいやはや びっくり、がっくりで言葉無し!息子に逃げられるようなオヤジでありましたか?  自宅に帰って庭で息子と一緒の記念写真?撮りましたが、この時もまだ怪獣に捕まった様な気分だったそうです。

後日聞きましたら、 この「ひげ面」に恐怖心を感じたとか、へ〜〜え、そんなに人相悪かったかなあと少々がっくりです・

◆12月24日
朝8時出勤です。 長期出張したんだから翌日は休暇でも良いんじゃないかと思うのは考えが甘い甘い! わが営業部は即出勤、仕事開始であります。こんな事で10月以来の長い出張記録は今日で無事終了となりました。 大病も怪我もせずに無事帰国できました事を神仏に感謝、感謝であります。 有難う御座いました。

◆さくら丸のその後
1976年にお世話になったさくら丸はその後も世界各地に巡航見本市として活躍して1980年に時代の変化と共にその使命を終わりました.その後三菱造船で改装されて客船となり、当時珍しかったクルーズのはしりとして活躍しました。 この写真は1983年静岡沖の新さくら丸の客船のしての姿です。 船尾の丸印は当時の私の
部屋のあった場所であります。