【出戻り営業部編】 テヘラン〜台湾〜帰国
(1977年(昭和52年)

平成24年2月26日掲載


◆7月16日 イランの首都テヘランのホテル
 イラクのバグダットで午前4時に起床して、空港を8時に離陸、 テヘラン空港に現地時間11時着陸。 迎えに来てくれた現地取引先の方の案内で テヘラン国際ホテルにチェックイン。 一泊日本円で11.600円(2900リアル) 随分高いなあと思ったがテヘランでも有名なホテルと聞いて諦めた。荷物を部屋に入れてから 現地の方と山の中腹にあるレストランで昼食を頂いた

◆チキンカバブ
 イラン産の細長い粘り気の無いお米を炊いて 熱々のメシの上にタップリのバターを 乗せる。 さらにメシの真ん中に生卵が一つ 周囲に紫タマネギの輪切りが添えてあって そしてその上に あぶったチキンの肉が どっさと乗っている。 とまあ こんな状況を想像して下さい。
その量たるや半端じゃない、生卵とバターをかき混ぜて それをスプーンでチキンとともに頂く。タマネギは 甘くて美味しくびっくりした位。 最初は たべられないと思ったが今朝から ろくな食事をしていなかったので、胃袋から手が出て 殆ど食べてしまった。 初めての経験だった。食後に出た「西瓜」はラグビーボールの様な形をしていて、それを豪快に四等分、その一切れにかぶりつく、 種は少なかったが、皿の上に吐き出す、 皿から飛び出して行方不明になっても、気にしない、気にしない。 西瓜の味は淡白そのものだった。

◆これが国際ホテル??
商談は明日からと言う事で 3時にホテルに戻って 部屋で荷物の整理やら明日の準備にかかろうと思ったら、停電! なんじゃあこりゃあ? ボーイに聞いたら 停電は当たり前で 30分もたてば又電気が来ますと平然たるもの。 へ〜〜そんなもんか 文句言っても始まらんので 部屋のベッドで半分ヤケクソで昼寝?をしていたら ボーイの言う通り 電気がついた。 いつまた停電になるかわからぬので 大急ぎで荷物の整理して 早めの夕食をホテル内のレストランで ビールとサンドイッチですませて戻ったら又もや停電! もう寝るよりほかにする事なしだ。 部屋にはテレビもラジオもなし、 うとうとしていたら、耳元で「ぶ〜〜ん」と昔聞きなれた羽音がするではないか、ありゃあと起きて電気つけようにも停電で真っ暗、仕方なく枕元の現地新聞で ベッド周辺を叩きまくった。 テヘランまで来て 夜中に「蚊退治」するなんて想像もしなかったね。 盲撃ちが功を奏したのか 蚊はいなくなったので 再びベッドに入ったら 今度はエアコンの音がやけにうるさい!之だけは新聞で叩くわけにもいかず、仕方なくスイッチを切ったら 蒸し暑くて眠られず!!これが 有名な国際ホテルかよ と悪態ついてもどうにもならん ひどい夜だった

◆7月17日 がっかり朝食
6時半、寝不足の目をこすり起床洗面 7時半朝食 夏みかんらしきもののジュース 堅いパン、すっぱくて食べられなかったヨーグルト ぬるい紅茶と半分溶けていたバター、 バグダットはひどかったので 多いに期待していたのだが変わらずがっかりした。 バグダットではボーイがまるで秘密警察の回し者ではないかと思う位無表情無愛想だったがここのボーイは気軽に話しかけてくるし 笑顔もあってそれだけが良かった。

◆密輸品の山
9時から 商談開始、午後2時に昼食 今度は「チェロカバブ」の店に行った、 内容はチキンの代わりに得体のしれない肉片が乗っていただけで後は昨日と同じ 飲物は 今朝ホテルで飲めなかった。すっぱいヨーグルトがまたもや出てきた。 これがテヘランの日常飲料らしいが 私にはとても飲めなかった。 3時過ぎの商談の時に最近の「smuggling]のひどさに手を焼いているとの話が出て、某社が安い某国製のミシンを超安値で販売開始したので市場は大混乱、これを日本側で取り締まれとの要求、そんな無茶なとは言ったものの 実態はどうなのかと聞いたら 某社が最近密輸で買った某国製のミシンが全部不良品でその処置(密輸品なので法的な処分が出来ない)に困って 野積になっている現場に案内された。

