【資材部編】人皆是我師也
平成21年8月7日


材部には、なんと14年間在籍しました.。この長い年月の思い出は数限りなくありますが
その中でも、絶対に忘れる事の出来ない思い出が在ります。それはこの間に私に色々と
教えてくださった方々です。特に資材部と言う部門はその扱い品目が多岐にわたり、それを
個々に熟知する事はどんな秀才でも不可能だと思います。そんな環境にいて、何とか首にもならず業務を遂行出来たのは、夫々の業界の専門家が、親身になって教えて下さった賜物のお蔭です。 具体的にAさんが何を、Bさんがどうのとは書けませんが、本当に何百人の方のお力を頂いたか、もう感謝の念で一杯です。 何年か後電機事業部の事業部長時代に労働組合の機関紙に対談形式で私の記事を載せていただきましたが、その中に座右の銘として「人皆是我師也」を挙げましたが、これは全くこの資材部時代に経験した事が基礎になっています。 いささか先の話になりますが、この後輸出営業部に戻りさらに製造部に異動しました。その時には又異動か、一からスタートかとうんざりしたのも本音ですが、この国内海外販売経験 資材部での原材料購買経験、そして欠けていた製造の経験を積む事によってその時に教えていただいた取引先の方々だけでなく 同じ部門の先輩後輩のサポートで、この未熟な私がどの位ピンチを救われたか枚挙に暇がありません。つくずくと私は幸運の星の元に生まれたんだと感謝しています。 逆に見ますと私が秀才なら誰も助けてくれなかったでしょう、鈍才であった為に廻りの皆さんが同情して助けてくれたんだと思います(鈍才も時にはこんな良い事があるんですぞ)

◆忘れえぬAさんの思い出
昭和39年の正月
本来ならば一人一人のお名前を列挙して御礼申し上げるべきですが、何百人のお名前は書けませんので、特に印象に残っておりますAさんのことを今日は書こうと思います。
彼は私が資材部のまだ駆け出しの頃配属されて来ました。 こっそりと彼の高校時代の成績表をのぞいたら、私とは雲泥の差、まさに「トップクラス」の秀才でした。 本来ならば当然大学進学した筈でしたが家庭の事情で高卒で入社、一緒に机を並べて仕事しましたが、彼の仕事の習熟度の速いことに驚嘆した事と、資材部とはどうあるべきかの本質論で私と全く同じ考え方である事がわかり年齢の差を飛び越えて仲間意識が強くなりました。 そんな彼に非常に期待したのですが、残念ながら昭和37.8年代では、まだ旧態依然たる壁が到る所にあって彼の提案意見は正当に評価されず、このまま会社勤めを続けるべきか随分と悩んだ末昭和39年末に退社してしましました。心を割って話あえる仲間が辞めて本当に残念でしたが私には当時辞めても他所で発揮できる才能も無く、敢然として自分の道に突き進む彼を羨ましく思ったものです。  そのAさんは他所の会社に就職する事なく某楽器会社のピアノ調律養成所の試験に合格して、朝8時から10時までの学科と実技の鬼の特訓を受けて通常三年掛かる所を一年でマスター、優秀ピアノ調律師として社長表彰をうけた位の本物の秀才!
昭和51年の2月に同好の志三人と楽器販売の会社を設立して、社長となり自ら調律の仕事と楽器販売の営業の仕事に専念し、以来30年の長きに渡り会社発展の為に現在まで頑張ってこられた。勿論景気変動の影響で大変な時もあった様ですが、一貫して会社経営に専念されて何度と無くあった危機を乗り切ってこられたと聞いている。

