◆昭和52年(1977年)の一年間 今までは私の海外出張の記録が中心でしたが、私が日本にいる時 いない時に我が家を中心にどんな事があったのか昭和52年当時の日記から抜粋します。 1月 息子は幼稚園の年中組、 庭で見よう見まねでおやじとキャッチボールの遊び(ボールは玩 具の柔らかい物)をするようになったが、小さなグローブで受けるより「顔面キャッチ」が多か っ たな。 2月 昭和46年から乗っていたクラウンを三菱シグマに替えた。 3月 中村の願隆寺に行く途中 話に夢中になって信号に気付かず、道路の向うでポリさんに呼び 止められて、信号無視した事に気付いた。 交番所の目の前! 散々油絞られて 罰金6千円昭和36年に免許取得以来、初めての交通違反。 それも最低の「信号無視」をやらかした 4月 半ば頃岩手の親類夫妻が来名、ご近所のKさんの家の昔からの「臼」を借りてきて、近くで摘んで来た「蓬」を使っての本格的な「餅つき」をした。 出来立ての蓬餅をKさん宅に届けたらおじいちゃんがとても喜んでくれた。 このおじいちゃん その三日後に肺炎で急逝された。この頃より義弟のKが体調不良を訴える様になり 検査結果関節リューマチと診断、2週間会社休んで静養する事になった。 後日これが「誤診」では無かったかとの疑いも。 7月 子供用自転車の補助輪をはずして 乗れるようになって、一挙に行動範囲が増えた。お盆の頃庭にビニール製のプールを設置したら 息子とその友人が7−8人 毎日来て我が家は臨時保育園の状態で女房は目をまわした。月末 植え込みにいた「蜂」に刺されて 息子は地球が振動する位の大泣き。 8月 私が中近東出張から帰国してすぐ息子は皆なと岩手に4泊5日の旅に出た。私は留守番9月 この頃「宇宙戦艦ヤマト」が大流行。 駅前の映画館で,二周りも付き合わされて閉口した。この月の半ば頃 義弟の体調急速に悪化、名鉄病院で精密診断の結果 肝臓癌と判明 既 に 転移していて余命三ヶ月と宣告された。 大ショック! 10月 息子が自転車で転倒、額に切り傷、運よく近所のKさんとHさんがいて Hさんの車ですぐ近所の安井病院に運ばれそこで 2針縫っての処置をして頂いた。何度か病院に通って13日に抜糸、 元気になった。 その傷は薄くなったが額にまだ残っている筈です。 16日 息子の幼稚園最後の運動会、来年はもう小学校行きだ。義弟衰弱ひどく 最期の帰宅を薦められて27日帰宅した 11月4日病状悪化で再度名鉄病院に入院、 7日の午後7時に亡くなった。享年44歳。 義弟は名大の経済学部卒で私の後輩で、不思議に気があって将来を楽しみにしていただけ に 本当に残念だった。 12月 毎年恒例の忘年会を兼ねた取引先への挨拶回りの日々、 東京から大坂そして地元と文字通り連日連夜のお付き合い。 相手変われど主変わらず で29日まで地獄の日々だった。 一年間の記録を抜粋してみますとこんな事です。 忘れていた事や ああそうだったと思い出す事も沢山在りました。 これからも機会のある都度、家庭の出来事を書いて見ます。 |