山積の不良品の状態の画像を見てください。


もしこれがきちんと作動して市場に出回ったら、価格的にとても対抗出来なかったと、不良品でよかったと変な意味で安堵した。日本製品は優秀との評価が定着しているので、某国がブランドも偽造して日本製にみせかけて密輸している・・それを買って大儲けする輸入業者もいる。 A社のXX B社のXXがそうだと具体的に例を挙げて説明してくれた。  密輸取り締まりは 政府間同志の話し合いで処理する問題で、我々では手が出せない旨説明したが 到底納得したとは思えなかったな。

夕食
今夜は 取引先の招待で一緒に夕食しましょうとの話で時間は7時からとの事。 6時過ぎ 迎えの車で行った先は事務所! 入ったら 何がどうなって こうなったかわからぬが取引先の役員?が4−5人いて、夕食の筈がいきなり具体的な注文台数 価格 納期 支払い条件の商談開始!必要資料は全てホテルに置いてあったので、記憶を頼りにやりあったが、これは芯が疲れました。夕食なんてそっちのけで9時までやりあって それから 夕食会場の中華料理の店に行った。行った途端に停電! テーブルの上にローソクが用意されていて、ボーイが馴れた手つきで点火、どのテーブルも同じ、外から見たら情緒があってよい眺めかも知れぬが こっちは不意打ちの商談でいささか疲れている上に、薄暗い明かりでは 運ばれてきた料理が これは一体なんだろうと良くわからぬ、食べてみて何となく納得した程度。 テヘラン風味の中華料理と思ってください。

食事中も仕事の話ばかりで、イランの経済状況等の話題を出したら皆な一斉に黙りこくった、そのうちの一人が声をひそめて、此処では政治経済の話は絶対にしない事、密告者が報奨金目当てに些細な事でも政府批判者として警察に密告して、関係者が逮捕される だからホテルにテレビもラジオも無いんだ。 マスコミは完全に政府側だから ホテル内でも用心しなさい と教えてくれた。日本だったら 大声で政府の無能呼ばわりしても、逮捕される事はない、此処はこんな怖い所かと認識を新たにした。午前一時 ホテルに戻り、あのやかましいエアコンを睨みつけて就寝した。

7月18日
毛糸編み機の先生
日本から単身イランに来て各地を巡回して地元の女性に、毛糸編み機の使用方法を教えて廻ったM先生の地道な努力が実ったのと、イラン市場での需要が急増した事で最近の編み機の注文数はX万台にもなっていた。 イスラムの世界では女性は裏方の存在であったが少しずつ女性にも自立の機運が萌え始めていた。特に大事なのは女性が働いて収入を得る事だが、女性を集めて集団就職出来るような企業はその頃無かった。 編み機は自宅で女性が好きな時に好きなだけ操作して出来上がった製品は近くの問屋が集めてそれを市場で販売する、それで報酬を得る事が出来る、そんな事でイランの女性の間では編み機を買って収入を得る事が流行になってきた。
日本からのM先生は、いち早くその傾向を察知して方々に、編み機の指導を出来る先生の養成をされてきた、テヘランでも、編み機教室が作られてそこに編み機持参で大勢の生徒が習いに来ていたそこの先生(画像参照)と取引先の社長から、編み機販売拡充と先生養成の為に、日本での短期留学?費用は日本負担での要請が出てきた。 画像の先生は編み機の先生方の中心的存在で彼女が日本に行く、帰国後は先生の養成に専念するとの計画で、費用負担は」後日検討として早速その実現にとりかかった。


念のためにテヘラン市内のデパートを見学(画像参照、此処では緑と水が大事なシンボルでデパートの1階には豪華な噴水付き庭園が造られていた) 品物は豊富で、中でも毛糸製品は大人気らしい事が見ていただけで感じられた。 バグダットとは生活レベルに格段の差がありました。


7月19日
日本料理店
8時から打ち合わせ開始、またもや停電、やる気そがれるなあ。先方は慣れっこで、「インシャラ〜」。停電如き出でカッカする方が可笑しいと言われそうな雰囲気、 電気がつくまでティータイム。事務所内でも政治経済の話は一切ご法度だ。 電気が来てから又商談開始。 午後市内の日本のT銀行訪問、此処では応接室でイラン経済の見通しや 現在の王政の問題点等忌憚の無い意見を安心して聞く事が出来た。 支店長はここにもう2年近く駐在しているベテランであったので、今日の訪問では得る所が大きかった。 お礼に市内にある唯一の日本料理店「日本橋」に夕食を招待した看板だけ画像で見てください。