影の声: なんだか彼一人でやってきた様に思われるでしょうが、野次馬の見る所、彼の家庭サービスは殆どゼロではなかったか、朝7時過ぎ出社、夜10時過ぎ帰宅、しゃべる言葉は「メシ 風呂 寝る」の三語だけ? そんな彼を後ろから文句も言わず支え続けて来た夫人と子供達のオヤジを愛する家族愛に対して早く三顧の礼をとらないと、夜中に外に放り出されはしないかと案じているんですが・・・・余計なお世話だ!、 ハイハイ 引っ込みます・・・・・
 普通ならば退職された方との交流はそんなに長続きしないものですが、彼との交流は昭和37年以来実に47年間続いていますしこれからも続いて行くものと信じています。  どうして、何故こんなに長続きしているのか、その理由を聞かれると困りますが、何となく共通しているのは、お互い相当筋金入りのガンコ人間である所が理由ではないでしょうか? (この項は彼には内緒であります)
もう一つ彼の特色として挙げられるのは、目標を決めたら徹底してそれに取り組む事でした。会社経営の事は当然ですが、パソコンがまだ一般化する前に彼はこれからはコンピューター時代になると見際めをつけて、パソコンを購入、当時「意味不明、解読不可能、」と酷評されたパソコンの使用説明書を、自宅で独学で勉強して完全に自分のものにしてしまった努力家でもあります。このお蔭でパソコンについてわからない事があったときは、彼が先生役で教えて頂いております(勿論 授業料はタダであります、累積授業料は1億円位溜まっていますかなあ、) ほかの事でも納得出来るまで勉強する姿勢は今も変わっておらず、本当に敬服の一語です。年は私より遥かに下ですが、経済変動に対する対処の方法は、私より遥かに上である事はもう率直に認めます。私の大嫌いな「ケインズ経済学」を彼が読んだらどんな理解をしますか、想像しただけでも楽しくなる、そんな彼と現在まで交流を続けられたのは私にとって大変なしあわせであります。 
◆他界された方々の思い出
資材部にいました時の私の先生役:指導役:アドバイザー役をしていただいた多くの方々が おられました。殆どの方が現在も第一線で会社経営の重鎮としてご活躍中ですが、一方で残念ながらお亡くなりになられたかたもおられます。 順不同で亡くなられた方の思い出をほんの僅かずつですが書いてみたいと思います。
Mさん
大阪のゴム関係の会社の名古屋支店長さん。ゴムの原材料から製品化に到る工程を図示して教えて下さった。ゴムの劣化の怖さを始めて教えてくれた方。(平成2年1月没)
Aさん
昭和30年代に人気のあった漫才師のBさんに容貌が似ていると言う事で誰からもBちゃんの愛称で通っていて、Bちゃんと呼ばれると本人も「お〜〜い」と返事していた営業部長の肩書きに拘らず気軽に走り廻って面倒見の良い先輩でした(平成13年4月没)
Hさん
上前津の個人総合商社の重役さん、商品知識は抜群で生き字引でありました。 某日一緒に麻雀をやりました。 「あ、つもりました、面前トイトイです」 麻雀の出来る方はすぐピンと来られる筈・・これは「スーアンコウ」と称して役満の手なんです、それをとぼけて「あつもりました」なんてシレーっとして言われるものですから全員毒気抜かれて重役さんの一人勝ち。   (平成15年3月没)
Nさん
合成樹脂会社の社長、樹脂夫々の特性を熟知されていて、こちらの設計図面の不備を随分と修正して頂いたし工場内で成型の工程の教育もして頂いた、この会社に営業部長さんとしてHさんがおられたが、Hさんはトラぶった時にその調整役で随分と助けていただいた。残念ながらNさんは平成13年 Hさんは平成16年に亡くなられた。
Kさん
小型精密部品の会社の社長さん、 明治の古武士を思わせる立派な方だったが特筆すべきは納期遅延は一切無く、受け入れ検査結果も不合格は皆無に近くて安心して発注出来た素晴らしい会社の社長さんだった。 (平成10年10月没)
Fさん
奈良市にある有名企業の営業課長さんで、あだ名は「豆タンク」、小柄だったがその情熱と努力には敬服した。 なんども奈良の工場で現場の方々と一緒に問題点解決にチカラを貸していただいた。 今でも彼の笑顔が浮かんでくる(昭和62年3月没)

まだまだ多くの方々がおられますが、紙面に限りがありますので、次の機会として亡くなられました多くの先輩に感謝とともに心からご冥福をお祈り申し上げます。