5月末か6月始めに出来たばかりの店で女中は全員日本人、客は現地の人だけのグループと日本人グループが半々。 何故か手順が全く悪くて料理と料理との間が長すぎる、てんぷらは形だけで不味い!焼き鳥は焦げすぎ、すき焼きは辛くて閉口 そんな事で折角招待したが銀行の方には申し訳なかった。 たった一つ良かったのは 久し振りで日本酒が飲めたこと 之だけは偽者では無かった。 ホテルに戻ったのは11時過ぎ、相変わらず効きの悪いそのくせ騒音だけは一人前のエアコンが、ガタガタ・・風呂に入ろうと思ったら、タオル類何も無し、フロントに怒鳴ったら、それでも ソオリ〜ソオリ〜と言いながらボーイが飛んできた。

ヤレヤレです。 あ、書き忘れた、 停電、 日本橋でも食事中に二回もありました、お決まりのローソク照明です。 厨房でも停電している様子でしたから多分これが散々待たされた原因でしょう。

7月20日
テヘラン出発
朝9時より最後の商談をやり午後市内の販売店を訪問、残念ながら先方の言葉が理解できないので、その都度英語に翻訳してもらって,jこちらの英語の返事ををまた通訳して伝えてもらう、この繰り返しで大分時間を費やした感じ。 現地語の話せないのは辛いなあと思うが 日本ではイラン語の先生はいなかった。 仕方ないか「インシャラ〜」であります。 夕食は空港のそばの、インターコンチのホテルでバイキングの夕食1000リアル(4000円)、これは今までに食べた中で一番美味しかった食事、 テヘラン出発の最後の日にこんな美味しい食事が出来たなんて、なんたる皮肉!

イラン航空で7時出発の予定で6時前には空港にいたが、出発の案内が全く無い、聞きそこなったかと、カウンターの姉様に聞いても 「待て」の一語 ワンコじゃあるまいし、涎たらして待っておれるかと腹立てても相手は馬耳東風・・・8時 何も無し 9時、10時何も無し そのうちに待合室の乗客は段々と減って10数人、 日本人(外人)は私一人だけ。 たまりかね手もう一度あねご殿に聞いたら機材故障で調整中と わけのわからん返事。 空港内の売店も閉めて ただただぽっけ〜と天井見ているだけ・・見知らぬ国での、予想外の出来事に対応するには 相当太い神経の持ち主でなければ勤まらないな 俺様は落第だねと感じた。 11時過ぎ やっと姉御から搭乗機OKの案内が出た、後なにかしゃべっていたが理解出来ず。 ・・機内に入り席に座ってほっとした。 実際に離陸したのは午前0時 空港で6時からなんと6時間も待たされたが 離陸したら、そんな事はどうでもええとなって、寝てしまった。

7月21日
昨夜午前零時にテヘランを離陸して 現地時間午前4時にインドのデリーに給油着陸、再び飛んで今度は泰のバンコックに朝の8時、その間機内では夕食なのか昼なのかもう時差が混乱してわからぬままに出された食事を頂いた。 そしてバンコックを9時過ぎに離陸して 最終目的地香港に夕方の5時着陸。 一体何時間搭乗していたのか、機内から出て歩いたら体がまだ乗っているような気分で気持悪かった。 もう何も考えられず香港のホテルに直行した 夕食をどうしたかは日記に記載が無いので多分風呂にでもはいってそのまま寝てしまったのだろう。

7月22日〜25日
香港から台湾へ
香港を11時の便で出発、台北に12時着 ホテルに荷物を置いて午後台北の取引先との商談夕食の台湾料理は、もう安心して食べられたし ホテルのエアコンは静かで快適、久し振りに安眠出来ました。23日と24日は終日台北の取引先と販売店訪問で終わった。秘密警察なんていないし、商習慣はちゃんと守られるし、片言でも日本語が通用するし、全てにイライラする事なし。バグダットやテヘランとはえらい違い様だ。

7月26日帰国
台北を11時半に離陸。四国の室戸岬の上空から大阪吹田の操車場を見て伊丹に15時着陸。すぐ新大阪まで走り 名古屋駅に17時到着。 奥様と息子が迎えに来てくれた。今回は髭をはやしていなかったから、息子に逃げられる事はありませんでした。・・・えらく記憶力がええなあと思われるでしょうが 現地から出した私の日記風の手紙を女房殿が全部きちんと保管していてくれたお陰で、この思い出が書ける次第です。女房度に敬礼!!今回はこれで終わりです。昭和52年 私が46歳の時。 54年に営業部卒業となる。色々と思い出が走馬灯の様に脳裏を駆け巡るが、今日昭和87年、こうやって原稿を書ける喜びを噛締めている。